未来予告。

 先が見えないことほど不安なことはありません。先を見ることはできないから、人は予定をたてて目標を設定して今を過ごす。今さえよければ的な行動には不安ありきの非生産的な時間つぶしに思え、目標を失い指針を失い、あげくの果てに自分を失うのですと、ある書籍に書かれていました。確かに、人には性に会う会わないがあり、どのようなことにもそのルールでモチベーションが上がる上がらないを左右されていると思います。だから、星座や血液型や自分の意味を依存して安心している。それはタイプ別であてはまる未来予告を手にいれてつかのまの安心を得ているに過ぎないと、きっとこの著者は言いたいのではないだろうか。しかし、その不安や不快感を目標を設定して安心と快感に変えても、確信に置き換わることはなく、1分後も1時間後も1日後も常につきまとう不安と不快感と仲良くする方法を見つけた方が、見つけることこそが安心だと考えた方がいいように思う。しかし、これは難しい。非常に難しい。なぜなら、学校教育の中にこの種がたくさんちりばめられているからである。これも闇雲に否定しているわけではないし、ただの仮説であり空想レベル。しかし、逆説的に空想こそが安心であるとも言えなくないのではないだろうか。
 この書籍の著者を決してななめに見ているわけでもなく、否定的にとらえているわけでもない。自分の人生のゴールを持てといろいろな啓蒙書が氾濫していますが、結局、きな臭いお話を噛み砕いているだけ。信じる者が救われるという黄金の方程式はいつの時代にもどこの場所ででも紙ふぶきといっしょに派手に煌びやかに行進していることを踏まえ、先が見えると救われるのか?と自問自答のループが止まらない。こうしたいああしたいなどと考えることはただの煩悩で、信じるということは清く、信じないということは濁っているのか?不安定な国を立て直すために、方程式を確立したかに見えたが・・・。世界水準の経済力と生活と教育レベルを手に入れた国民であるはずなのに、中枢の人間になればなるほど、輪の中心である牽引力を発揮すべき人間が実は一番濁っているんじゃない。清いということは何も持っていなということかもしれない。不安の本質とはそれほどに多種多様なのだろうか?と思う。
 手短な単刀直入なとてもジャンクな未来予告が氾濫しているとは思います。