映画「プレデターズ」

 昨晩、テレビで映画「プレデターズ」を観た。これはシュワちゃんの第1作目、ダニー・グロヴァーの第2作目からの第3作目となる。第3作目ともなるとプレデターはもう未知の生物ではなく「ありき」となるので、僕達は彼らの特長や人格をある程度理解している。攻撃パターンや種族しての特質なども創造物だとは言え人権が存在し始める。第1作目ではただの凶暴な地球外生命体であり、第2作目では少しずつ狙いとか意図を理解しながら主人公に対して「頑張れ!」と応援するのが刺激的になる。だから、第3作目はガラリと設定が変わり登場人物達も選りすぐりの面々が揃うパターンになる。その状況でプレデターが何を考えてどうなるのか?という部分が醍醐味であり真骨頂であり本丸なのだ。さて、結果はいろいろあって凶悪強靭なプレデターが倒されるのだが、その登場人物達の中に日本のやくざというタイプの男性がいた。地球上ではツワモノとされるタイプの人間の中にである。ひとりグレイのスーツを着て丸坊主。他の面子は高性能のライフルや強力なマシンガンを携帯しているのにそのやくざは拳銃一丁。それでかのプレデターに立ち向かう姿にとても共感してしまった。この監督はやくざを日本の侍と重ね合わせているかのごとく。一人ひとり強靭なツワモノ達がプレデターの赤いレーザー光線や青色に光るロケットランチャーのような武器に殺されていく中、このやくざは恐怖ひとつ顔に浮かべない。そして、彼は古い宇宙船の中で日本刀を発見する。SF映画で登場する日本刀の存在はなんとも異様であり異彩を放っているように僕は感じる。やくざがその日本刀を握るとなんだか無償に心が動く。高性能ライフルや巨大なマシンガンやサバイバルナイフではこうも心が震えないのに。

 そして、夜の草原で仲間達を先にやりそのやくざは追ってきたプレデターと一対一で対峙する。プレデターもレーザー光線や光のロケットランチャーで一撃すればいいのに、右手に仕込まれた刃をシャキン!と抜き出して日本刀を構えるやくざと対峙する。結果、プレデターとやくざは相打ちとなり共に草原で息絶える。圧倒的な力の格差がありながら、あえて得意の武器を封印してプレデターは何故、日本刀を持つやくざと真っ向から勝負をしたのか?

 僕はプレデターでもやくざでもないのでその真意の程は分からないが、自分の武器を信じて一対一で相手に挑む時って、人間も宇宙人も「そういう気持ち」になるのだろうかと、とても新鮮な感銘を受けた。江戸時代まではそんな日本人が多く実在していたのだろうし、そのDNAはこの現代、どのように我々に作用していのだろう?散切り頭を叩いて文明開化の音を聴いた人達はこの精神を悪しき文化と放棄したが、間違いなくその精神はどこか身体の中に残っているはずだ。「和の文化」と言えば、格式高い荘厳で厳粛なプロトコルばかりが持て囃されるが、僕はむしろ「和の文化」とは一本の日本刀のような個の精神をどこまでも研磨し研ぎ澄ました先にある「切れ味」に似ているような気がする。人命を殺める道具が文化の革新を遅延させるロジックはよく分かるものの、同時に大切な強さや深さも遅延・鈍化・萎縮させていたとしたらとても残念だ。

練習場

mavic_air_180916.jpg

 いつも行っているゴルフの練習場です。風速5m以上あったのでちょっと画角が傾きます。それでも飛行はとても安定しています。次は時速68.4kmの映像をどこかで撮影しようと思っています。

長浜市の飛行禁止ゾーン

kakunin_180916_0001.jpg

 この赤いゾーンが長浜市のドローン飛行禁止ゾーンです。ただ、大阪航空局に申請すれば、公式マニュアルを厳守した飛行は可能となります。このゾーンが長浜市の人口密集地域として国土交通省で認定されているのです。なんと、アクトも飛行禁止ゾーンでした。人口はそれなりに密集しているということなのだ。少し驚き。

500日のサマー

500days_of_summer_0001.jpg

 なんと、まぁ、素敵な映画。

DEADPOOL2

Deadpool_2_poster_001.jpg
 
 私達は「ジョーズ」も「バックトゥー・ザ・フューチャー」も「ターミネーター」も「エイリアン」も「SAW」も第2弾が完成したと聞けばいろいろ想像する、いや、しまくる。そして、第2弾を観て、必ず素人のイマジネーションの貧弱さを痛感するのだ。「2は1を超えられない」という固定観念を第2弾がどこまで崩してくれるのかを実は期待しているのだ。実際、素人に超えたのか否かなど判断つくはずもなく、ああだのこうだのとただ比較するのが楽しいのだ。巨額の制作費用を目の前に置かれ「この費用で第1作目を超えてくれ!」と言われる心配などありえないのだから、第2弾を自由に観て、自由な感想を持ち、巣の雛のように口を開けて、第3弾を待っていればいいのだ。たとえ期待値を超えなかったとしても誰も損はしない。

 ただ、唯一の真実は「ムカデ人間2」にだけはなってはいけないのだ。

 しかし、不死で言えば、「無限の住人」にも「DEADPOOL」のようなユーモアやノリがあればなどと分析してしまうが、それはつくった人のお国柄の違いなのだろう。つまり、映画づくりや物語のテイストやディテールを決めるのはユーモアのセンスなどのノリ(感覚)の部分で、文化や慣習の違いなどと理論理屈で捉えてしまうとドン引きなのだ。結果、つくり手の性質が大きく作品に作用しているんだろう。つくり手の中に流れている血液のような「想い」とか「狙い」が作品に流れ込むか否かで、すべてが決まってしまうような気がします。

太陽光発電施設の空撮

mavic_air_180913.jpg

 昨日は県内9箇所の太陽光発電施設を空撮してきました。普通にセットアップすれば簡単に飛行し映像でも写真でも撮影できますが、場所によっては電磁波の障害を受けてドローンとプロポが同期しなかったり、様々なエラーが現場では発生します。操作方法もアプリで制御できるとは言え、実際に飛ばすとなると目視とスロットル操作が充分でなければ様々なトラブルを誘発します。当然、革新的な技術の進化で操作性や機能性は上がっていますが、最後は人のテクニック頼み。5年間ドローンを飛ばしてきましたが、こんなトラブルの連続でした。

 また、安定したフライトはある程度ドローンに任せられると、次は写真や映像の構図や動きです。最終的に印刷物やWEBサイトで魅せる素材なので、飛ばせるだけでは成果になりません。だから、完成形を常にイメージしながら、ああでもないこうでもないと画角や映像の動きに集中しなければなりません。飛ばすだけなら、撮影するだけなら、ドローンはどんどん安価になり多機能になっていますが、成果を生み出すためには感覚と技術が必要だと僕は考えています。

 イメージ通りのフライトでイメージ通りの映像が撮影できると取り組んできて良かったと思いますし、エラーが頻繁に発生するとイライラしたりします。でも、要するにドローンはただのツール(道具)なので飛ばすヒト、使うヒト次第なんです。落ち着いて慎重に使えば成果は達成できるし、イライラしたり焦ったりして放棄すればそれだけの高価なツールになるというわけです。やはり、最後は自分次第なんですね、何ごとも。

 そういう観点、捉え方ではパソコンもソフトも筆も鉛筆も同じです。

商いの心

 誰もが、とことん、ネット内のビジネスモデルをスマートに極めようとしている。天文学的な加速度でCPUの演算能力が進化し、AIが人間の存在をその中に閉じ込めようとしているような印象だ。実態はそんな悲観的ではないのだろうし、詳細を理解していないからそんな疑心暗鬼になってしまうのだろう。でも、実際、ビックデータの活用から生まれるビジネスモデルのゴールは人類に本質的な幸福感を齎してくれるのだろうか?いや、齎してくれると期待したい。

 一方で、アマゾンが実店舗の重要性や対面販売や「体感」「体験」という言葉に最近は注目しているらしいという情報がある。つまり、古今東西の「商いの心」の重要性へ回帰しているのだろうという印象だ。結局、商いはそこが原点だ!というホームポジションの再認識。

 商いの古典を紐解けば、数多の偉業の根源を知ることができるが、文面を追うだけでは実体験には程遠い。いくらタブレットでその古典を知ったところで「分かった!」以上の実体験はできないのだ。実際、クラウドやアプリを活用したビジネスが群雄割拠の中、つくるヒトも受け取るヒトもなんとなく「実はこれじゃないかもしれない」という違和感があるはず。というか僕は確実にある。頭で理解しつつも心は受入れられない何か。VRコンテンツも刺激的だが、やっぱり「嘘(仮想)」は嘘なのだ。

 恐らくそのゾーンに「商いの心」のメートル原器が存在しているのだろう。

 やはり、レイチェルの瞳はグリーンなんですよね。

さよなら僕のマンハッタン。

 映画「さよなら僕のマンハッタン」をDVDで観た。CGモリモリのSF映画も素敵だが、人間ドラマも素敵だ。空を飛んだり、超能力で戦う主人公はシンクロしてて、とことん刺激的だが心のある部分がどこか醒めている。やはり、人は人に反応するのだ。感情移入の仕方も個人差はあれど、物語と主人公の内側にある変化の関係性にその真髄・真価を求めているヒトには、このテイストの映画はたまらない。エンドロールの無類の爽快感よりも、映画が終わってから自分の中で新しい物語が勝手に始まってしまうような、素敵な余韻、これまたたまらない。

 「さよなら僕のマンハッタン」はそういう映画でした。

 「ギフテッド」に続く、良品でした。

旧女王の乱心。

 大阪なおみさんが全米を征した。新女王の誕生である。しかし、会場のアメリカ人はそれを望んでいなかった。取り乱す旧女王。耐え難い不安が露呈したのだろう。不動不屈の女王ですら、大阪なおみさんの前では自分を失ってしまったのだ。その不安が会場に連鎖しあの表彰式となった。

 「強さ」とはいったい何だろう?それはとても不安定で変化し続けるモノ。常にそれは循環していて、気まぐれな蝶のように花から花へ移動するのだ。だからこそ、そんな不安定な状況をぶち破った人間、気まぐれな蝶を捕まえた人間だけが「女王」の栄誉を授かる。正にその瞬間だったのだ。おそらく旧女王にはその予感があったのかもしれない。いつかその時が来るだろうと。それが少し想定よりも早すぎたのだ。

 世界の頂点を極めるということは、一見華やかで煌びやかに見えて、実はとても苦しいことなのだ。努力以上の何か、才能以上の何かを習得できていなければ、ピークには立てない。

 おめでとうございます。素敵な瞬間を見せていただき、ありがとうございました。

トンビのウンチ。