どの世界も同じ・・・。

 非常に不思議なお話をお聞きした。私が小学・中学の頃の習字と言えば、お手本を見て、筆の基本的な使い方を見よう見真似で複製しながら、美しい毛筆の表現を習っていた。そんな時代に書の心なんて存在するはずもないし、美しい文字というのは教科書の中に書かれた文字が全てだった。そして、表彰される作品も基本に忠実に書かれた作品が入賞していた。が、しかし、現代は少し違うらしい。小学生の頃から太い筆に墨を充分に含ませて、とにかく大胆に、とにかく表現力豊かに、とにかく独自性を・・・という表現が主流らしい。確かに文化会館などで見る毛筆の作品の傾向はそのような作品が多かったように思い出していた。さて、基本的な筆で教科書どおりに書くことがいいのか?小さい頃から自由に紙面をいっぱいいっぱに使ってそれぞれのバランス感覚で書くことがいいのか?という疑問である。
 また、地域の文化教室などの書の展示会においては、審査員の方のスタイルがその展示会の基準になり、自由性どころかそのスタイルに沿っていない作品は審査外です~みたいなKYがあるとかないとか。そんな世界は興味がないので、30へぇ~なんですが、それで何が楽しいやら。そんな気持ちで半紙に向かって筆を走らせることが書!?と思ってしまう。確かにどれを見てもドングリが並んでいるような記憶がある。でも、それでも、書は書である。自由がいいのか、スタイル・手法・セオリー重視がいいのか。どの世界でも同じようなことが起こっているのだなぁ~と思う。
 絵画や工芸の世界もたぶん同じなんだろうなぁ~と思う。だから、公募展などに何かを出展しようとか、何かの検定で上位を目指そうとかは一切これまで考えたことがない。それに猛進することで新しい自分の表現が発見でき、そこで開花する自己もあるのでしょうけれど。脈々と続くその世界の歴史を知ることが表現の入口だという考え方もできなくはないですが、やはり、個人的にそれはNGだと心が判断していまう。あ~あ、結局どの世界も同じなんだなぁ~と思う。ここまでで何かを肯定した、何かを否定したという感覚はなく、高揚もしなければ悲観もしていない。ただ、「世界」とはそういうモノで、否定とか肯定とか言いながら時間が過ぎていくことにこそ意味があるとしたら、多分、フロイトが生きていたら喜ぶんだろなぁ~。