働き方改革。

 本日、下記のような内容のセミナー案内がメルマガで届いた。

 「働き方改革」という言葉をよく聞くけど、そもそも僕らってどうして働いてるんだっけ?
たまにはゆっくり考えてみよう。自分は何がしたいのか。自分だけで気づけないときは、楽しそうに働いている人の話を聞いてみるのもいい。かもしれない。各分野のプロフェッショナルと一緒に、あなたの「働く」の意味を見つめなおすイベントです。

とのことだ。「働く意味」とは何だろう?

 また、「働き方改革」について公的なホームページの中の記事にはこう書かれている。

 我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。こうした中、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題になっています。「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 となっていました。「良い将来の展望」とは何だろう?

 WEBサイトにはこのタイプの文章が多い。当然、「セミナーへの勧誘」や「パブリックリレーション」が目的だから具体性に欠けるのだろうが、すべてが「多様」で結論が霧の中だ。どれだけ優れた成功事例を知ったところで、大義名分を頭で理解したろころで、本質的な「改革」は実現・達成できないことは誰でも知っている。いずれも大地に足が着いてない仕組み・理屈だからだ。

 だから、外側の仕組みや構造を改革するのではなく、多様性を受け入れて、内側をチューニングすることが大切だと僕は考えている。手持ちのコマを極端に増やすことはできないし、自然環境や社会環境がそう簡単に改革できるはずがないのだから。しっかり内側の音を聴き、心の音階を整えたい。

外来魚回収BOX。

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 中身を確認したが、「回収」はできていないようだった。この河口付近で良く釣りをしている人を見かけるが、その皆さんは回収に協力しているのだろうか。理論理屈がいっぱい込められた一見立派な箱ではあるが、中身は空だった。つまり、現実はそういうことなのかもしれない。

不自然な日本語。

 ホームページでもメールでもSNSでも、不自然な日本語を見かける。それは、海外企業の日本人向け商品ページであったり、メジャーブランドを偽るフィッシュメールだったり、文章力について意識の薄いSNSユーザーだったりする。

 いずれもどこか不自然な日本語なのだ。それは主語が無かったり、文章の流れが大きく主題から脱線していたり、結局、結論が曖昧で何を伝えたい文章だったのか分からなかったりする。しかし、全体は掴みどころがなく歪な文章なのだけれど、微妙に「悪意」の含量加減だけは感覚で分かってしまうのだ。この加減、すべて無意識だとしても必ず意図・意思が存在しているとしたら、言葉に変換する際のメンタル面(心理状態)とフィジカル面(体調)のバランスって重要です。ヨーダの「フォースのお話」は古典に習い、とことん的を得ているということなのだ。

映画「ダウンサイズ」。

 「僕は僕なんだ。」

 この台詞に辿り着くまでの途方もないイマジネーション。

 今のところ、映画「ダウンサイズ」の僕の評価は上限が見えない。つまり、青天井なのだ。

素敵な仕事場。

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 インテリアのイメージ写真を探していてたまたま発見。いつかこんな仕事場にしたいな、などと気になったので、目標として忘れぬようブログにアップ。

THE SHAPE OF WATER

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 美しい物語と美しい絵、美しい心。なにごとも難しくややこしく考え過ぎると美しさがなくなるようです。分かっているけど、「美しさ」とは何か?と、正解を求めてしまいます。でも、それは考え抜いた末に生まれるモノじゃなく、純粋な感覚の中からしか生まれてこないモノなんだと思います。

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 1994年7月4日、渡米した。目的は英語留学で大学の寮で3ヶ月ほど生活していた。デザインの仕事を離れ、ひとりでいろいろなことを考えることができた価値のあるひとときだった。空港に到着すると大学の関係者から手配してもらったタクシーの運転手がゲートで待っていた。空港から大学の寮まで送っていただいたその車中、気さくな黒人ドライバーが「今日はアメリカの独立記念日だ!知ってるか日本人?」と言われ、そうか独立記念日だったのかと再認識した。30分ほどの車中、ドライバーにN,Y,に来た目的などを質問された。24年前のお話である。

紅に染まる。

 「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない。」

 高畑充希ちゃんが熱唱しているCMがとても気になった。完全にCMとしては成功事例だ。

 ところで、「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない。」について少し考えてみたい。ロックバンドの歌詞だから深堀りしても核心に触れることはできないだろうし、その領域は歌詞をつくったヒトのみが巡遊闊歩できるゾーンだから、外部の一般ユーザーはKEEP OUT.

 だが、時代背景から推測するとまず「紅に染まる」ということは夕陽で照らされているのか?それとも何か業火の前に立ちすくんでいるのか?もしくは「血」?どういう状況かは分からないがとにかくこの「俺」は紅に染まっている。歌詞の語感からどう考えても平穏な状況ではないし、緊急事態であることは推測できる上、座り込んでいる態勢でもワナワナと打ち震えているわけでもなく、茫然自失状態で仁王立ちのようだ。そして、深深と胸中にこみ上げてくる「誰も慰めてくれない」という実感。つまり、この「俺」は孤立しているのだ。以前なら誰かが同じ状況、紅に染まった状況では慰めてくれたのだが、何かしらの理由でもう助けてくれるヒトも手を差し伸べてくれるヒトも消え、慰めてさえくれない状況なのだ。

 では、この状態を「俺」は悲観しているのだろうか?それとも孤高の存在となり高揚しているのか?という分析である。もし、前者なら歌詞にまでして誰かに伝えようとは考えないのではないだろうから、紅に染まった状況で、孤立したこの「俺」は、世界で唯一無二の存在になったことに対してとてつもなく高揚しているような印象を受けた。

 普通に生きていたらなかなかこんな状況にはならないが、この「俺」はよほどの世界に住んでいるのだろう。そして、そしてである。その歌詞を真摯に受け止めその高揚感を共有しているファンがいる。このシンクロはとても美しい。崇拝なのか尊厳なのか心頭なのか分からないが、「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない!」と聴いて何かしらの共感を抱けるヒトのイマジネーションは「美しい」としか表現ができない。アートゾーンのお話だ。そんなことをCMを観ながら感じてしまった。

 ちなみに僕の場合、「わかってもらえるさ いつかそんな日になる ぼくら何もまちがっていない もうすぐなんだ!」という歌詞に初めて出会った瞬間から、いつも心の一部分が振動していて、今でもその振動は止まっていない。つまり、これも歌詞の裏にあるアートゾーンのパワーなのだ。

映画「レッドスパロー」

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 昨晩、映画「レッドスパロー」を観た。う~ん、これだけの役者があのテーマで物語をつくれば、そりゃこうなるわけだ、という感想です。なんのことやらという感想ですが、ネタバレも素人の映画分析などもおこがましいので、この程度の感想とします。

 とにかく、素敵な映画作品なんだから「ぜひ、観てください!皆さん!」としか言えません。

 別件で、金曜日、音楽番組があり、「米津玄師」さんの紹介をしていた。音楽雑誌の編集長がテレビに登場して「生い立ち」や「表現哲学」について語っておられたが、なんとなくピントがずれていた。同様に、ワンオクに対するネットや専門家、そして、一般人の評価について目にする機会があったのだが、数行読んですぐそのページを閉じました。それはそれで皆様の正解なのだろうが、もっとファンというのは利己的であるべきだと思います。誰がどう分析・評価しているという論述は関係ないじゃん!ランキング好きの日本人を煽るためのテレビやネットの仕組みは数字や代価に直結しているのでしょうが、逆に直結しているから重要だという捉え方に共感はできない。個人の中に生まれた重要性や価値感がたまたまネットやメディアで繋がり共感を生むなら分かるのだが、共感を生むために繋がろうと分析しようとする捉え方は正しい形ではない。

 一部、「レッドスパロー」について全体イメージを紹介するとかなり露骨な表現が多い。当然、明確な理由や根拠があるからなのだが、一見、露骨な表現だけに注視すると、本質に辿り着くまでに意気が逸れる場合もあるかもしれない。何ごとも顕在化している裏側に流れている真意や意図を汲みとれるテクニックが必要なのだ。それを「教養」と呼ぶのか、「固執」とよぶのか、「才気」と呼ぶのかは分からないが。

Less is more.

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 何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」。