2008年08月 アーカイブ

「完璧主義」という幻想。

 このタイプの人とお話をすると面白い点が3つあります。ひとつはお話しているどこの段階で「自分は完璧主義なのかなぁ~」もしくは「自分はどちらかというと完璧主義なので~」という言葉がどの文脈に入ってくるのだろうかとお話の本文を聞きながら、別の頭でそんなことをどこか期待していると面白い。長い話でこのフレーズが数回出てきた時にそれぞれに微妙に語感やニュアンスが異なる場合があるが、それも面白い。元来、自分自身はツッコミ系だと思っている(思い込みかもしれませんが)ので、思い切って次のフレーズでは微妙にツッコミ入れようかなと思うが、得てしてその人ご本人はボケているわけではないので、さらに、完璧主義と自らを称する人は他人からのツッコミをうまく受け入れることが苦手な人が多いのでなかなか実現していない。でも、いつかやりたいと思っていろいろなツッコミパターンを考えている。以前、「QRコード」のことを「CRコード」と言っていた人がいて、何回もそれを連呼されるので、4回目ぐらいに「それはQRコードですか?」とたずねたら、「そういうのもあるわね」とスルーされた。心の中で「パチンコかい!」とツッコンでいた。
 二つ目は物理定数がよく出てくる。私自身の微弱な知識レベルではそりゃ知らない物理定数が山のようにあるから、正確無比なツッコミを入れるために日々勉強しているわけですが、「チームマイナス6%」のお話をされていたある人がこれもまた、地球環境主義者で「マイナス6%」の意味を啓蒙されてくる。これは目安ですし、これを提唱するこの国や世界情勢の背景は複雑で賛否両論だから、あまり、「マイナス6%」に絶大な信頼を置きそこから持論を展開することはちょっとナンセンスだなぁ~と思いながら、その方の地球環境とビジネスの取り組みに対するビジョンを聞いていた。とてもとてもその人の前で「チームプラス6%」があることを切り出すことはできなかったし、6%という物理定数についてどこまで信憑性があるのかという議論には発展しなかったので、お話の上での道草は避けた。そもそも物理定数に依存すると広い視点と深い考察ができなくなるので、どこかあさっての頭で聞く癖がついてしまい、はなからどんな物理定数でも疑いから入ってしまう。しかし、完璧主義の方はその牙城は揺るがない。それはそれで立派な理論スタイルである。しかし、どこか面白い。
 三つ目は100%(物理定数!?)なパターンなのですが、そういう方はあまり人の話が頭に入ってこないパターンが多い。お話を始めて冒頭で投げた石をお話の途中で確認し、最後にその石はどこの引き出しに納まったのかなと確認するためにそのことに触れたりすると、その石をそいう方は自分の引き出しには絶対入れない。入れないばかりか、どう入れていいのかが分からず、ずっと、手の中に持っておられる場合が多い。最後に、「すいませんでした。じゃぁ、一旦その石は返してください。」ということになる場合がとても多い。なんか、最後には恐縮してしまって、向こうも「この石は私の歯では噛み砕けませんでした・・・」みたいな表情をされるので、なんでもなんでもツッコめばいいということではないのだなぁ~と反省していまう。
 で、完璧主義の方が私のような楽天家とお話する時は「バカとハサミ」について完璧にリサーチしておいてほしいと思う。しかし、楽天家は完璧主義の方のことをツッコミがいのある人としてしか捉えていない傾向にあるのでご注意ください。

舞妓はぁ~ん!

 なんかとっても良かった。いろいろなひきつける力がありました。勿論、阿部さんと堤さんの怪演が支えていた映画だと思いますが、なになにそれだけではなかったですね。京都の文化というか舞妓さんという日本が誇れるステイタスをここまでエンタメに仕上げる脚本力と映像の力にただただ引き込まれた映画でした。舞妓遊びなど一生縁のないお遊びですし、何かのきっかけで舞妓さんと出会えるような人生でもなかったので・・・。しかし、映画の中の舞妓さんは輝いていた。舞妓の世界に飛び込んだコウさんが、最初はどこにでも(いやいやコウさんのようなOLは絶対にどこにでもいないが・・・)いるようなOLが好きな人のために舞妓の修行をはじめて、開花する様は女性の魅力がある限られた世界で研ぎ澄まされていく縮図を見たような気分でした。毅然とした凛とした女性はやはり永遠のシンボルですね。しかし、あそこまでとんでもない展開が思いついたとしてもそれを映画作品として仕上げてしまう人達の力に圧倒される。大文字焼きで「大好き」って!いやいや参りました。健康状態は靴にあらわれるのか・・・。

文章に親しむ。

 若い頃(20代)はデザインの勉強だと思って雑誌をたくさん買ってデザインを見たり写真やイラストを見たり文章を読んだりしていた。しかし、ここ数年はそう言えばあまりトレンド系の雑誌を買わなくなり見なくなった。興味がなくなったといえばそれまでなのですが、デザインやCGやWEBなどの雑誌や趣味ならゴルフ・バスフィッシング・美術・建築系の雑誌に限定されてきた。また、書籍の傾向も若いころは小説が国内・海外問わず多かったが、こちらも作家がかなり限定されてきた。とにかく、SFや展開が複雑な小説が好きだったのであまり国内の作家の小説は読まなくなり、海外の作家も10名ぐらいに限定されてきた。その代わりにビジネス書や心理学・哲学・科学・科学・宗教学・医学・法律・論文系などの書籍が増えて、そのジャンルの書籍でも著者が絞り込まれてきた。
 特にデザインやクリエイティブ系の書籍については、文章で何かを得るということよりもそのクリエイターの作品を見ることが大切だから、文章でデザインやクリエイティブの何かを吸収したいという視点がないからだろう。ということで文章に親しむことが、何か仕事でもライフワークでも文章的表現をアウトプットする時に役にたつ。絵やデザインもそうですが、誰かに向かってを想像して、何かを伝えるために創造するわけですから、文章もしかり。ターゲットを設定しながら、文章を書いているはずです。誰に何がどの程度伝わるかということを意識しても、ボキャブラリーや文章の構成力が乏しいと文章は崩れる。というほど文章にとても長けているとは言えない私なので、まして、文章を書くことのプロではないが、文章を読むことは好きだったことから、文章で何かを表現したり、誰かに向かって何かを伝える手法として絵やデザインの他に文章というギアは好きな手法である。「好きこそものの上手なれ」などとは言うが、もう何かを作るとき書き出すときに「上手に」とは考えなくなった。昔(学校の頃)は何事も上手にできるように努力していたような記憶があるが、上手に描いたり書いたりすることはある限られた時間の空間の条件の中で、優劣を設定したいがためだけのサイズで、本当は実際はそのサイズはあまり気にしなくてもいい。で、あまり雑誌を買わなくなった原因のひとつに、雑誌の中の文章が緩いということが原因としてある。ほんとにあえての部分なのでしょうけれど、雑誌の文章は緩い。広く多くの方に共感を得るための文章だから、あたりさわりのない言葉がチョイスされ、どうでも解釈できるような文脈になっていることがなんとも緩い。その雑誌のブランド力だけでそこにある記事がシンクロするような錯覚に陥ると大変なことになる。その雑誌ブランドとそこに掲載されている情報の本質はあまり関係がないように思える。それは、すべてその雑誌のライターの文章力に依存しているような。だから、雑誌はやはりビジュアルや写真を魅せる紙媒体であり、書籍は文章を読ませる紙媒体なんだと思う。明らかに違う媒体を混同しかけていたのだろう。
 そこで、WEBである。ブログ・メルマガ・コンテンツ中の文章はそのどちらだろうか?それともどちらでもない新しいアプローチが必要なのだろうか・・・。それについは仮説も暫定的な結論もまだ出せていない。皆様はどう思われますか?

「仕事」の概念。

 よく「手法」か「目的」かという議論になるとまるで「手法」が不適切で「目的」こそが絶対だという結論に流れがちですが、ほんとうにそうだろうか。そもそも、経済の仕組み(そんな巨大な概念や通念を語れるほどの経験も知識もないのですが・・・)とは誰が決めている?というシンプルな疑問があるとするれば、その答は百人が百人の答を持っているはず。その場合目的の数が百なのかひとつなのかという疑問が発生し、そのための手法は百でいいのか二百必要なのかという議論になる。これが、いろいろな場面でいろいろな時代背景と個人の資産や技術力や知識力で経済が成立していると、誠に簡単なフレーミングを行うと、さて、「仕事」とは?何なのかと、その概念はどうであるべきなのかという疑問に辿りつく。これには賛否両論どころではない数多のトライ&エラーがある。
 そこで、「いい仕事」とは何か?ということである。それだけの変数というか乱数をひとつの方程式で回答できないのであれば、それは、「なりゆき」「ふるまい」「偏在」というファジーなアプローチで取り組まざるを得ないのではないだろうか。しかし、理論がそうはさせないジレンマがある。いいと判断するためには、そういう原因を内部か外部に設定して結果を導くための試行錯誤が必要である。「いい仕事」は幻想なのか結果論なのかということである。で、今、この時、自分自身はどこのポジションなのかを知るために、つまり、アイディンティティを確立するために、鏡が必要なわけである。ネットワークの中の個が見えていない状態でお山のなんとかがそれなのか、海の孤島で死ぬまで狼煙を上げ続けることがそれなのか、地球の資源を自分の資源と勘違いして戦争に従事するのか・・・なのである。
 いい仕事はしたいですが、自分を知らないと自分のエネルギーが浪費される。時に浪費と思えることが実は的を得ていて結実し素晴らしい花を咲かせる。それが結果「いい仕事」なのかもしれない。だから、情報交換こそが一番大切であり、ネットワークを広げることは結果、自分自身を知るということなのである。にもかかわらず、微弱な理由でそのチャンスを自ら放棄する人が多い。というか、それには価値はなく、バーチャルな抽象的な信号をリアルのそれと勘違いする時代が現代のインターネット時代のように思える。それはそれで活用すれば真、ふりまわされれば偽なのである。いつかこのことはもっと整理して自分の書籍の中に記述したいと思っています。それが私の現在希望している「いい仕事」のような気がしています。

神々の「Web3.0」か。

 「人間関係の解析」と「あなただけのカスタマイズ世界」が今後インターネットが向かう方向性らしい。光文社から出ている書籍の広告でそう知る。なになに、何が1.0で何が2.0で、で、3.0ってそんなに世の中も人間も変化しているわけじゃないでしょう。この書籍にはWeb3.0概念の開発者のコンセプトが明らかになっているそうですが、さて、それはどんなものか・・・。もう、かなり、この広告のコピーに心を奪われています。

猿の会開催!!!

 クリエイター仲間で開催している「猿の会」というゴルフコンペを久々に10月に開催することになりました。いつものことながら、わいわいがやがやと白いボールと戯れようと思っております。メンバーの皆様又、幹事さんから連絡が入ると思いますので、よろしくお願いいたしますね。場所は南河内の例のスペシャルウルトラスーパーコースです。今から当日が楽しみ楽しみ。

TAKAKO KISHI WEB-SITE

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 素敵な写真の条件はいろいろあります。クリエイターとしてグラフィックデザイナーとしてWEBデザイナとして、写真へのこだわりは個人的にいろいろありますが、素敵な写真って「らしさ」だと思うのです。決して写真を語るようなキャリアもなく、技術力もないのですが、ただ、写真を仕事として扱うプロとして素敵な写真だぁ~と思うモノサシって、既成の構図だとか色彩だとかモチーフの解釈だとかいろいろそれこそたくさんの方程式があると思うのですが、そんなことよりも、その写真を撮影された方の視点というか気持ちというかこだわりが、その写真を見た時感じられた瞬間、無駄な力が抜けて気持ちが素直に入り込める写真は「らしい」写真だと思うのです。それは、とても個人的な視点なので、いい悪いや好き嫌いで判断しないように努力をしていると、「好み」というモノサシとは、何かを見極めようなどという気持ちが心にチラリとでも起動したとき、その影響を受けて見誤ってしまうことが多いような。しかし、いろいろな写真を見る時に、「らしい」か「らしくない」という視点で写真を見ていると、「らしい」と印象がある写真の方に心が動く場合が多いです。このなんとも抽象的な価値判断がアートやデザインを見る時の目ヂカラに大きく関係しているように思います。古い絵を解き明かすなんて何かの映画のキャッチコピーのようですが、実はそれが芸術作品であるなしに関わらず、何かを見ているということは、少なからず何かを感じて記憶しているということだから、その時、頭の中で起こっている複雑な信号は決して言語や論理に置き換えられないように思うのです。だから、その写真を撮影した方の個性や完成が「感じられた」と思えるならそれを考えず感じられたなら、その力こそがその絵の写真の力だと思いたい。
 という長いひねくりまわしたような説明文よりも、TAKAKOさんの写真作品は一度見てください。と素直に最初からお伝えするべきでした。ということで、今回から情報紙S.O.S.第25号からお世話になっているTAKAKO KISHIさんのWEBサイトなのです。

TAKAKO KISHIさんのWEB-SITE

確かに3つの力は大切。

 頭のいい人になりたいと思わない人はいないはずであるが、頭がいいとはいったいどういうことなのだろう?また、センスのいい人になりたいと思わない人もいないはずで、オリジナリティーの高い人になりたいと思いない人もいないはずである。いずれも「より頭のいい人」「よりセンスのいい人」「よりオリジナリティの高い人」という思考パターンのはずだから、誰かよりもそうであることが、何か得になったり満足感に満たされたりするからそう思うのだと考えている。
 では、頭のいい人とは何だろう?いろいろ自分なりにああだのこうだのと考えていたが、それを整理することは自分自身の仕事にも生活にもそれほど重要なことではないために、ただ、頭に浮かんだ時にそれを考えるという程度だった。そんな日頃頭の中でもやもやフワフワと浮いているモノが何キッカケでファインダーのピントが合うように、目の前の霧がなくなるように、見える瞬間がある。それは、整理した考察や仮説を書籍やWEBサイトなどで発見した時である。それらを読みながら、ああ、この著者はこのWEBマスターはちゃんと考えや仮説を整理してらっしゃるなぁ~と思うと、そこで、いっきにその内容へのテンションが上がる。そんな経緯で「頭のいい人」イメージが整理できた。
 ひとつめは、「物知りタイプ」であり、いわゆる記憶力や知識量が豊富な人である。多種多様な知識を持ち適材適所にその知識や知恵を引き出す力が頭のいい人がもつ一つ目の力。
 ふたつめは「機転が利く」というコミュニケーション能力に長けている人。いわゆる空気が読める人である。この能力は多くの経験や試行錯誤の中で得られる能力だから、時と共に衰えることがない。一旦身についた人がある日突然コミュニケーション能力が低下するということは少ない。
 三つめは「知的思考能力」である。目の前の問題に対する処理能力が高く、また、常に広い視野で物事を捉えることができ、その問題の解釈から解決方法へ導くいろいろな手法を持っている人である。この能力もコミュニケーション能力と同じで衰えることがない。
 現代は情報の時代だから、ひとつめの能力はPCさえあれば代行ができるが、他の二つはどんなモンスターPCを使っていようが、夢のようなソフトウエアを活用していようが、PCに代行させることは難しい。夢のアンドロイドが「最近はボチボチでんなぁ~」としゃべったところで、「電池抜いたろか!」で終わりだろうし、「君の考察には情熱が足りないねぇ~」と言われたところで、「で?」で終わり。つまり、3つの能力が高い人は「物事が立体的に見えている」からである。自分の知識や経験値に翻弄される人は二つ目と三つ目の能力とのバランスが悪く、世渡りノウハウだけの人は何かを創出したり人脈を作ることが苦手である。素晴らしい知的思考回路を持っているいる人でも知識も少なく空気も読めないとY教授のようなピエロとして自虐的に楽しむしか仕方ない。いずれもバランスが大切なんだなぁ~と、「地頭力を鍛える」という書籍を読んで痛感した。
 さて、ここからが肝心であるが、その3つの能力を高めることを頑張るとして、それは何のためという疑問が存在し続ける。このブログもそれを見つけることが目的のような部分もあるので、また、そいういうテンションになった時にこれをもう一度読み直してこの気持ちを思い出せたらいいかなと思っている。

「ウォーター・ホース」いいっすね。

 ネス湖のネッシーはいるのかいないのか・・・、伝説の生き物は何のために存在するのか・・・、人は人以外の存在を敵か味方かで区別するとき、何故そんなに片寄った理解ができるのだろうか・・・、もし、それが現実なら意外と現実はつまらなく、もし、それが夢ならそれはそれで意外と素晴らしいのではないだろうか・・・などと、エンドロールで頭に浮かんだ映画でした。泳げない人の心のイメージが非常にリアルに描いてあった。あのシーンはドキリとした。男の子ならあの状況であれを見つけたら絶対に育てるんだろうなぁ~と思った。女の子にはない興味の対象だなぁ~と思った。そして、戦争。戦い争うことがこの地球上からなくなることがホントに平和なのだろうか、もし、平和が均等なら、夢や希望や感激や感動もなくなってしまうのでは・・・。
ウォーター・ホースのWEBサイト 

ブログでブログのこと#001

 「ブログ」が世の中でブームになった頃、個人的には興味は0でした。理由は明確「日記を書く時間などない」からである。しかし、世の中がこれほどブログブログと騒いでいると、そんな偏屈な私でも「その中に何かあるの?」と興味が頭をもたげる。「やってみなよぉ~面白いでぇ~!」「コメントも入ったりするとなんか嬉しいっすよぉ~!」「エンジン対策ににもなるんですからぁ~!」「自分の考えを整理できるし、いつでも、PCさえあれば見れるからぁ~!」などと周囲の熱意にほだされて始めた。お誘い頂いた理由の中には現実と違った部分もあったものの、皆様からの言葉とても熱意にあふれていたし、何かを始める機会を与えていただきながらそれを先入観や適当な個人的な理由で否定することは常日頃したくないと考えているので、結果、その人たちの想いがあったからこうしてブログを書けているように思う。すると、ブログの価値は意外とそこにあるようにも思えてくる。ブログだからその中に記事としてテキストや絵や写真として収まっている個人発信型の情報に価値があるように思えるが実はそれはどうでもいいことのようにも思える。つまり、その中に書かれている内容と同じぐらいにそこに存在するブログマスター像にこそ真価があるように思いますね。それは、たぶん、記事や話題やその人なりの解釈の中に現れるその人の像がいったいどういう形や色や匂いや感触があるのかという部分をPCやモバイルキャリアを使いながら人は感じているように思います。まわりくどいギスギスした記事を書いておられてもどこかそのブログマスターは人間的に大きさを感じてしまったり、時勢のネタを面白おかしくウイットに手馴れた記事を書いておられても「こいつは意外と小せぇ~な」とか、薀蓄ばかり並べてもこれはいわゆるコピペ族で「この薀蓄は何かからの受け売りでしょ?」とか、短い文章の中にどっしりした人間像が存在する場合もある。つまり、小手先ではなく、人は誰でもその文章や記事の裏にある人間像を見ているということなのである。言葉には出しませんが、言葉に出さないからこそ、その部分が最も大切な部分なのではないでしょうか。引いてはこの感覚は通常の対面関係上のコミュニケーションやメディアを介して何かを伝えようとする時のTIPSにも精通しているように感じるのです。まずは、ブログでブログのこと考察#001でした。

梅田のロフトにて。

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 梅田のロフトで買った「恐竜手ぬぐい」です。キーボードカバーに使っています。色もパターンもなかなかいいテイストです。ロフトにはやはり当然あたりまえのように長浜にないいろいろな商品が並んでいました。さすが梅田である。各階をぶらぶらするだけで頭の中がぐるぐる動きだす。湖畔を眺めるのもいいですがいい刺激が欲しい時はやはり密度の高い空間がいいですね。選択肢が増えるということはその選択肢を自分の感覚の中で動機づけや好みや値打ち感を分析しているということ。全く選択肢のない状態でこれしかないってギアを使いこなすというスキルも大切ですが、選べる状況ならば選びたいですし、選べる状況って自分で作らなければいけないし、与えられた選択肢なんて動機づけになどなるはずもがなである。ということでこの「恐竜パターン手ぬぐい」はオキニイリなのです。

女子ソフトボールの金。

 快挙である。北島君も快挙であるが、ボルトも快挙であるが、日本女子ソフトボールチームの金もまさに金字塔である。オリンピックをテレビで観戦しながら思うことはひとつ。なんでもいいからこの手で金字塔を築きたい。ちょっと妄想ぎみの思考パターンなのですが、そんな熱いものがこみ上がってくる北京オリンピックでした。いいなぁ~金メダル。

WEBサイトリニューアル。

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 そろそろ、アクトのWEBサイトの9回目のリニューアルをしようと思っています。こちらがそのラフスケッチです。ラフスケッチはラフスケッチなのですが、構想する思考するイメージを膨らませる段階ではロゴでもポスターのレイアウトでもWEBサイトのインターフェイスでも映像の構図でも必ずラフスケッチをします。ラフというよりもサムネイル程度ですが、実際、ソフトウエアを起動して制作に着手する場合でも途中であそこのイメージはどうだったかとか、ここのパーツはどんな形状だったかと確認ができることや、全体を俯瞰で見ることができて進行上最後の仕上げまで迷わず進めることができるというメリットがある。そして、このラフスケッチのイメージをいち早く能率的に完成すれば、そこから吟味・微調整が始まる。この過程こそが言わばデザインをしているという作業の中核の部分なので、ここの段階に適正に最速に行くためにもラフスケッチは必須なのです。
 余談ですが、美術教育において「デッサン力」は必要不可欠である。学校ではデッサンで描写力だけにフォーカスすることが多いのですが、この部分も大切ではあるのですが、絵を描くということの能力は3つに大きく分けることができると思っている私はデッサンにおいてもこの3つの能力を自分の中で調整したい時に画材を使わず鉛筆でデッサンをする。この3つの能力についてはまた次回ということで、ラフスケッチの重要性を若いデザイナーやクリエイターに説明するのは非常に難しい。頭の中の構想からダイレクトにマウスを使い何かを創り始める世代にはえてして「思考する」という行為と「五感で感じる」という行為と「手(筋肉)と画材のスキル」という視点がほぼ欠落している。これが完成物に大きな影響が出ることは、この3つの障害を障害と認識できなレベルの人が多いために伝えることが難しい。どうでもいい人にそれを望んでもいない人にこの絵を描くことにおいて大切なポイントを教えてあげるほど暇ではないのでしないが、「親しく熱意がありこちらに向かって来る方」には誠意と熱意を持ってこのことをお伝えすることが多い。
 そもそも「デッサン力」とはモノを見る力でもあるので、WEB上の情報と同じで、好きなカードを手元に集めることを情報収集とは言わない。集める時の目ヂカラ、集めたモノを見極める目ジカラ、そして、何かをそれで創造するのなら、完成中の自分の制作物を見極める目ヂカラが備わってこそなのである。最新のソフトとテンプレートを駆使して何かを創っていると誤解している人、まず、ラフスケッチをしてみてください。そこから絶対に違う世界が見えるはずです。貴方は何かを創っているようで実は何も創っていないのです。

残念!なでしこジャパン!

 う~ん、ドイツは強い。なでしこもいい試合展開だったと思っているのですが、内容に比べて結果は残酷です。銅メダルを全員が首にかけている映像を常に頭に描きながらの応援だったのですが・・・。でも、男子に比べて女子は世界レベルの試合を展開したことは、日本人も海外のどの国の皆様も認識できた今回の北京オリンピックでのなでしこジャパンだったと思います。胸を張って日本に帰って来てほしいと思いました。男子チームは帰ってこなくてもいいかな・・・。そのまま、海外で居残り練習しててください。

もうしばらく。

 いつもお世話になっております。情報紙S.O.S.第25号の原稿依頼書を只今作成中でございます。金曜日頃にはなんとか発送をしたいと考えてておりますので、よろしくお願いします。今回のテーマは「カタルシス」です。何を持って昇華とするかそれぞれの切り口で作品をお願いします。今回の第25号は私のスケジュール管理不足で本来なら7月1日号として発行していなければいけないのですが、どうやら、このペースでは10月1日発行予定となりそうです。暑い夏もようやく終わりそうですので、日々お忙しいことと存知上げますが、そして、ちょっと難解なテーマかもしれませんが、原稿依頼書には私なりにこの数ヶ月構想してきたこのテーマに対する答を補足説明として記載させていただく予定ですので何卒よろしくお願いいたします。
 もしかしたら今回は、「SOS」というタイトルに一番近いテーマ設定かもしれないと思っております。この数ヶ月、仕事やライフワークのことでいろいろ頭の中で反芻してきましたが、日常レベルの思考パターンからは少し距離のあるテーマです。もし、原稿依頼書が到着しても、「・・・」という方はこのブログでも、メールでも携帯でも連絡をくださいませ。「カタルシス」グーグルで検索すると、「辞書には下記のとおり記載されているが、俗に音楽や文学、演劇などの連続性のある芸術作品において、あるポイントを境にそれまで準備され蓄積されてきた伏線や地道な表現が一気に快い感覚に昇華しだす状態や、またその快い感覚のことを正式用法の「抑圧からの解放」になぞらえてカタルシスと表現することも多い。」が1番にヒットしています。何を指して抑圧なのか?何を指して開放なのか?というちょっと哲学チックなテーマです。ここでこそ皆様のポテンシャルとポテンシャルがガチな第25号になるのではと期待しています。私もかなり、かなり、このテーマを反芻しましたので、余計な思考を取り除きシンプルな作品にしようと思っております。

長浜力という定義。

 30歳で吹田から長浜に移り住み早14年が経とうとしています。18歳で福井を出て3~4年サイクルで大阪、東京、大阪と遊牧民のように何かを求めて移住を繰り返した。狭い日本でウロチョロと。長浜は合計5つめの故郷のようなもの。東京や大阪に比べると仕事以外のおつきあいも多く、生きているということはこれだけ多くの皆様に支えていただいているという思いを痛感する。都会では「ひとりで生きている!」みたいな若い小さい自負のようなものがありはしましたが、それも、視野が狭すぎたと思う。とは言え、今、自分の視野が広いとも思わない。地方で暮らし続けることで狭くなったような気もすれば、いろいろな分野の方との出逢いで視野が広くなったような気もする。今後、この視野がどうなるのかは分からないが、どうしたいかという希望はある。
 そんな長浜という街の印象についていろいろな場面で話題になることが多いが、14年暮らしただけではそう簡単に「長浜像」を適切に語れるはずもなく、長年、いろいろなビジネスや街づくりに関わってこられた方のお話を全力で聞きながら、自分自身の中に「長浜像」を創っている段階である。情報の流れが複雑になりその絶対数も膨大な量となり、10年前とは比べものにならないぐらい巷に氾濫していると言われているが、本当にそうなんだろうか。時代が変わる変わるとメディアに堰かされているだけのような気もする。適度なアイソレーションはこんな時代だからというわけではなく、いつの時代も必要だと思います。で、情報の収穫時期や調理方法や保存方法については自分の潜在能力と相談して、無理無駄のないように美味しくいただきたいと思います。「長浜像」が見えてきたら、多分それが最高の「長浜力」なのではないだろうか・・・と思います。

なでしこジャパンの挑戦。

 いやいや、先制点は興奮してしまいました。でも、アメリカのスピードとパワーとテクニックはやはりちょっとだけ上だったように思います。彼女たちも星条旗を背負って来ているわけですから、日本人がいくら気迫だ根性だ精神力だと言っても、同じ、同じ以上のそれを身体の中にエネルギーとして持っているはず。そんな戦いだからこそこれほど観ていて興奮するのでしょう。最後のロスタイムからのなでしこジャパンの2点目は、次の試合に繋がるとか、最後の根性だとかという精神論ではなく、決して最後まで勝負をあきらめないタフなチーム「なでしこジャパン」が最強チームのアメリカからもぎ取った2点目だと思いました。テクニックの向こうにあるモノが広いフィールドでぶつかる時に現れる、勝利の女神の駒数をアメリカがちょっとだけ多く持っていたということでしょう。それが、4対2という結果なんだと思いました。しかし、次はドイツ戦。このまま初メダルに向かってらしい戦いをしてほしいですね。
 ただ、日本にはオフサイドが結構あったのに、アメリカはなかったように思います。これもテクニックなんだろうか、それとも・・・。いやいや、あの鉄火面のような主審はそんな不正はないだろうし、進行面で不備はなかったのだろう。でも、あの右サイドのチビはよく動いた動いた。

いろいろなドラマ。

 北京オリンピックも女子のマラソンが終わり、中国のメダル数が前回のアテネを抜いたらしい。凄い国です中国さんは。いろいろなゴシップが流れる中、結果としてメダルをしっかり奪取する底力は素晴らしい。とはいえ、日本もお家芸からニューヒーロー・ニューヒロインといろいろなドラマがありました。無念の涙もあり、メダルまであと一歩の惜敗もあり。メダルの重さなんて一生手にすることはないでしょうけれど、その重さはその選手ひとりひとりのこれまでの人生の重さなわけですから、それはそれは重いはず。結果としてのメダルと目標としてのメダルが現実のモノになった瞬間の心の動きは、いったいどんな感覚なのでしょう。ただ嬉しいと選手の皆様はコメントしておられますが、もっともっと、複雑な心の動きがあるような、もっともっと、シンプルで力強い心の変化が起こっているような、そんな気がします。それはテレビを通じて表情にしっかりと出ているように思いました。勝負魂をビリビリ感じている表情、あきらめずにとは言いますが、戦況から判断して難しい状況の表情、ひとつ勝利に手がのびた瞬間、それをグイと手元に引き込めた瞬間、一度掴みかけた勝利が手元から離れる瞬間。それをテレビの前で見ているととても羨ましい気持ちになります。ひとつのことに打ち込むという美学とリスク。身体と心の鍛錬は個人レベルでは難しい。ご両親やコーチや応援するスタッフがいるから、選手ひとりひとりが輝けるのでしょうね。最後の最後は「ハート」なんでしょう。だからオリンピックは美しいのでしょう。
 さぁ、なでしこジャパン今夜はアメリカ戦、絶対に全員がメダルを首からかけている映像を心から期待しています。

電柱の数!?

 「地頭力を鍛える」という書籍について気にはなっていたのですが、どうせイマドキの啓発著書だろう・・・と高を括っていたのですが、ちょっと前がきを読んだ瞬間、あれアリかなとその場でチェック開始。インデックスを読みそれぞれの章を見ていると買いたくなりました。「国内の電柱の数は何本でしょう?」とこの一見無意味にも思える問題に興味が沸きほぼ読み終えました。なるほどなるほど、確かにねぇ~という内容と整理されている文体や事例がとても適切でいい書籍でした。さてさて、日本国内に立っている電柱の数は実は何本でしょう?新しい思考パターンというか、インターネット時代の情報処理能力の大切さを3つの軸で考察している内容です。とても心地のいい文章でした。

歩幅の調整。

 またまた無謀なプランをたてています。それは富士山登頂プラン。腰が悪いのに、毎日車で仕事だから足も弱っちぃ~のに、無謀と言えば無謀。しかし、とにかく、富士山の一番上に自分の足で立ってみたいという思いがどうしても捨てきれない、ようなのです。まだ、自分自身との最終打ち合わせができていないのか「ようなのです。」というニュアンス。しかし、その予兆というか伏線はいろいろありまして、何か極端なことに挑戦したくなる頃だったように思います。手短なところからはじめればいいのですが、どうせ挑戦するなら富士山ぐらいいっとこう!みたいな思いつき。それも起爆剤はあるかたのある言葉でした。「最近キャッチボールをしたのですが・・・」という言葉から野球のお話になり、どうせなら、川原よりも、特別な場所でキャッチボールをしましょう!と話が飛躍し、ならば、中間地点でということで、富士山にフォーカス。どうせのどうせで富士山を見ながらもいいけど、富士山の頂上でキャッチボールしたら楽しいかも・・・という何気ない(いやいや何気なくもない)思いつきから、ジワジワとテンションが上がり、以前に、3,000m級の山を登られた経験の在る方に山についてお話を聞いた。まずは、歩幅だそうである。
 平坦で障害物のない街の道とは比較にならないぐらい、傾斜があり、障害物があり、複雑な要素が絡み合う山の道。気圧や酸素の量の身体への影響、風や気温や雨や雪や日射など天候の影響。どれをとってもリスクばかり。そんな登山を登り5時間、下り4時間を無事にクリアするためには、今、考えているだけで途方もない準備が必要なのです。その第一歩が歩幅の意識。ひざや股関節に負担をかけない登りかた下り方を会得しなければ、絶対に富士山登頂など夢のまた夢。だから、まずは、近場の山をしっかりと登れる練習から開始です。渓流釣りにも行きたいし、ゴルフにも行きたいし、映画にも行きたいのですが、まず、5時間の山道をどんな状況でもクリアできる技の体得と体力の調整をしたいと・・・。さて、これが「健康コラム」として書き始めていい話題なのか、ただの無謀な妄想で終わるのか。

次はここ。

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 ということで次はここを目指したいと思います。激しい系とファンタジー系はまたいつか近いうちにということで、この前でパチリ。お土産もの屋さんのなんとか鮫の歯、欲しかったなぁ~、けど、奥様からNGが出たので諦めました。でも、次はここですね。まずは。

初USJでした。

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 昨日はみんなで電車に乗ってUSJに行ってきました。暑い暑い暑い大阪に電車でその駅に降りるともうなんか映画好きにはたまらない音楽と景観が迫ってくる。ああ~これがUSJかと少し感動した。午後3時からの入場パスだから、いくつアトラクションを観れるのかも不明。そんな中、パンフレットを確認して当初の予定と当日の心変わりがケンカを始める。ぶらりぶらりとUSJの中を散策。暑い暑い暑い、でも、ハリボテとは言え、それらしい街並みが続くとアメリカに滞在して街をぶらぶらしていた時の記憶が蘇ってくる。結局、一発目は頑張って並ぶ決意をして140分待ちという「スパイダーマン」に決定。その施設の中に誘導されるまま入っていく。中はとてつもない人人人。ああこうしてこの中で140分も待つのか・・・と一人では決してこのような決断は下さないのですが、家族といっしょならそうも行きません。まぁ、暑い外で並ぶわけじゃないから、我慢我慢。と、ぶらぶら誘導路を前の人についていくと、いくと、一旦外に出るじゃないですか。ええっ~~~!外で待つの!!!そのまま、日陰とは言え鉄パイプに誘導され奥へ奥へ。ええええええっ!ここが最後尾かい!!!というところから、やはりきっちり140分。これほど何かを待ったという経験がここ20年の間にあっただろうかというところまで到達して~の、さぁさぁいざ本番。さすがのさすがでドキドキの演出は逸品。で、3Dのメガネをかけ~ので、イッキに10数分間のニューヨークアドベンチャー。水しぶきあり、火炎放射器の攻撃あり、高層ビルからの落下あり~ので、大満足120点!!!これは並ぶ価値あるわ~みたいな結果にしばし暑さも吹き飛ぶエキサイツでした。そこから、夏なのに夏なのに~「バックドラフト」でこの日のアトラクションはエンド。次は「ジュラシックツアー」に並ぶぞ!とUSJを後にしました。満足満足。

美味い、甘い。

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 同封されていたフライヤーに書かれていた美味いと甘いの意味が食べて実感。確かに普通のえだまめが淡白に感じてしまうほどの旨みというか甘みがありました。この食感は確かにオリジナルですね。美味しかったです!ありがとうございました!これは癖になりそうな味でしたね。

山形県庄内特産、だだちゃ豆だ!

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 いつもお世話になっている純ねっとの荒井様のご実家から送っていただいた地元特産の「だだちゃ豆」が到着しました。荒井様ありがとうございます!これが例のえだまめなんですね。3袋もありがとうございます!早速、今晩、ゆがいて塩でいただきまぁ~す!

詳しくはこちらをご覧ください。お味のご報告は後日・・・。
http://www.kiyokawaya.com/

極小の豆が・・・。

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 なんとかカボチャの後釜に枝豆を種から育てています。なんとかなんとかここまで群生してくれたのですが、目的の豆のさやはまだ長さ1cmほど。この中に並ぶ豆ですから極小の極小なのです。野菜や実のなる植物を元気に育てるのは難しいです。今年、くじけにくじけた「カボチャ」「コーン」は来年リベンジなのですが、いろいろなアドバイスの中に、「キウイ」は丈夫で育ちやすいと聞いていますので、それもぜひ挑戦したいと思っております。野菜もどうやら「土づくり」と「間引き」などの世話が肝心だそうです。丹精込めてという意味がよく理解できました。そうした苦労の元、食卓に並ぶ野菜はそんなプロの丹精の賜物なんですね。それをしみじみと感じていしまう家庭菜園でした。実りと収穫の時は遠い。

なでしこジャパンの爆発。

 これはオリンピックなのか???と思わせる試合展開。この相手チームは金メダルチームなんだろう???という結果。なでしこジャパン爆発である。かなり状況的には厳しい状況だったらしい。負ければ予選敗退、勝てば決勝ラウンド。この状況で、オリンピックの大舞台で世界ランク5位のチームに爆発できるポテンシャルをテレビで観戦することができて、とてもいい光景を観れたことで感動以上の言葉で表現したい気分でした。素晴らしい!!!谷本さんの一本も華麗だった。柔ちゃんの銅メダルも最高だった。まだまだ、オリンピックは続きますが、まだまだ、なになに、これからも感動に出会えそうです。早く陸上競技を観たい。ちょっと水泳は飽きてきた。

具象と抽象の境界線。

 とにかく小学・中学の頃はお手本どおりの絵がいいと思っていた。習字も見本に近い方がいい書だと思っていた。しかし、今、学校の美術や書道はそうではないらいし。情操教育とかいう奴である。否定も肯定もしませんが、子ども頃から自由に描きなさい、大胆に筆を運びなさいで、ほんとうに子どもたちの絵や書道に対する意識は芽吹くのであろうか。もし、自分自身が子ども頃そのような教育方針で絵に関わっていたら、書に関わっていたら、たぶん、興味が沸かなかったように思うのです。自由とは言葉の裏を返せば無責任なニュアンスを受ける。それをいいも悪いも現場の教師に判断ができないから、とにかく自由に大胆にでその場を凌げばいいじゃん、みたいな空気感を強く感じる。確かに、絵や書道よりも学業において大切なことは山ほどある。そちらを優先して欲しいという親の気持ちも自分自身の中に存在していることは確か。ただ、そちらの切磋琢磨や知識の習得で会得できること、体得できることは以外に少ない。その道を進めば学校の先生レベルならなれるでしょうが、真の教育者になるにはもっと別のベクトルがあるように思います。かなり大雑把な考察ですが、どうも、「自由に大胆に」という表現が好きになれない。絵を描くことは自由でいいのか?書道を知るということは自由だけでいいのか?たぶん、そんなことをひざを突き合わせてface to faceで問えば、「いやいや、それはモノゴトのアウトライであって、もっと深く芸術や書に関わるためには個人レベルでの研鑽や試行錯誤が~」などと雄弁な言葉が用意されているだろう。実際、小学校・中学校・高校で学校の先生は勿論のこと、他の生徒で自分より絵が美味いと感じた人間はいなかったから、そんな考えにたどり着いてしまうのかもしれない。大学に入って驚愕だった。こんな凄い連中がこんなにたくさんいるのかと。感激と感動の連続だった。それでこそ大学ではないだろうか。最近では優良な企業も減ったのか、大学の企業予備校化は衰退していっていると思うが、それでも、塾を介してランクの上を目指そうとする慣習が世の中のほとんどを支配しているように思う。そうではないでしょうと思うのです。
 かなり、具象と抽象のお話からそれたのですが、勉強ひとつをとっても何か物事の考えるアプローチや仕組みを知識とノウハウで紐解くという作業なわけですから、そこに具象的なアプローチと抽象的なアプローチが存在すると思います。何も絵だけの話ではない。であれば、問題を理解する正確な視線と頭脳を鍛えずして、それを消化し正しい答をアウトプットできるわけがない。しかし、答はひとつの問題につき常にひとつではないのが世の中の常。ならば、一番肝心な能力はモノゴトを「見る能力」が最初のアプローチで一番大切な能力なはず。それを、最初から「自由に大胆に」では困る。「自由」や「大胆」とは表現上の手法であり、器が空の状態で「自由に大胆に」アウトプットしてもそれは答ではない。ならば、見る力を養い、複製する力を養い、正確にアウトプットする力が会得した段階で、自分の世界観でモノゴトを観察して、その力でアウトプットできるようになった時、はじめて「自由に大胆に」と伝えるべきだ。もしかして、「自由に」も「大胆に」もできなったコンプレックスからこの手法を導き出したのなら、それは全くの本末転倒である。
 「いやいや本末転倒も試行錯誤ですよ」と思いたいが、暖かく見守りたいが、はたして、教育の現場にそれほどタフな方がいるとは思いにくい。「自由に大胆に」なれなったコンプレックスが新しい価値観を創出するとは思いにくい。そんな方法論の歴史など、壮大な絵画や書の歴史の前では微塵に等しいからである。

たかがCSS、されどCSS。

 いやいやなかなかCMSは奥が深い。深すぎる。これまでWEBサイトと言えば、F.W.やFLASHで自由にデザインをし過ぎてきた傾向にあり、心のどこかでCSSなんて~みたいな思いがありました。ノーマルなHTMLでレイアウトソフトで自由にすればいいじゃん!みたいなところが正直ありました。しかし、世の中スタイルシートが幅をきかせてきています。まぁ、いつかその時が来れば取り組めばいいと思っておりましたので、それほど深くCSSを活用することを据え置きしておりました。しかし、やればやるほどスルメ状態の奥の深さがあります。ということで、最近は「たかがCSS」から「されど~」に気持ちを入れ替えております。細部をこだわるためには全体の構造を理解していなければいけない。全体の構造もその仕組みどおりに的確に記述していかなければ見事にほんとに見事にレイアウトが崩れる。そこにはブラウザのバージョンや種類もしっかりフォローするぐらいの記述魂が必要なんですね。ASPがいろいろなサービスを展開していますが、それも快適に取り込めるためにも、ライトなCGI系もしっかり取り込むためにも、CMSを理解してスタイルシートを理解することは非常に大切なことだと最近痛感しています。
 HTML(CSS)からA.S.そして、CGIにPHPと10年前はなんのこっちゃだった「言語」というルールを会得するたびに(まだまだ入口レベルですが)ひとつ新しい国の人と会話ができたような喜びにも似た感動があります。言語はしっかり正確に記述すれば正確に答(アクションやレイアウト)を返してくれます。とても誠実な野郎です。そして、その誠実野郎と向き合うにはやはり誠実に向き合う必要があります。PCなんて不安定なOSの中で回線を通してさまざまなストレスも楽しむぐらいでないと、彼らは答を返してくれません。なんとなく猛獣を飼いならしているような、調教師に飼いならされている猛獣のような、そんな気分です。

MTOSという取り組み

 「Movable Type の進化を、さらに加速するための、新たなチャレンジです。2001年の誕生以来、Movable Type はコミュニティーと共に進化を続けてきました。インターネット上で公開されている、豊富なプラグインやテンプレートに加え、いただいたバグレポートやフィードバックも、製品の開発における重要な位置を占めています。このたび開始されるオープソース・プロジェクトは、このような活動を、より一層押し進めることを目的としています。
 具体的には、『Movable Type コア部分の、GPL による公開』と『開発プロセスのオープン化』をおこないます。拡張性の高い Movable Type 4 の新アーキテクチャと、オープンソースの開発スタイルを組み合わせることで、スピーディーで、幅広いソリューションの開発を目指します。」有料ライセンスになり気軽に使うにはちょっと難しくなるななぁ~とちょっと気持ち遠くなっていた。しかし、バージョンアップの内容は素晴らしいものだった。しかし、最近書店に行くと「MTOS」という取り組みがあることを知る。早速ダウンロード。さてさて、WORDPRESSとどこがどう違うのだろうと検証開始。この週末はみっちりMTOSに取り組みましたが、なかなか、これいいですね。古いバージョンから、いろいろな点で改良がなされている。確かに上記のコメント背景がしっかりしている。さすが・・・と言わざるをえない仕上がりです。新しいバージョンでの書籍を3冊購入してこの週末でざっと読んだのですが・・・さすがとしか言いようがない。開発者という方たちの熱意が随所に感じられる。
 3DCGソフトもフリーウエアで強烈なのが登場したし、そろそろ、アドビのソフト群もそのような取り組みをされていもいい時期なのではないでしょうか。ただ、無料になってほしいという意味でもなく、そもそもも大きなはさみが欲しいか小さいはさみが欲しいかという段階では紙を切る・布を切るという目的のために、そのサイズを選ぶわけです。勿論、大きなはさみを作るには小さなははさみよりコストがかかるわけですから、大きい布を小さいはさみで切るよりも効率と能率をコストと比較するわけです。しかし、世の中にはセラミックのはさみが欲しい人がいる。鋼の手加工で職人がひとつひとつ作ったはさみが欲しい人がいる。いずれもはさみ。何かを切るという目的に付加価値が加わって存在価値が決まり、代価が設定される。しからば、ソフトウエアである。ハードのスペックアップは著しい、OSの進化も著しい、しかし、ソフトウエアがいつまでも高価であり続ける理由はもう「付加価値」の競争にすぎないように思いますね。何を切るためにが目的のはさみ。もっともっと「切り方」に心をフォーカスしなければ・・・。

光と闇か。

 柔ちゃんの無念の銅メダルの試合を応援した後、ひさびさに無念な映画を観てしまった。始まった瞬間ほぼ3分ぐらいでその予兆はあったのですが、いつかいつかこの無念な感じを挽回する展開があるはずだ、このもやもやをふれこみのSFXでスカーンとフィニッシュしてくれるだろう・・・そう期待して最後まで観てしまった。しかし、無念に無念がどんどん重なっていく。これはなんという負の連鎖だろう。それはロシアの映画でしたとしか言えません。ブログで特定の映画を否定するようなことは書きたくないのですが、この無念さはどこからくるのだろうかという視点でしか観れなかった。
 まず、設定が光と闇のマスターが登場するのですが、これが基本的に緩い。ここが緩いとあとどれだけ視覚効果を駆使しても無理ですよ~と思わずつぶやいてしまった。そして、現代から12年前の設定。う~ん、画面が緩い。あの映画はあえてあの設定だから預言者の部屋はああだったのであって、この映画でこのシーンでこの部屋を使うとダメでしょう。みたいなシーンが続く。ジェットを吹きながら走るトラックも緩い。スローモーションも不完全。戦いも双方の技のキレも中途半端。そして、12年後。現代、お~い、なんじゃそりゃって何回つぶやいたことだろう。しかししかし、最後の最後でドンデンがあるのかもしれないあるのかもしれない、もしかしたらこうなるかもしれないから、これはその伏線だきっと伏線だと期待のベクトルを無理苦理引き上げて引き上げて、最後の最後で「あ~あ。」もう完全に「やっちまったなぁ~!男は黙ってカキ氷」状態である。その映画、第2弾があるが絶対に観ない。

北京オリンピック開幕ですね。

 壮大なオープニングでした。なんと2年の準備期間って、スケールが想定外です。さすが中国ですね。さまざまな歴史上のモチーフを人力・テクノロジー・コストを度返ししたような映像のひとときでした。心が奪われるという表現よりも壮大な中国の歴史を背負ったひとりのビジュアリストが持てる全てを注ぎ込んだ巨大な入れ物に、なんとも強力な吸引力で吸い込まれたような気分でした。宇宙に存在する概念としてのブラックホールが今まさに北京で実働しているような感覚でした。そして、世界の子どもたちの笑顔をプリントした傘の花が会場に咲いた瞬間、この地球上で一番大切にしなければいけない、一番優先しなければいけないことが明確に再確認できました。それ以外にないじゃん!って感じでした。それを優先しないで地球の上での人間の未来はないのですから。クレバーな大人でありたい。知識や知恵はなくともその心だけは失いたくないですね。北京に対するゴシップは賛否両論ですが、次々に会場を行進しておられる世界各国の選ばれし選手団の笑顔を見ていると、世界はひとつであるべきだと痛感します。しかし、スポーツというファクターですべての選手がメダルという目的で持ちうる能力・技量・経験値を競技する。こんなシンプルな4年に一回のイベントがアテネから発足したということを改めて再認識するにあたり、ギリシャの偉大さも痛感します。世界は大きいがひとつであるということ。争うなら美しくクレバーに争いたいですね。

地頭力が落ちている!?

 情報は氾濫しているが微弱な情報が多い傾向にあり、「知ること」が「情報を得た」と勘違いしてしまう傾向にあるらしい。そう言われるとそうかもしれない。だから、「共有」と「共感」の微妙な違いが誤認識が本来の経験値から養われる洞察力や分析能力を低下しているという仮説が存在するらしい。氾濫している情報をいつでもどこでも受信できるが鵜呑みは危険だという警笛だろう。そういう空気になってしまっているので発信側も「そこまで深く語らずともいいでしょう」という緩さ。受信側も「危険なニュアンスや裏がなさそうであればこの情報は有益だろうなぁ~」という緩さの共感が充満しているのでしょう。勿論、情報にはいろいろなランクがあるわけですから、入手・受信したモノをどのように判断するかは受信者のポテンシャルが有益にも無益にもすることには間違いがないので、だからと言って情報をシャットダウンしても生産的な行為とは言えない。そこで必要とされてくるのが「地頭力」ということになるのでしょう。非常に書籍の導入手法とすればセオリーな切り口である。この仮説を読んだだけでこの書籍への興味を持ってしまっているわけですから、さすが、「地頭力」を語る著者である。
 また、最近特に「~の心理学」という書籍のタイトルをよく目にしますが、興味本位で入手するとそれほど深い考察ではなく「心理学」という看板を書籍の入口に掲げているだけの場合もある。でも、なぜかこの時代「心理学」というキーワードにひきつけられてしまう傾斜感があるのは何故でしょう?「地頭力」と「心理学」の関係はとても密接なのでしょうね。また、何か気がついたらここで洞察らしき展開をしてみます。

夏の夕方。

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 暑い一日が終わり、ふと空を見上げると真っ赤に染まった積乱雲。思わずカシャリ。

北京オリンピック開幕です。

 4年に一度の世界のスポーツの祭典が本日開幕します。熱い戦いをテレビで観戦したいですね。オリンピックと言えばメディアは「金メダル金メダル金メダル・・・」ですが、勝負は時の運でもあり、「運も実力」などという概念もあることですから、流れの中でベストを尽くした結果としての「金メダル」でいいんじゃないでしょうか。でも、それでは新聞やテレビの電波は売れないのでしょうね。
 個人的には野球や陸上が熱くなってしまうのですが、他のジャンルでも上位が期待できる選手の場合は応援にも熱が入ってしまいます。オリンピックはなんと言ってもマラソンだ。マラソンを見なければオリンピックを見た気がしないという方もおられますが、そういう意味では私は100mを見なければオリンピックを見た気がしない人なので、その時間帯は必ずテレビの前でしょう。ルイスが10秒を切った時は感動でした。大舞台で力を発揮できる選手、前評判は高いが本線では力を発揮できな選手、その人間模様はさまざまですが、大きな舞台で普段以上の力を発揮して快挙を達成される選手の優勝コメントを聞くと常に「楽しんだ」というニュアンスの言葉が聞けることが多い。これが力を発揮するコツなんだなぁ~と聞き漏らさず、自分なりにココイチで「楽しむ」に挑戦するが、必ず結果は「楽しんだだけ」に終わる。この差はやはり、決定的な実力と努力の差なんでしょうね。そんなことも考えながらの北京オリンピック、楽しみです。いろんなドラマが展開していくのでしょうね。

プログラムって正直。

 DTPまでは、プラットフォームにMACを使いソフトウエアでオペレーションをしているまでは、アナログな感覚で取り組めました。言葉を変えるとちょっとぐらい位置がずれていようが、色の調整が厳密でなかろうが全体を見る目さえあれば制作物の品質は崩れることがなかった。だから、この段階でクリエイターがPCを活用してソフトウエアに依存することはなく、依存するべきでもなかったのでしょう。しかし、ソフトウエアがやってくれる事がデザインだと誤解され、というか、ソフトウエアを開発して作った人の流儀をPC上で再現することがデザインだと認識してしまったあたりから、妙などんぐりの背比べが始まった。元来それに慣れている国民性だから、そのスタイルを飲み込んで活用するスピードは尋常じゃないぐらい素早かった。デザインとはこうあるべきだ、デザインとは常に頭と手が覚えているモノだと叩き込まれたのに、フォトショップの1機能を適用してプリントアウトしたパンフレットのデザイン案に負けた時は愕然とした。これが共有するということへの願望が日常レベルで、今、私個人の前に舞い降りた瞬間でした。今、目の前にあるデザインはデザインなのか???と何回も問い正したが自分自身の答えはNOだった。そこから、年月を経てどう考えているかと聞かれれば、同じくNOである。しかし、どこかでテンプレート化されたデザイン素材を、それを作った人の気持ちまで入り込み、自分なりに再アレンジをしてやろうというモチベーションは生まれた。すると、ソフトウエアを開発した人の中も入り込みたくなる。そんな感覚が常に心のどこかに存在していたものだから、WEBサイトでのプログラムにはそんなベクトルで興味大だった。そして、「WEBサイト」というツールを自分の中に取り入れようとする時に、元来のアナログな感覚とプログラムがアウトプットする2次元の世界観を、どうクリエイトできるのだろうか?というヴィジョンが設定できたように覚えている。
 とにかく、プログラムを一行目から記述するこは不可能ですし、根本的な部分はともて理解不可能でしょう。それに時間を費やすぐらいなら、アナログ表現を追及したいと思っている。で、プログラムの改造はとにかく知識のなさから最初に必ず100%躓く。びっくりするぐらい躓く。しかし、長年それに携わっていると躓くことがそれほど気にならなくなる。最初は未熟なところで経験値のなさから愕然とするが、そのトライ&エラーを何回も繰り返しているとひとつの実像が見えてくる。「プログラムってホントに正直だなぁ~」と思いはじめてから、あせらずふてくされずじっくりとひとつひとつの確認作業を繰り返せば、プログラムは自分の思い通りのアウトプットをくれるんです。だから、創り手的にはそんなプログラムに正直に向き合い誠意を持って取り組みたいと思うようになりました。
 「油絵の具」がおてんばなやんちゃ娘なら、「プログラム」はもの静かで理論的なLADYなんでしょうね。

稲妻!?

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 花火観賞から帰り道、東の空がゴロゴロと光っていました。ずっと花火を撮影していて手に力が入らない状態だったのですが、ピカリで思わずカメラを構えてしまいました。しかし、タイミングは遅い。で、しばらくその方向を棒立ち状態で待っていると、この一枚が撮影できました。う~ん、さっきの1時間に10,000発近い花火よりも、稲妻1発の写真に満足しているという不思議な感覚でした。人間が作ったモノよりも巨大な自然の一発は強烈な印象ですね。

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 こちらは最後のフィナーレです。毎年毎年、このタイミングでは夜空が赤くなります。今年もこれで花火大会は終わり~という瞬間ですね。花火って夏の風物詩としてやはりいいですねぇ~。

長浜花火大会#002

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長浜花火大会#001

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 長浜港へは行かず、家の近くの田んぼの道の上にて花火観賞。

2年ぶりのスイッチ。

 昨日は朝から近くの小学校に地区の皆様が集まり親善ソフトボール大会。もう午前7時30分の段階で汗が噴出していた。軽くキャッチボールで午前8時から第一試合。打順1番でライトを守る。昔のイメージと今の体の動きのギャップを試合をしながら調整していきました。やはり、足が動かない。ファーストまでならなんとか走れるのですが、そこからホームまでが遠い。どんなに暑くても全力で何周もできていた記憶から20数年が経ちもう自分の足ではないような気分でした。その上、なんとかホームに帰ってきても、次にライトの守備まで行くのが辛い。もう体力がかなりの状態になってきた。ふと、学校の時計に目をやると8時21分。あれれれ、まだ21分しか経っていない・・・。試合の流れて的には勝っているから、第2試合もあるだろう。なんともなさけない話。しかし、そんなクラクラの状態ででも打席に入るとなんかスイッチが入ってしまう。なんか集中してしまう自分がいました。サード線をライナーで抜いてランニングホームライン。これでどうやら一日の体力は全部使ってしまったような気分でした。そして、試合終了。10分の休憩後、第2試合。かなり足も手もプルプル状態。でも、守備につき審判が「プレイ!」とコールすると自然とかかとが上がってしまう。6年間、ろくに勉強もせずに野球と陸上に明け暮れていた中学と高校の時にしみついた体感した経験が体の中のスイッチを入れてしまう。どれだけ体力的に精神的にギリギリの状態でも気持ちを入れ替えられるスイッチ。これは、野球やソフトボールだけに限らない。いろいろな仕事の場面や気持ち的にヘビーな状態でもこのスイッチは起動する。このスイッチは頭で理解するだけの勉強の場では身につかない。ギリギリを体験した人間だけが手に入れることのできるスイッチのようです。野球の練習でギリギリになった状態から陸上の練習をして日が暮れる頃には部室の裏でぶっ倒れていた。そんな経験を繰り返しているうちに、その状態にまでならないとリアルな実感が沸いてこない体になっていた。脚力や筋力は確実に44歳のなさけない状態ですが、なになに、気持ちの中にまだこのスイッチがあることを確認できた一日でした。さて、今日から3日間、手足が自由に動かない状態になるでしょう。まぁ、これも健康の証として納得納得。

イレモノをデザインするか・・・。

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 考えている人は本当に深い。浅いことは悪いことではないが、深いと感じる人には恥とか体裁とか外聞をかなぐり捨ててリスペクトしてしまう。また、リスペクトできる自分も浅い野郎ではリスペクトのベクトルも緩くなる。骨の棍棒と手で水を掬う器のねじれか・・・。イレモノという概念は決して義務教育でも専門学校でも4年生の大学のカリキュラムの中に存在しない。まぁ、存在できるはずもないが。しかし、近年、その取り組みがいろいろな場所で行われているらしい。つまり、教育者という免許を持っていない、現場のプロが教育の現場で学生たちと共に学びながら、教える学ぶという構図ではなく、相互のモチベーションを高めるエクササイズが展開されいるらしい。そもそも教育とは目的のための手法であったはずが、いつのころか手法が目的になり目的はどこかにジャンプしてしまった。ジャンプさせた連中は目的が必要ないとその時感じたからだろう。非常に浅い判断である。というより、それは別のチカラの影響下にあったからで、独自の判断ができない状態だったからだとは思う。そして、高度成長という殻づくりに翻弄して年月が経ってしまったということ。その間、イレモノの概念はどう変異したか。進化はしていないはずである。時代と共にカタチを変える殻こそが現代のシンボルのように思う。そして、デザインという行為の意義である。考えるということは創るということであり、モノトゴを鵜呑みにしないということであり、もしかすると破壊するということかもしれない。これは、こんなブログで語れるテーマではない。
 ただ、デザインという仕事に長年たずさわり、少しでもそのフォルムが見えてきたなら、手を伸ばすべきである。べきであるなどと非常に他人のふんどし的な言い草ですが、本当の主観のイレモノの中にあるデザインを整理する時期が一生の中であるとすればこの時期なのかなと思っています。

ヤハリモッテイカレタ。

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 その映画の進み具合と平行していろいろ考えさせることも投げてくる。受ける側がどこでそれを受けるのかはもうポテンシャル次第。人間の能力とは何かを問い正している。人間の本質とは何を解い正している。そんな感想が残る映画でした。さて、第2章、彼は彼女とどこに現れる?

8月の絵。

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 2008年S.O.S.KHUZ卓上カレンダーの8月の絵は言わずと知れた「ファイトクラブ」のワンシーン。自分は椅子に力なく座り、それを見下ろすもう一人のうでを組む自分。う~ん、なんとリアルな構図でしょう。もうD.フィンチャーは最高である。その二人がこの二人なんですから。ブラピの丸坊主もなんともカッコイイ。

散歩中の考察。

 最近はエコのためか健康のためか気分転換のためか、買物やちょっと本屋に自転車で行っている。ガソリン代も日々の積み重ねでバカにならないことも意識の中にある。愛犬の散歩では約30~40分の散歩エリアだからそれほど道々に季節のバリエーションはないが、自転車で20~30分となると日頃車で見過ごしているモノがよく見える。車の運転は免許を取得したのが27歳と遅めだったこともあり、あまり好きでもないし、ほんとに移動手段でしかない。いい車に乗ることに対する熱意を他のベクトルに変えたい、というよりも、いろいろな思考の中で車への愛着は0に等しい。雨の日は濡れずに移動ができる便利な移動手段というそれ以下それ以上の何ものでもない。でも、その便利も仕事の時ならいざしらずだんだんだんだん便利が身体に沁み込んで「ちょっとタバコ」「ちょっと本を」でガソリンを使ってしまう。その便利さと引き換えに足力の衰えを獲得してしまった。愕然とする時があったことも自転車を再発見したきっかけ。東京や大阪で暮らしていた時は車に乗ることはなかったし、駅からの移動は徒歩だし、気分がのってきたら、地下鉄の5駅ぐらいは歩いていたのに、ここ数年、都会に行くと前半戦でもう足の筋肉が張ってくる。これはあかんあかんと万歩計を買って1ヶ月ほど計っていたら、都会に行った日はかるく20,000歩を歩いているのに、長浜にいたら2,500歩程度。この差が積み重なって貧弱な足になってしまったのだろう。そして、歩かない=考えないということにも気がついた。人間、考えようとして考えることは難しく。考える状況を無理苦理作ると自然と五感が動き出し本当の「考える」状態なる。この考えるとは「感じる」という意味が強いようにも思います。つまり、全てが負の連鎖で「便利」が「思考」を奪い、「ガソリン」が「健康」を奪うという公式になる。時間に余裕がある時はという思考ではなく、時間に余裕を作り歩く(たまに自転車)ことが素敵な考察を生む。考察は仮説を生み思考・構想が始まる。あとは、やるのかやらないのか。しかし、健康な身体はそんなことを迷うことなく、自然とやってくれるのである。生産的な連鎖がさらに生産的な連鎖を引き出すという構図。だから、健康を手に入れるための唯一の方法は健康について深く難解に考えることをしない状態にするということだろう。散歩中に大きな電気屋さんの駐車エリアに入って出て入って出て入ったおばさんの軽自動車を見た。おばさんはまだ納得いかない表情で車をあとにしてお店に入っていった。さて、このおばさんは神経質なのかそうでないのか?