「知っている」の実態。

 誰でもインターネットを活用して情報をどこでもいつでも収集できる環境が凄まじいスピードで世の中に浸透し、「飽和している氾濫している」「次世代コミュニケーション」「ユビキタス社会到来」などと言われ続けて久しいのですが、確かに情報は氾濫しているし、情報の受発信も容易になったことには異論はありませんが、さて、適度にほどほどに最適にという「加減」のモノサシが少し狂っているようにも見えなくないですね。狂っているというとかなり乱暴な表現ですが、あふれる情報を制御できないのに集めてるだけで「知っている」は体感できても、さて、その本体(脳は人間は)はそれについてどう的確に反応しうようとしているかを俯瞰視できているのでしょうか。テーブルに全世界の料理を並べられて「おおっ!素晴らしい料理の数々だ、ルネッサ~ンス!」と咆哮するか、それとも、「ほんとに食べたい料理を手短にテーブルに並べてゆっくり味わいながら堪能するのかは、自由だぁ~~~!」と等身大の満足にこだわるのか。所詮、ひとりの人間が1日で10,000相手にメール交換はできないわけですから、等身大の活性化された情報を会得・体得する、身にしっかりつけるスキルだけあれば、時にフランス料理に、時にイタリアに、時に豪華な中華で舌を楽しませるのもいいかもしれませんが、頭がメタボになる前に、頭の代謝率を毎日計測するDSが開発・発売されないかな・・・。心技体と申しますが、実はデジタル文化は有機体の中で昇華されていることだけは決して忘れてはいけませんね。
 「知っている」の詳細をもう少し細かく認知していきたいものです。