決意のドア。

 新宿のデザインプロダクションさんでの初日の朝、そのオフィスのドアを開ける時、確か、深呼吸をした記憶がある。やっとここに来れたというドキドキと、ここで頑張るぞ!というワクワクで興奮し緊張していた。それがこのデザインの世界に入らせていただいた最初のドアだったからである。奇しくもその会社様の名称が「DOORS」。しかし、世の中には「自分に合った仕事を見つけられない・・・」と一生つぶやき続ける人がいる。「天職が何か分からない」とか言う前に、ガチでそれを探究したのか?ターゲットを絞り込んで考えて努力したのか?という話。何を仕事にするのかは、労働時間や休日の待遇や福利厚生や仕事の内容や給与の額面ではないはず。やりたい仕事がなかったから家業を継いだは最悪。お前は親父のために生きているのか?という論理。ほんとに家業が好きな仕事にならなかった理由があったはず。それを見切り安定を望んだのだから、その場所でベストを尽くすがお前の正解。まぁ、そんな連中は論外としても、最初に決意して入ったその場所こそが自分の場所なのである。

 で、会社の契約条件に文句を言う人は必然的に自分の仕事場に辿りついていない人。自分の仕事部屋に入っていないのだから、そりゃ、出口は見つからなくて当然当然。どこかにあったはずの「決意のドア」の前になんらかの理由で立たなかったのか立てなかったのか?なのである。自分の仕事に出会うには熱意だけは難しいし、幸運も味方につけなければいけないだろうが、それでも、運も実力の内。結局、時給額や休みの時間で仕事を選択し余った時間で国の経済振興を支えているという立ち位置になるというわけ。でも、それはそれで生産性を担っているのだから素晴らしい存在。

 しかし、自分自身もデザインの仕事が恐らく合っているだろうと考えているし、この仕事をやりたかったという強い意識はあったように記憶しているが、アートやデザインの仕事は底抜けに楽しいが芸術系の仕事をしたいという記憶の派生の前にいろいろな願望があった。科学に興味があったし、スポーツにも興味があった。それに、文学や製造業にも興味があったような記憶がおぼろげにある。しかし、上記の理由で、諦めたような感じだったし、その試行錯誤の結果、アートやデザインに辿り着いた。結果、この広告という仕事は、科学もスポーツも文学も製造もその他のいろいろな分野のお客様の仕事をすることになる。これも、不思議な巡り合わせなのかもしれない。

 という意味で、やはり、あの新宿のドアが私の「決意のドア」なのですね。

マミレル!?

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 いやいや、ますます、ご健在、カエラママ・・・と。「マミレル!?」なんとも意味深げなカエラママワールド全開ということで、タノシミタノシミ。「ハジケル」でも「カラマル」でも「ムラガル」でも「ホドケル」でも「カミシメル」でもなく、「マミレル」なんですね。感覚的になんでもイケる人って、イケていない、無理苦理にイケてるテイでプロダクションのチカラMAXみたいなことじゃない、ナチュラルな感性っていいですよね。って、これもFAKEだったり。まぁ、だったとしてもカエラママだったらALL RIGHTである・・・ぐらいの「マミレル」であるからパワバラがマッチする。ここの支点がなんともマカフシギ・・・。

筋金が入っているか!?

 最近、「筋金が入っている人」に新しく出会う機会が少ないような気がする。この「筋金感」ってあるいみの相対的なリアリティーだろうし、その方のポテンシャルだとも言えなくないが、骨が太いというか、心臓に毛が生えているというか、器量が大きいというか、なんとなくそんなニュアンスの人が少ない。それに比べパソコンみたいな人が増えてません?スイッチのオンとオフがはっきりしていて、細かく、考えや行動パターンが2次元の人。ミクロとマクロに自分自身のスイッチを巧みに切り替えています!みたいなテイでどや!みたいな人。それは素晴らしいことかもしれないが、到底「筋金」が入っているという印象には程遠い。細かい小さい神経質が悪いことではないのですが、デリケートっていうバリケードが強すぎる。抗菌フィルムに守られているから、雑菌に弱い・・・みたいな。

 恐らく、時代や経済の観念が変容して人間の資質が軟化・フラット化・相対化した結果、硬度の高い思考や競争率の高いフィールドからテイクオフし、絶対的な関係をストレス視しているのだろう。だから、自分自身の筋金を鍛えることよりも、平均化して右にならっておこうみたいな思考が平和をもたらしラブ&ピースみたいなノリなのかもしれないですね。だから、メディアはそれに敏感になり、放射能の問題や日本の経済や政治の真理を隠ぺい・捏造する。もしかするとその現場の人は、それを創造だと勘違いしている・・・みたいなことだろう。

 筋金入りの人間になりたいものである。ウルバリンのような感じはそういう意味であこがれである。あえて「リアル・スティール」じゃなく「ウルバリン」みたいな、「イーサン・ハント」より「ジェイソン・ボーン」みたいな。

ガラケーvsスマホの時代。

 「ガラケー」とは、「ガラケーとは、ガラパゴス・ケータイの略。ガラパゴス・ケータイとは、世界標準とは異なる進化をした日本の携帯電話のこと。孤立し、独自の進化を遂げることをガラパゴス化といい、独自の生態系を持つガラパゴス諸島に由来する。日本の携帯電話は、着メロ・着うたなどのコンテンツサービスや、カメラ、電子マネーなどの機能が次々追加された。日本では多機能な携帯電話の人気が高い。一方、過去にノキアなどの海外製の携帯電話も発売されていたが、多機能ではなく日本では人気がなかった。しかし、iPhoneやAndroid端末などタッチパネルを搭載したスマートフォンが発売されてから、海外製の端末が注目されている。なかには、従来の日本の携帯電話を「時代遅れ」と感じる人がいる。そのような一部の人が、日本の携帯電話を揶揄し「ガラケー」と呼ぶことがある。」とのことらしいが、なんかこのニュアンスはとてもワクワクする。スマホ全盛時代にガラケーっていう存在がなかなかのモノである。

 私は直感ですが、スマホがツールとして嫌いである。道具には道具の使い代があり、道具たる機能以上に余計なおまけを排除するから道具なのである。いやいや、道具か道具でないかみたいな古い考え方の人はガラケーで充分でしょう!と言われるならその通り。パソコンのアプリと同じ。スマホの多機能などただのおまけのおまけ。「おまけ=便利」とメディアコントロールされている人が必要もないのに、タッチタッチしている絵がなんとも不自然。恐らく「便利」の意味を間違えている。しかし、価値感とは真価を追求することでも真理を追究するモノもでないし、8:2でスマホが優勢ならそれでいい。それで経済が活性化の瞬間風速が上がるならそれでいいじゃん。もしかしたら、竜巻かもしれないが・・・。

 で、スマホはガラパゴス諸島のサボテンか?海中のコケか?みたいなことになるかな。日本がガラパゴス化しているとかしていないなどと諸説あるが、なになに、実はこの地球がガラパゴスなんですよね、実は。その意識を分散したいから、イグアナが海で泳いでる映像を流して、これぞ進化!みたいな啓蒙をしたいだけ。人間にもサボテンを登るための「カギ爪」や水中を泳ぐための「ひれ」や「水かき」がそろそろ必要なんでしょうね・・・。

 そのうち、アプリでモノホンのGUNが付かないことだけを祈りたい。

 ガラケー、非常にビックウエルカムじゃないでしょうか!

小さい失敗の先にあるモノ。

 唯一、前進する方法は、検討と検証を充分に重ね決断することではない。感覚で判断して小さい失敗を繰り返しながら進むしかない。小さい失敗を恐れていては判断が遅れる。小さい失敗にドンキホーテのように破天荒に突っ込んでいくから答が見える。前進するとはそういう感覚。ネットの中に答はないのと同じぐらい検討と検証に答もない。自分の答と相手の答の間でつばぜり合いをしてこそ、感覚を共有できるってこと。それは決して言語ではない。声とか色とか臭いとか体温とか皮膚感覚でしか伝導されない化学的な物理的なエレメント。

竹中式イノベーション仕事術!?

 イマドキ、「楽に生きられない日本で戦う12の力」という慶応義塾大学の教授、竹中平蔵という方の著書がある。まず、この時代、平蔵である。平蔵氏が語る竹中式イノベーション仕事術である。これだけでなんとなく喰いついてしまった。

 1.自分で自分をプロデュースする力、2.熱い心で思い込め、熱い心がなければ人生は無意味、3.BtoBを繰り返せ、飽きない力に目覚めよ、4.常に目的関数を見抜け、5.情報力とは馬鹿を相手にしないこと、6.心に宇宙を描く洞察力、7.組み合わせが力を生む、8.妥協しない力、敵ができても恐れるな、敵ができれば味方もできる、9.1日は24時間で人生は短い、10.人生でスイッチングを怠るな、11.志のSFCを貫け、12.人生、塞翁が馬としれという達観力。これがどうやら12の闘う力だという。後半は書籍へ導くためにちょっと???を散りばめているが、なかなか整理された12要素である。大学の教授が楽に生きられない日本にアドバイスをするのだから、相当日本も楽に生きられないという感じがヒシヒシと伝わってくる。

 おまけに、「ワンテーマに9年間没頭する」「ワンフレーズを何度も繰り返せ」「朝5時から6時にアイディアを練る」「議論は大きな数字で説得する」「お酒よりも志を同じくする」「雑務をまとめて大掃除をする日をつくる」「あこがれの上司・先輩を探す」「退路を断って、金を使う」「10年後の履歴書を書く」「中学校の教科書に戻る」「メモ魔になる」・・・他とのこと。このあたりは、ちょっと息切れしているようにも感じられるが、まぁ、それなりの書籍として体裁は整っているだろう。

 で、最後のヒトオシが「小さな決断で大きな成果」というボールを投げてる。書籍を紹介して買ってもらうためにはあと何かが足りないような広告になっているし、平蔵というワンフレーズもここまで読んでくるとそのパワーが失速する。イノベーション仕事術とか言うから、どこまで実践的な書籍かと思えば、結構ステレオタイプ。これを仮に書店で発見しても買わないし、この広告文の中で唯一ひっかかりがあるとすれば、このフレーズだろう。

 「熱い心で思い込め」。さて、この場合の熱い心が平蔵さんにあるという大前提でこの書籍が成立していることを願うばかり。

なんだあの映画!

 なんだあの映画!あの綻び加減、あの稚拙さ、何を言いたいのか?よりも、何がしたいのか?原作が微弱なのか?監督がやる気がないのか?スポンサーが映画を作る気がないのか?とにかく、金があったから、原作を映画らしいモノに創ってしまった・・・だけなのか。それにしても、どう考えてもヒドイ。

 ひさびさにヒドイ映画を観てしまったものである。90%ほどこうだろうなぁ~と思ってテレビの前に座ったが、最後の最後まで「なんでやねん!」の連続。どこかで映画のエンジンがスタートするかなと思って観ていたが、キーは手に握ったまま終わってしまった。この原作は映画にするべきではなかったのだろうな。恐らく。奇をてらうならもっとちゃんとてらってください。この原作者の書籍はそういう臭いがしたので、完全にスルーしてきたが、今後、何がどうあろうともこの作者の作品を手に取ることは永久にないだろう。残念と無念が7往復してしまった感じ。

 まず、タイトルが「プリンセス・トヨトミ」なんだから、王女か?それに、戦国時代と王女と大阪をもっとちゃんと歴史的にも創作物的にもちゃんと組み立ててください!これじゃ、大河ドラマと同じじゃん!

相手の質問を予測して答える。

 時に質問のパターンが見える時がある。しかし、想定外のこともあるが、よほどの想定外でない限り、相手が日本語を使うのなら、質問の予測はできることが多い。でも、正しいリアクションがいつもいつも出来ているかとなるとそれは失敗の方が多い。これは、反発したいと心が感じているからか、根っからの天の邪鬼だから、心で否定して言葉は肯定するみたいなことで、ストレスが蓄積している結果なのか?まぁ、そんなことも意識下に置いていると無意識からダイブしてみたくなる場合もあるし、無意識が時になんとも心地良い場合もあって、相手の気持ちをスルーして自分の世界で完結させてしまって、あとは、上の空みたいなこともしばしば。これって何がどう影響しているのだろうか?相手のことをどう思っているかが正確に見えるゴーグルがあれば、適正な正解を並べるのだが、そんなゴーグルはどこにもない。目に入ってくるホコリを遮断するぐらいがゴーグルの限界です。

 いい目を持っている人はとにかく言葉が少ない。これは間違いない。次から次へ言葉を出す人は恐らくいっぱいいっぱいなのだろう。笑顔って実は動物の本能的には相手を威嚇する行動だそうですから、「へへへ・・・」と笑っている人は実は心で相手を威嚇しているんだと生物学者が言っていた。なるほどなるほど、なんとなく分かるような気がしますね。

 で、相手の質問が予測できない時が実は大きな化学反応が起こせるチャンス。だから、時に馬鹿になることも大切なんだろう。って、馬鹿を自分自身に容認するほどクレバーでもないから始末が悪い。

話が伝わらなくて困った時ってあるある。

 なかなか旬な本である。「話が伝わらなくて困ったときに読む本」という書籍がある。これが、意外と高くて¥1,365(税込)となっている。著者の河合薫さんという人はあまり知らないが、ちょっと気になる一冊ですね。

 「キミの話はよくわからないね・・・」「あのさぁ~もっと論理的に話してよ」「つうか今の話、何?論点ずれてない?」などなど、よくあるある。自分の話すことばかりに躍起になってもうまく伝わらないし理解されるなど程遠い空気。うんうん、いたるところに漂っているKYですよね。

 受け手の気持ち、伝える目的を考えて話す。心と心の距離感が一気に縮まる一冊!ということですが、これって、話の伝え方としては、対面式なのかメール交換なのか電話なのか手紙なのか?いずれにしても日本語は直球勝負ではない。くみ取ってください、ニュアンスを感じてください、大前提をまず理解してくださいから始まっている言語だから、こんな書籍が出てくるっていう仕組みでしょうね。

 で、話の伝わらない人に対してどう対応するべきかというよりも、伝わらない原因を相手よりも早く洞察・分析して何故伝わらないかではなく、どうすれば適正な伝わり方ができるかをクリエティブする方が大切ってもの。誰でもかれでも伝えたいことを100%伝えてればいいって問題もない。それはパソコンがやればいいだけ。人間同士はパソコンではないのだから、「伝わらない」原因のディテールにこそ個性やのびしろが隠れているっていうもの。時には伝え方が見えてても「伝えない」というのがコミュニケーションだと思いますけどね。

レアでディープなコミュニケーション。

 どんな世界にも専門家というクラスの人達がいる。それらの分野の人達はその分野に精通してこられたエキスパートでありプロフェッショナルだから、経験値も知識も豊富である。そして、常日頃からその分野での情報交換をしている人であり、仕事としてコミュニケーションしておられるから、専門家なのである。では、そんな皆様とシームレスな潤滑なコミュンケーションをしたいとアプローチする時の注意点がある。それは、最低限知っておかなければいけない基礎知識をしっかり自分のモノにしておくという「予習」作業である。もっと言えば、そういうエキスパートの人達はやはり独特の世界観を持っている方達だから、恐らく想像ですが、子どもの頃からその気質を持っておられたはず。だから、一般的に専門家の人達は「気難しい」とか「個性的」とか「とっつきにくい」などの印象になっているわけ。いわゆる「オタク」という語感でひと括りにするには広いレンジのお話なのですが、専門家でありエキスパートの方というのはやはり独特の言語を持っていることが多い。だから、能天気にコミュニケーションをすることは結果的に難しとなる。これは大胆な部分でありダイレクトな部分でありとてもデリケートな部分でもある。だから、自分の立ち位置と自分自身のポテンシャルは常日頃から確認しておかなければ、大切な一期一会うを逃すことになる。

 で、専門用語に精通することもさることながら、そのようなエキスパートの皆様の知識やこだわりはさすがに深く広い。そこをリスペクトせずに、ただ、一般的な会話のテイで踏み込むと一瞬で心の門が閉ざさせる。その瞬間は凄まじく一瞬である。そして、一旦閉じてしまったその心の鍵を探すたるや、とてつもないエネルギーが必要なことしばしば。しかし、常日頃の予習を怠らねばその部分は意外と簡単(その努力は簡単でもないのですが・・・)にクリアする場合もある。一旦、その門を潜ってしまえば、後は、湯水のようにコミュニケーションが活性化するという流れ。勿論、瞬殺で、門を閉じられた経験もあるし、一気に城壁の中に招待された場合もあるが、それは、つまり、理論や言語や数値ではなく、感覚の世界なのである。共通言語というがこれは確実に共通非言語の世界なのである。

 だから、自分自信が常にそのベクトルの状態でいてはじめて呼応・シンクロできる。そのチャンスはいつ何時訪れるかまったくのカオス。準備をして充分な予習をしてから、さぁ、先鞭一隅のチャンスよ来てくださいでそんなチャンスはのこのことやってくるほど現実世界は甘くない。ある日、突然、そのチャンスがあらぬ角度から目の前を横切るのである。もしくは、目の前を横切らない場合もある。だから、常に、心のベクトルを「キョロキョロモード」にしておく必要がある。いつ来るのか分からないチャンスを見逃さないために常にいつでもダイブできる前体重にしておく。これがもっともエネルギーが必要なことですね。一定のクラスをクリアしている世界ならその下位の出来ごとはどうにでも対応できるからエキスパートなのだし、そこで戸惑っているレベルでは次への覚醒はない。

 で、レアでディープなコミュニケーションをするためには、何をどうするのか???悲しいかなこの部分に適正な辞典もテキストもマミュアルもチュートリアルも存在しない。つまり、義務教育で得られたテンプレート化された問題集の中には正解がないのである。だから、日本が今、失速しているのだという見方が信憑性を得ているのだろう。さてさて、では、どうする?

 それを教育の問題にすれば脈の乱れは整うだろうが、根本的な解決策ではない。つまり、これらの問題は教育が全て担える問題ではないし、そもそも、これらを問題視することさえナンセンスなのかもしれない。何事も一を聞き十を知ると行きたいが、それはかなり限定された世界のレベルのお話だろう。

 逆に、私自信も踏み込んで来られる人に対して、何を持って共鳴しているのか?となると、これまた、言語化下に置いて明確に規定はできない。感覚のお話になるのですが、いわゆるその道の意識と無意識を共有できる「相性」という存在だろう。残念ながら、その相性のある人、どれぐらいいるのだろう???と考えてみるが、両手の指で足りてしまうリアル。まだまだ、動けていないということだろうなと反省してしまう。予習が足りない足りない。もっともっと、ポテンシャルを上げなければ・・・となるのである。レアでディープな独り言でした。