スキルマッチング。

 「スキルマッチング」という言葉がある。

 個人の経験値や能力や知識と仕事の相性を整えて、より良い仕事を紹介する企業が多用する言葉だ。仕事を探す立場では自分のスキル(経験値や能力や知識など)も合わせた個性・人間性の部分と相関させて職場を探すのだろうし、雇い主側の立場なら、今必要な人材をスキルと相関させて、社会性や人間性も確認した上で採用・不採用を決めるような状況である。

 これらマッチングの分析は統計データや然るべき科学的な根拠を元に相性を決めているのだろうが、婚活・就活でも投資でも起業プランにしても、このスキルマッチングの法則が適用できて、人と仕事の関係には常識的なセオリーや法則があり、傾向と対策についての膨大なデータの中から人も企業も「選択する」という意思決定をしなければならない。

 さて、人も企業も何かビジネスプランや職場探しを「選択する」という捉え方で良いのだろうか?統計上の確率、傾向や根拠となるデータの中から意図する最適なルートを選択するというのが仕事に就き生計を立てる、人生設計に勤しむための適正な捉え方ではないような気がする。未来は誰にも予測できない。シリコンバレーのエンジニアやシンガポールの投資家達でさえ、未来は予測不可能である。だから、「選択する」という捉え方よりも、どちらかと言えば、「開拓する」「挑戦する」「探求する」「追求する」「引き寄せる」あたりのニュアンスが現実的だと思う。
 
 この「選択する」と「開拓する」というニュアンスの違い、いずれも意思決定を行うという思考タイプで似てはいるが、捉え方として語感として、前者は「安全ルート」、後者は「危険ルート」のニュアンスがあり、大海原に憧れの海賊を目指し船出した少年のような決断はこの現代ではしにくい。だから、選択肢は多い方がより良いと誰もが考えるから、とにかく情報が増える社会構造になったのだろう。より多くの選択肢から自分の考えにマッチした居場所を選択するのか、主体的にパイオニアスピリッツで自分のルートを進むのかで捉え方が、もしくは、見える景色が変化するような気がする。言い方を変え、少し俯瞰で捉えると、「選ばれたのか?選んだのか?」という言い方になるが、スキルを公正公平に評価する指標はありそうで存在していないし、もしかすると、「選んだ」と捉え意識していることが、「選ばれた」になる場合の方が圧倒的に多いのかもしれない。相対的か絶対的か?と理論理屈で言葉遊びをする前にある、感覚で捉える部分を強く意識したい。感覚は一人ひとつだけの機能だから嘘のつきようがないし。

こんな空気感。

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 やはりこだわるならこんな空気感の映像にしたい。自分自身が影響を受けてきた名作を表面的にパクる結果になったとしても、オーマジュとしてリスペクトして勇気ももって参考にしたい。モノヅクリを仕事にする上で、安易なコピーとリスペクトした参照の違いを明確にしなければならないのだが、この境界線は現実問題、白色でも黒色でもない。悪意ある複製と善意からの参照については永遠に答は出ないだろう。つまり、刃の上を裸足で走り続けるしかないのです。その時が来るまで。

こんな構図。

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 こんなシンプルなデスクを画面の真ん中に置いて、パソコンとタブレットと資料を囲んでいろいろなしゃべりをしているような映像をつくりたい。背面は合成するので、琵琶湖や伊吹山がいいな。上海の夜景でもカトマンズの風景でもいいな。そして、テーブルの上には必ずコーヒーがあると。これが「FIKA」っぽいのかな。

孫子曰く。

 テレビで「孫子の兵法」が紹介されていた。「自分の限界点を超えたい時は、常識と非常識を使い分けろ」という言葉に対して出演者がなるほどの連呼。う~ん、この言葉を初めて知ったのは高校生の頃だっただろうか。その頃はなんのことやら???チンプンカンプンだったが、今となっては確かに「なるほど」と少しは理解できる。しかし、だとしても、最近は「常識」と「非常識」の区別がつかないから困ったものである。さらに、「自分の限界点」についてはさらに濃霧の中で、3年前、富士山の2合目の駐車場に行く時以上の濃霧だった。あの濃霧はまるで映画のワンシーンのようで、少し恐怖を感じた。突然濃霧の中から巨大なモンスターの手が飛び出し、車ごと、そう、ジュラシックパークのティラノザウルスのようにひょいっと掴み上げられ、樹海にぽい!ってなりそうなほどの濃霧だった。ヘッドライトが4~5m先を照らしているが、地面も恐らくすぐ上にあるだろう樹々の枝葉も見えない濃霧。時速20kmぐらいの超徐行でもどこで道が曲がっているのか、さらに登っているのか下っているのかさえ感覚としてないような濃霧だった。

 「常識と非常識を使い分ける」と「自分の限界点」。ヘッドライトの届くゾーンならばなんとなくそのままの意味で理解できるが、霧の先は分からない。私たちは言葉や書籍の文面に対して、イチイチ「濃霧」の中のことまで考えないが、実は「常識」という言葉ひとつ掘り下げても、ヘッドライトが届く1m先は崖かもしれないし、「限界点」の枝葉の間から巨大なモンスターの手が伸びてくるかもしれない。でも、「へぇ~、孫子の兵法に書かれていたのか・・・」程度で「なるほど」を簡単に出している。つまり、感覚を抑制しているのである。私も会話中、安易に軽率に「なるほど」という相槌を打って、「ああ、表面的なリアクションをしてしまった・・・」と反省することが多い。しかし、「なるほど」もリズムや手拍子みたいな使い方があるので、イチイチ深読みして四六時中、just moment! BTW,,,ってわけにもいかない。

 孫子が実在していたかどうかさえ、実は濃霧の中なんだから。

梅田のディスプレイ。

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 今日は打ち合わせで大阪北浜へ。大阪はいいなぁ~、何気に歩いていてもセンスある魅力的なシーンに出会える。このようなシーンが日常の中にあるか否かで無意識のうちに、感覚・感性にかなり格差が生じているだろう。理論理屈ではないダイレクトな部分だけに意識していろいろな場所に行かねば。しかし、平面表現やデジタル表現より立体作品表現って存在感があって良いですね。素敵なディスプレイ作品でした。

快食快眠快便。

 健康で体力がある人は快眠なのだそうだ。不眠症とは無縁でどこでも数分あれば寝ることができる人。健康とは具体的にそういうことなのだと私は捉えている。

 火のないところに煙は立たないというが、不倫や浮気を繰り返している芸能人さん達は心のどこかで「本能のまま」「自由気ままに心を開放して」「後先考えず自分の道を突き進む」自分を演出している節がある。当然、それらは事実だろうし、事実かもしれない情報があればマスコミは飯の種だから群がる。これも本能と本能のバトル。いずれも当事者ではないので分からないことだが、火種がなければ煙は出ないし、煙が出てしまうことを承知の上で火種をつくっている、つまり、浮世を流す上で自分の存在や自分の心に正直になるならないは別として、それらは結果「狼煙」なのである。美談よりも猥談には媚薬効果があり、それを知った瞬間「ああ、あんなに有名な人なのに馬鹿なことをしたもんだ!」とか、「地位や名声がありながらそれを捨てるようなことをして!なさけない!」などと感覚的に感じられるメリットがある。「テレビや映画で活躍しているとはいえ、あの人もただの男なんだ」という普遍の安堵感を得られるのだ。だから、このタイプの情報は売れ続け価値が低下しないのだろう。いつの時代も。人が求めている以上、事実であれ虚構であれ狼煙はどこかで上がっている。

 バランスの良い栄養を取り、十分に睡眠をすれば必ず健康的な便が出る。このループを理論過多になり過ぎて乱され考えるよりも先に、手を動かそう、足を動かそう、身体を動かそう。私はいつもそんなことに留意しながら自分の健康を管理・維持している。

 ~の考えはガチで休むに似ているのだ。そして、~とハサミは使いようなのです。

 「動く、つくる、考える」の順番が私は好きです。

第一次情報。

 第一次情報とは五感が捉えた感覚的な情報です。その情報は経験値や常識、知識や知恵によって処理され第二次情報になります。その後で神経系で処理され筋肉に伝達される。このルートは交感神経と副交換神経に分岐され生命維持の行動が生まれる。

 さて、この第一次情報と第二次情報についてどのように意識するかで人のふるまいや言動、筋肉がアウトプットが決まります。これらの仕組み、学校では学びませんし習得するには十分な経験と実感を得た上でなければ、誤解が生じ、当然、良い成果も生まれない。しかし、この調整を意識して吟味したとろで、第三次情報というゾーンがあり、トラブルや想定外の事態を引き寄せる。この状況を「偶然」と呼んで処理しているが、貪欲な人間はこの偶然でさえ必然にし、制御可能にしたいと考える。

 という情報の構造について書かれた雑誌を読んだのだが、経験が浅いのか理解力が足りていないのか十分に整理できない。この感覚もすでに第一次情報であり、「できない」という結論を出している以上、第二次情報の処理後、指先がそのようにキーボードにアウトプットしている結果。例えば、仕事でも人生も目標を設定する。人生のゴールを設定して充実したビジネスライフを実践しましょう的なビジネス書や啓蒙書があるが、ここは第一次情報よりも第二次情報に偏った理論・理屈の部分を刺激するが、本心・真意の部分では「ほんまかいな?」と感じてしまう。「そんな理想のお話は実感が湧かないが、有名な著者がわざわざ書籍にして語っていることだから、少しは興味をもとう」程度の意識はしようと試みるが。

 でも、人間には最も優先する三大欲望ってのがあり、密接に第一次情報とシンクロしている。社会生活を適正に行うためには第二次情報に依存しなければならない。自分勝手な判断や団体行動、組織活動をできない人間は孤立する。日本では孤立しても生命を脅かされるまでに至らないから、就労を否定する人が実在する。それも必然。

 さて、では、「怒り」ってどう処理するのか?という問題がある。それはそれでコンサルタントやスクール経営などビジネスとして成立しているぐらいだから、よほど人間が生み出す「怒り」のエネルギーは大きく価値も高いのだろう。

 ある雑誌で「あなたの怒りのタイプ診断」というテストがあった。タイプは6つに分けられ要約すると、正義感に駆られて怒りを感じる「公明正大タイプ」、白黒はっきりさせたい完璧主義者の「博学多才タイプ」、自尊心が高いが人の評価に敏感な「威風堂々タイプ」、一見穏やかでも内面には強い信念がある「外柔内剛タイプ」、策略家だが劣等感と猜疑心が強い「用心堅固タイプ」、自己主張が得意で、ときに独善的な「天真爛漫タイプ」がある。本当に価値の高い素晴らしい雑誌である。で、素直にテストをやってみると、私は6タイプすべて均等に高い反応が出た。つまり「怒り」の塊のような人間なのであると。

 しかし、私は怒っている人は自分に正直な人であり、そのふるまいや態度に「嘘」は一切ないと捉えている。ただ、周りの家族がメンドクサイのだが、そこが崩壊しない程度の協調性があるということだ。私の開き直り理論は「嘘」よりも自分や相手に対して正直にありたいので、「怒り」は致命的な問題にならなければそこそこ放置でいいと思う。

 つまり、最終的に自分勝手な人間なのだ。でも、多かれ少なかれ人間という生物はそれが正常のような気がする。ただ、「怒り」は連鎖するので注意・警戒しなければ。53歳ともなれば。

健康の証。

 今日は何故か午前5時頃から仕事をしている。目が覚めたのだ。モヤモヤしている感じではなく、スッキリと4時30分頃に目が覚めてしまったので仕事をしている。何故か?仕事があるからなのだが、ある意味、健康だからだと捉えている。最近、特に「心技体」という言葉を意識することが多く、どれを欠いてもダメなんだと痛感している。

 というのも、最近、マーベルの新作「ドクター・ストレンジ」を観てから少し感覚が変化した。というか以前の感覚(モノゴトの捉え方)が少し変化したような実感があるのだ。あまり映画について詳細をタラタラと書きたくないのですが、この映画のモチーフは「医術と魔術」だった。過去にこのタイプの映画を観た時の感想は「そんな緩い設定はリアルじゃないからドン引き~!」だったが、今回は見終わった時、ちょっと毛色が違った。だって、あのデットプールのあとのマーベルの新作である。歴代のヒット映画のどれを観ても世界最高峰のスタッフが練りに練っている作品ばかりなのである。想像できないぐらいの予算を消化し、想像できないような英知が集結して完成された映画作品をド素人の私が「リアルじゃない!」とか「非現実的過ぎる!」などと評価して良いわけはない。「ド」だからそんな安易な感想をほざいてしまうことは仕方なしとして、何故このタイミングで「医術と魔術」なのかについて再考する必要があると捉えてから毛色が変わったのだ。

 このテーマの奥の深さをなんとか自分なりに探求しなければと捉えている。

 そう考えると、これまで見切ってきた映画作品や著書、引いては人についても、私の見切り方は的を得たものではなく、強引過ぎ軽率過ぎたとは言えないだろうかとも考えていて、以前の視点を変化させて、少し高く少し広く少し深く再検討した方が良いのかもしれないと考えている。

 これも健康の証。

たまたま。

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 全く情報なしの状態でふと手にした映画にやられる時がたまにある。この「たまたま」にやられる時は期待しているもののニュートラルな状態だから、ガツンとやられると、かなりダメージ(良い)が大きい。ふいを突かれたと言うか、視界の外から何か強烈な一撃を喰ったと言うか。1日経った今も心がザワザワしている。当然、DVDは買いだ。近日中にDVDは届くが、次この映画を観るタイミングが意外と難しい。そんな映画「ある天文学者の恋文(原題:La corrispondenza)」でした。

他人の仕事。

 デザインの仕事っていろいろな業種の方と出会う機会が多い。例えば、ホテルの接客業や経営業に携わっている人なら、ホテルに宿泊や宴会目的で多くの人が来られるので出会う機会は多いし、大学の教授ならばいろいろなタイプの多くの学生を相手にする仕事なので出会う人の数は多いだろう。しかし、デザインの仕事は少し出会い方が違う。例えば、本の表紙デザイン(装丁やカバー制作)をつくる仕事の場合、著者についてリサーチし原稿のチェックをすると当時にその仕事について無知ではいられない。さらに編集者さんからの要望などもデザインをつくるための材料としてインプットする必要があり、著者の人間像や仕事への取り組み方や考え方を原稿や企画書で知り、必要であれば、ご本人へも直接いろいろな質問をしたりコミュニケーションを取るため仕事案件毎(納品するまでの期間だが)ひとりの個人、ひとつの仕事に結構詳しくなる。ただ出会うだけではないので、仕事の本質やお客様のご要望や意図を理解する能力も自然と習得してることが多い。だから、他の仕事と比較的して少し広めで深めの教養やノウハウが自分の知識として入るのです。そんなデザインの仕事だから、いろいろな人がおられました。

 22歳の頃、東京(曙橋)でデザイン事務所でバイトをさせて頂いていた頃でも、毎日、いろいろな人が事務所に訪ねてこられ、仕事案件毎に様々な情報を聞きいろいろ新しい経験や発見をさせていだいた。

 さて、そんなデザインの仕事現場でいろいろなエキスパートの方との出会いを繰り返していると、逆に私自身から能動的に「自分もこの仕事をやってみたい!」と感じることがあります。一般的にただお客様としてお店で料理を食べたり、ホテルでおもてなしを受けているだけでは気づかない仕事の裏側についてもいろいろ知る機会が多かったので、笑顔で対応しながらも実際のタフな仕事現場でたくさんのご苦労も見えてしまうが、その反面「やりがい」や「達成感」の大きさも見えるので、「やってみたい!」「実際、自分も経験してみたい!」と興味が生まれるのです。ただ、サービスを受けている立ち位置と、実際、現場で仕事に取り組むのとでは全く別物だということを分かった上で。

 今現在、個人的にある仕事に対してとても興味があります。とても心が惹かれています。しかし、実際、その場所で「さぁ、今から仕事です。始めましょう!」となった場合、自分自身がどこまで順応できて、ちゃんと仕事に取り組むためにはどのような準備が必要かを想像しながらその機会を得るためにどのように話を切り出そうかとワクワク・ドキドキしています。

 仕事って自分との相性もあるし、外側で見ているほど決して単純ではない。他人の仕事を無神経に否定することは絶対にできない。してはいけないと思っている。無知で無神経さを吐露したければそれが近道だが、当然、その言動は自分の価値や信用も低下さたり、極端な場合、軽率な一言で信頼がマイナスになる可能性もある。知らないこと知ったようなふるまいは絶対にやっていはいけない。仕事の現場では、簡単に目に見える、容易に頭に入れられる理論・情報の裏側に、数十倍~数百倍の厳しさや苦労がある。それを知らない気がついていない人間は絶対にデザインの仕事はできないのだ。そのことに気づきやっと入口に立てるのです。故に苦しく楽しいのです。