武士の一分か。

 レンタルが開始されてチェックしていたのですが、なんとなく、観るのを据え置きにしてしまっていた木村拓哉さんの「武士の一分」。昨日は新しい山田洋次監督の映画の宣伝なのかテレビで初登場ということで観ることができました。「たそがれ~」で寡黙な武士道のなんたるかを改めて感慨深く拝見できたことで、やはり山田洋次監督は凄いなぁ~と思いましたが、次の永瀬君主演の映画はどうしても観る気持ちはなれませんでした。武士と永瀬君がイメージの中でどうしても繋がらず、きっと、そのことが気になってお話に集中できないだろうと感じてしまったからです。食わず嫌いの勝手な先入観なのですが。しかし、同じく、木村拓哉さんのこの「武士の~」も同理由でスルーしていました。しかし、それは違っていました。たぶん、永瀬君のそれも「たそがれ~」のそれと同じく、山田洋次監督の武士道がしっかりと描かれているのでしょう。
 で、「武士の一分」の中での「切腹」という位置づけ。城下町に殿がいて家臣がいて町民がいて、その下の地位の衆がいる。そして街は成立している。その統制を乱す人間はそれが意図するしないとは無関係に過ちを犯し上部の判断の元自害する。上部の判断を仰がずとも、どのような悪行に手を染めていようが、自らの人生感において片腕を失った武士はその未来を思い右手だけで切腹をする。そんな時代に人間と人間は何を思い生きていたのだろうとしんみりとした古(いにしえ)の文化に思いを巡らすことができ、しかも、夫婦の愛についてもその時代背景をベースに、引き合うという人間の力の美しい部分をこの二人で表現されれば、そりゃ、ええもん見せていただきました!と言わざるを得ませんね。ちょっと、軽口(アイロニカルな表現)を叩く木村拓哉さんのキャラもしっくりと画面にはまっていました。盲人という設定もさすが徹底的に研究・リサーチされた演技がバッチリで引き込まれました。
 不条理を刀一本で解決し、非を認め自ら腹をかっさばく武士の侍の魂。日本の心のカタチのそのフォルムの美しさに引き込まれた映画でした。