絵になる方。

 ほんとになんでもそうなんですが、たくさんいろんなモノで飾っている方は美しくない。美しくないと言う表現は乱暴な表現ですが、「美しい」の反意語としてそれ以上それ以下の意味合いはありません。例えば音楽ライブ。有名どころのアーティストでも演出やステージの美術的な部分だけが一人歩きし、当の本人はその中心でライトをあびながら歌っているだけというライブと、会場の効果や演出は非常にシンプルなのにそんなにデコレイトせずとも、本筋である、歌歌いとしてパワフルで表現力があり音楽性に富んだステージとでは、あきらかに後者のアーティストが絵になる。
 また、写真集でも、肌の露出度も売り上げに密接に関係しているビジネステイストな部分はよく分かりますし、演出やアートデレクションや企画ネタで魅せようとする、売ろうとしている写真集と、本人は至って自然体。そこにカメラマンとの阿吽の呼吸があり、本人の魅力がほんのさりげない仕草やポーズにあらわれ好感を抱いたりアーティストとしての魅力の広がりを感じる写真集とでは、これも明らかに後者の写真集が絵になるというか、魅力的だと思う。
 器の場合はとなると、これがまさにの部分で、フォルムや質感や色合いなど作家の方は必然と偶然を繰り返しながら自分の描いた完成形に向かって感覚を研ぎ澄ましておられるはず。しかし、結果それが作為的に見えたり過剰に見えたりする作品は絵にならず、創り手の感覚がそれを見た瞬間、または、手にした瞬間、びびっと伝わるような感覚の器はどこに置こうが絵になる。
 つまり、人も同じであり、絵になる人は何をしても絵になる。しかし、絵にならない人はどれだけいい服を着ても、地位や名声をアピールしようが、いい車から降りてこようが素敵な場所で漂っていようが絵にならない。絵になる人はいるだけでいい。そして、不思議な事に絵になる人が作ったモノや絵になる人が描いた絵や絵になる人が撮影した写真は必ずどこかしっくりと落ち着きながら衝動とも激情とも表現できないエネルギーを含有しているように見える。絵になる人になりたいものだ。