伊吹山ご来光02。

 本日の伊吹山ご来光映像です。山頂の風は防寒具の上から突き刺すような冷たさでした。

伊吹山ご来光。

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 1日は雨だったので本日午前3時前に伊吹山アタック。

 真っ暗の登山道を小さいヘッドライト一つで登り始め、8合目あたりでようやく明るくなってきました。

 視界が広がるとそこは一面の雪。山頂に近づくにつれて山麓とは別世界。

 冬の夜間登山はなかなかヘビーでした。

 なんとかギリでご来光に間に合い(7時4分)素敵な写真が撮影できました。

 かなりの防寒でのぞみましたが、山頂では寒風を受けて立っているのは1分が限界。

 本年もどうぞ変わらぬ一年でと山頂で両手を合わせてきました。

新年明けましておめでとうございます。

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 新年、明けましておめでとうございます。

 始祖鳥に乗ってパーフェクトヒューマンな一年を目指します。

17秒フラット。

 この1本のために3日前から朝の散歩と軽いランニングで準備したが、結果は17秒フラット。

 元陸上部の娘に計測してもらったから正真正銘の17秒フラット。

 これが52歳ガチの17秒フラット。

 二人でコースにトンボをかけて計測終了。
 
 これで2016年が終わりました。

言葉にする力

 「その気持ち、ちゃんと伝わってますか?」というD社のコピーライターが書いた本がある。

 コピーライターとして数々の受賞経歴があり、想いを伝える秘訣を教えてくれるそうです。まぁ、ここまで書き出した段階で私がこの著者の気持ちをちゃんと受け取っていないのは歴然なのですが、「言葉にできることが武器なる」という切り口はおおむね実感できるし、あの場面でもっと上手く伝えられたらあんなトラブルにならなかっただろうという後悔はあとを絶たないものの、このタイプの著者の気骨の部分が見えない私はどうも斜めに捉えてしまう。ここが私のいたらぬ悪い癖なのだが、私は言葉よりもちゃんと伝えるためには意識しなければならないモノがあると考えている。

 確かに言葉は大切です。「会議で発言する」「営業先でプレゼンする」「面接で自己アピールする」「異性に想いを伝える」「SNSで「いいね!」をもらいたい」これらすべて程よく実現し習得したい技術ではあるが、そこまでの経歴の著者が「武器」という言葉をチョイスしていることにちょっと違和感を感じる。

 少し話の脈がずれるがD社の社長が例の事件の責任を負い辞任した。そんな超巨大企業で仕事をしていた優秀な人材が仕事が忙しいからという理由で、自らの命を断つのはちょっと自身の感覚として違和感がある。優秀であるか否かは別次元なかもしれないし、超巨大企業だから就業規則や雇用条件と現実の就労環境に深刻な状況があったとも想像しにくいからだ。恐らく、同じ条件でも逞しく仕事をこなしている人もいるだろうし、その逞しさが身体能力に依存するのか精神構造に依存するのかは不明だが、ただ仕事が忙しい、職場の環境で追い込まれたからと言って自ら命を絶つというのはいかなものか。語弊があり偏った考え方かもしれませんが、私ならそこまで無理をしなければならない状況なら思い詰める前に会社を辞めるだろう。そこまでの状況になる前に予感や推測できただろうし、使命感があったにせよ、自分の命はひとつである。それを犠牲にしてやらなければならない仕事などない。目的と手法が交錯し混乱していたのではないだろうかと感じた。

 そこで、その責任を負って社長が辞任するというのもいかなものだろうか。これもよくあるパターンだし、結局、社長は言葉にできなかったから逃げたのである。

 しかし、戦国時代なら首が落ちて切腹するような状況である。この社長は結局、真意を隠し、言葉にすることなく自分の命を守り、優秀で真面目な社員さんは自らの命を絶ったのである。

 多かれ少なかれこのムードはこの国の美徳として捉えられているものの、この本の著者がいくら「言葉は武器になる」と言ったところで、それは本太刀なのか脇差しなのか?と問い詰めたくなる。

 対戦ゲームの仮想空間で華奢なヒロインが自分の背丈よりも長い太刀を振り回しているシーンを見かけるが、あのサイズの太刀を振り回せるのは現実ではありえない。仮想空間だから譲るものの、武器を描くならばその重量や質感も大切だと思う。操作レバーひとつで自分の身長以上の太刀を振り回し、迫ってくる敵を叩き切るのは爽快だが、その爽快さも脳は非現実だと知っていながら、興奮する臓器なのである。この仕組み、この構造を利用している以上、本当の武器は使いこなせないし、本当の敵も倒せない。

 私は言葉にするテクニックも大切だと思うが、登山道を登り始め荒くなる鼓動、ボートの上で感じる魚の感触、100mのスタートラインで全体重が両手にかかる実感こそが重要で、デザインの仕事においても、理論理屈を削ぎ落とした骨の部分でつくることが重要だと思います。成果物が優れている優れていない、つくり手として評価されるされない、受賞経験があるないはすべて終わったこと。

 何回も折れて太くなった骨こそが最大の武器だと。気骨の強いつくり手でありたい。

 そして、逃げ足の速いスプリンターでもありたい。

結局、役に立つコンテンツ。

 いまやネット上には130兆ものページがあるらしい。利用者に見つけてもらうために検索結果で上位にヒットさせる必要があり、そのためのテクニックがSEO対策である。本来は利用者が目的の情報を見つけやすくするための技術なのだがそれを逆手にとった輩がいるのです。

 とにかく、エンジンの上位にヒットした情報が有益だという仕組みになってしまったのだ。エンジンが情報を精査するアルゴリズムに悪意はなく、本末転倒な状況ではあるが、世の中、特にネットの内側がそういう仕組みになっている以上、外側では何も打つ手がない。つまり、ネットの情報は結果、「そういうモノ」なのだ。今更、キーワードを乱用した情報や無断複製があるページの順位を下げたところで、悪意の根源は消えない。

 このような事件が生まれる度に専門家や関係者は「結局、役に立つコンテンツをつくることが重要なんです」的な弁でお茶を濁すが、まず、「乱用」と「無断複製」が生まれる根を絶たねば、悪意はネット上から消えなし、情報が「役に立つ」ベクトルで浄化されることもない。情報とは結果「そういうモノ」だと学習し、情報の裏にある真実や気骨の部分を見極める必要があるのだ。「役に立つ」という捉え方も、千差万別百花繚乱だから、どこまでもケースバイケースな状況にどのようにワンバイワンで対峙すればいいのか?「結局」ってどの座標を言っているのだろう?となる。ここもグリット次第。

 恐らく何をどう考えても悪意が人間の心から消えない以上、AIの中にも悪意が蔓延るだろうし、役に立ちたいと純粋に取り組んでいる人でさえ、世の中の情報から「悪意」が消えなければ、情報発信ツールとしてのネットに失望するだろう。想像の産物、かのゾンビでさえ死んでるはずなのに悪意が感じられる。人間とは結局、そういうモノなのだろう。

 大きな力と悪意は紙一重なのです。

 と言いつつも私の中にも「悪意」があるわけですから、できるだけ「善意」に頑張っていただき、「悪意」が致命的な失敗をしないように仲良く見守っていくしかないのである。

 正に「フォース共にあれ」なのである。
 

天然な人。

 世の中には天然な人がいて、私のように理論理屈が先行したタイプは天然な人にはまったく刃がたたない。対抗策としてこちらも天然モードに切り替え、直情的に言葉のやりとりを試みるが、それでも真から天然な人には太刀打ちできない。

 テレビを観ていいるとたまに天然な人が登場して司会者を困らせているが、正にあの感じ。例えば、その代表選手としては松本伊代さんだ。テレビ番組だからだんなのヒロミさんも多少誇張脚色し話を盛っているだろうが、それでも伊代さんの実力は飛び抜けている。結果、ヒロミさんと伊代さんの関係ってバランスがとれていて夫婦円満となるだが。若手の2トップとしては、タキザワカレンさんと平愛理さんである。テレビの撮りだから飛び抜けている天然加減が爆発するシーンだけを観ていることになるので、多少、編集者の意図も作用しているものの、現場でのリアルタイムであのやりとりは強烈だろう。

 例えば、タキザワカレンさんなどは、ハーフということもあるのだろう、少し日本語の使い方が天然である。恐らく「下積み」というニュアンスのトークの流れだったのだろうが、それが簡単に「山積み」になるし、敬語も使い方がおかしい。タレントさんとしてはその天然さもひとつの才能であり個性だからいいが、日常生活でそのタイプの天然を炸裂されると結構辛い。

 平愛理さんも、さんまさんの番組で「好きな動物は?」の質問に、「猿です。」と答える。で、さんまさんが「日本猿?」と聞くと「ゴリラです。」と返す。さらにさんまさんが「えっ!じゃぁ、猿というよりもゴリラが好きなの?」、愛理さん「はい。」と、ここまでは、許容範囲想定内だが、「じゃぁ、ゴリラが好きですでええやん!そやろ?」と伝えると、愛理さんは「でも、一番好きなのはライオンです。」と。さんまさん「なんじゃそりゃ!」でドカーン。このキャッチボール、文章で読むとテンポとか間合いが悪くなるが、実際の流れを見ていると愛理さんの天然は飛び抜けていた。

 とにかく、お笑い芸人でもしっかりネタやギャグを練り込みひとつの技・スキルとして秀逸なキャッチボールを展開する天才も多いが、天然な人はこんな戦略的で攻撃的な人でも関係ない。向かうところ敵なしなのである。「無敵の天然」なのである。当然、悪意の欠片もなく、その場は練り込んだネタやテンポのある笑いよりも和み瞬間的に沸点に達するのである。

 私の近くにもこのタイプがひとりいて、当然、私は何をどう切り替えそうが勝てる余地・見込みがない。恐らく天然の人は「勝ち」とか「負け」とかまったく意識していないし、相手のリアクションさえもどうでもよく、とことん自分のペースを崩さない。結果、どんな言い合いになったところで白旗をあげるのは私なのである。

 私は「オロナミンC」が好きなので、買い物に行くんだったら「オロナミンC」も買ってきてと言うと、「空ビンがたくさん貯まるからダメ」と言われ却下となる。しかし、「チオビタ」や「乳酸菌ドリンク」は買ってくる。その理由は「安かったから」なのである。「ええっ!チオビタも乳酸菌栄養ドリンクも瓶やん!それに、オロナミンCと比較して価格もあまり変わらへんし!」と言うと、「いや、ちょっとだけ安かった」と言われる。なるほどなるほど、100歩譲って、どれだけ安かったのかは聞かないが、でも、「それも瓶だからゴミになるやろ」と返すが「ちゃんと洗って分別するから大丈夫だ」と言われる。「なになに、だったらオロナミンCも飲み終えたらちゃんと洗って分別したらええやん!」。すると、「オロナミンCは炭酸が強いから嫌いだ」と言われる。私はもうオロナミンCのことはどうでもよくなり、諦める。

 もう、理論理屈ではないのだ。天然は怖い。

 人はどんなに強い北風でもコートは脱がないのである。ああ、太陽になりたい。

お互い老いましたね。

 休みはできるだけ愛犬の散歩を心がけている。平日は早朝から深夜まで散歩の時間がつくれないことが多いのです。愛犬チョップも老化が進み散歩に対してあまり貪欲ではないような気がするからだ。これもひとつの老いである。

 2日前も早朝の散歩をがっつりして帰ってくるといつもの手順で朝のお食事。いつもの手順で玄関に愛犬と入り、朝食をセットアップ。私も散歩で多少息があがっているし、愛犬はもうかなりふらふら。玄関の低い段差にもつまずくことが多く、しっかりリードで体重をサポートしてあげる。そのままリードにつながれているがチョップは餌への意識しかなく、息を切らしながら小屋のところまでつれてき餌を食べ始める。その段階でリードは外す。

 私も玄関でタバコに火をつけて、ガツガツ食べているチョップを見ながら少しだけ屈伸運動などをする。チョップはこちらをチラチラ見ながら、朝食を食べている。

 その日も散歩中にいくつかチョップの老化現象が見られた。特に階段の登り降りはかなり困難になってきていて、8段ほどの階段もまともに登れないし、降りる時も最後の2段はいつもジャンプするのですが、その2段の高低差でさえ着地できず、4足とも体重を支えられず大の字になって顎着地状態になってしまう始末。飛び降りた勢いをそのまま顎で受け止めるのだから、人間ならかなりのダメージだろう。そして、昔なら散歩中、水路に飛び込み水の中のゴミに反応してはバシャバシャ遊んでいたが、最近では季節的にあまり飛び込ませていない。でも、水路沿いを歩くとどうもムズムズするらしく、たった30cm程度の幅が飛び越えられないくせに、水路に入ろうとする。その時は普通なら飛び込まない細い水路、チョップの身体がギリギリぐらいの20cmぐらいの幅をいつも感じで飛び越えようとして、向こう側に届かず、その水路に落ちた。深さが50cmぐらいあるので、ピッタリ身体がはさまってしまい、身動き取れない状態で、こちらを悲しげに見つめてくる。仕方なくリードをひっぱって地面まで持ち上げてやる。そんなことがあった。

 「お前も老いたもんだなぁ~」なんて心の中でつぶやく。ようやく朝食を食べ終えて、こちらを見つめているチョップ。と、くさりが首輪につながっていない!餌をあげてリードを外した後、首輪に鎖をつけ忘れた・・・。

 お互い老いましたね、チョップ君。

内側と外側。

 以前読んだ福岡伸一先生がその本の中で「口から肛門は身体の外側」だと言っておられた。一般的には食べ物を口の中に入れているという感覚なので、口から肛門までは身体の内側だと思い込んでいたら、福岡先生の捉え方は違っていて、身体の内側というのは口で咀嚼し胃で消化した食べ物が腸壁で栄養分として吸収された先が身体の内側なのだそうです。新鮮なこの捉え方に視界が広がった。

 で、この文章を読んでから、いろいろな場面でいろいろなモノの「内側と外側」について意識するようになった。

 今まで内側だと思っていたのが実は外側だったり、外側だと捉えていたことが内側の出来事だったりするのではないかという意識・捉え方の確認作業です。

 すると、身体の内側と外側の構造のように、「心」も内側外側構造になっているような気がした。

 心の内側とは他人には見えない聞こえない感じることができない閉塞的なスペース・ゾーンで、外側とは言動や振る舞いなどで外から(他人から)見える・感じられる存在。心の存在についてはどのように捉えているかについては個人差があるだろうし、理論理屈で機能や能力として捉えている人もあれば、曖昧なイメージでぼんやり・ざっくりとした捉え方をしている人もいるだろう。実際、「心とはこういうモノだ」とか「心はこうあるるべきだ」などの文字表現で心を明記・規定・定義する人もいれば、「なんだかふわふわしている空気のようなモノ」などように概念で捉える人もいるだろう。それほど「心」とは実際に存在していろいろな感情を生み出す機能がありつつも、ではさて、どんなモノだと聞かれると、明確に答えることは難しい存在なのだと思うのです。

 だから、当然、個人差があるだろうし、共有できることって結局、外に出したことのみだから、心を共有することは実際は不可能で、言葉や感情などをお互いに外側同士でアウトプットしたボールをキャッチボールしているだけなのです。「上手く言葉にできませんが」という注釈を言ってから、食レポしているタレントさんなどをテレビで観ると、心が感じた信号を誰かに伝える、つまり、心の内側から外側に出すテクニックってかなり複雑で難易度が高そうだなと感じます。

 私は医学にまったく精通していないが、家庭の医学レベルの知識で、栄養バランスの良い食生活が健康維持には有効で、偏った食生活や暴飲暴食を繰り返していると結局、そのダメージが健康を害するってことレベルは知っている。心も同様に漠然と捉えず、概念として内側外側構造になっていると捉えると、理論理屈も曖昧なイメージも結構整理し比較し捉えることができます。

 これの捉え方はどこかの心の専門家がしっかり理論立てて構築した構造理論ではないので、どこから内側でどこから外側なのかも説明できませんし、ただ、漠然と内側と外側を意識して比較しているだけのレベルです。実例や実験を繰り返し調査・検証し、そのデータを解析した理論でもないのですが、福島先生のお話をきっかけに、モノゴトの「内側と外側」を改めて再認識して、それを心に適用してみると、意外と日常生活や仕事でのモヤモヤした思考の流れが整いましたという、まったく個人的な自論です。

 さて、今日は12月30日。今年もあと1日。無事、年賀状も出せたので、明日はこの「内側と外側」の捉え方で書き溜めたメモを少し掘り下げ、少し覚醒させて2016年の締めのブログを数本書き出したいと思っています。

映画「無限の住人」

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 すでに賛否両論が飛び交っている話題作、映画「無限の住人」。私自身も以前、ブログで書いたとおり、この実写映画は否定的だった。とにかく万次さんが木村さんだと聞いて、意識が遠くなりかけました。が、さて、実写映画ありきと捉えると、他に万次さん役がいるのか?という疑問が浮かぶ。あくまでも沙村さんがその漫画作品の中で生み出した主人公。「不死」を演じることができるのは、意外にも木村さん以外に思い浮かばない。この捉え方には「良い解釈」と「悪い解釈」があるのですが、実写映画ありきなら、万次さんは木村さんが適正なのだと、今は感じています。

 背中がかゆいなぁ~、手が届かないなぁ~、だいたいここら辺かかなぁ~と手を背中に回して痒いかなと思ったところをかき始めると、その場所が痒くなる。すると、その周辺が痒くなり、次第に痒みが背中全体に広がる。そんな感覚です。

 よりも、市原さんが、とことん楽しみ。ここはかなりヤバイと思います。