何故?絵なのか。

 目的があり手法がある、しかし、絵が見えないという状況。これはいろいろなケースがあるので、特に限定してこれだっって絞り込むことが難しい。例えば、個展をしたいとある画家が思う。その理由は認知されたいという目的のためでもあり、自分は絵を描くことが好きでいつも絵画に接しているケースが多くその手法・手段を持っているという自身が少なからずあるからである。しかし、それだけの理由で個展をするとどうなるか・・・、そういう個展をよく見かけるし、なんとなくそういう匂いがプンプンする時、できるだけ思考の中から排除するようにしている。それは単純に好き嫌いかもしれないが、好き嫌いにもルールがあるわけですから、好き嫌いを軽んじてはいけない。やもすると世の中のほとんどのチョイスが好き嫌いで下された判断の集積かもしれないからである。
 100人の人間がいて、100人すべてに「好き」と言わせる絵は絶対に描けないことを絵を描く人は知っている。知っているというかそれが世の中のルールだと学ぶ機会を経てそうなるからである。この場合、好きと嫌いをベースに存在する世の中のルールとは何だろう?多くの賢者が集まりそれぞれの経験値を持ち寄りそのルールに対して一番いい結論を出すために集まったとする。しかし、左の脳では見えていても、右の脳でそれが見えない場合もある。勿論、その逆もあるのですが。その場合、左と右などと強引に分かったようなことを言ってはいるが、それも実証する術は人間にはなく、なんとなく、それこそ世の中のルールで左脳で考えてだめなら、たぶん、右脳の中に答はあるだろう・・・的な挑戦に過ぎない。左脳は文字で右脳は絵的な発想だと知識では知っているが、それは本当だろうか?たぶん、それは人間である以上、永遠に不明であるはずであり、突き止めた段階でたぶん左脳でも右脳でもどちらでもいいや!ってことになるはずである。
 そこで、文章表現的な着想パターンと絵画的な着想パターンの間にある違いだけにフォーカスすると、双方の特長が見えてくるように思います。つまり、見えたのです。ではなく、見えてくるように思いますですから、これもかなり緩い仮説である。しかし、緩くて何が悪いというひらきなおりは生産的ではないとは言い切れない。緩いテーマをいろいろな角度から眺めてその中にサインを見つけることができれば、それはそれで、前進できるように思います。だから、絵を描くということが生産的だと思える理由なんでしょうね。つまり、目の前のサインに対して肯定と否定を繰り返していると、そのどこかで、何かが生まれることがある。これが絵のような気がします。つまり、そういう個展をしたいと考えれば考えるほど、感じる力がしぼんでいくのです。個展はそういう意味で私には難しい存在なのです。絵は好きなのだけれど・・・。