具象と抽象の境界線。

 とにかく小学・中学の頃はお手本どおりの絵がいいと思っていた。習字も見本に近い方がいい書だと思っていた。しかし、今、学校の美術や書道はそうではないらいし。情操教育とかいう奴である。否定も肯定もしませんが、子ども頃から自由に描きなさい、大胆に筆を運びなさいで、ほんとうに子どもたちの絵や書道に対する意識は芽吹くのであろうか。もし、自分自身が子ども頃そのような教育方針で絵に関わっていたら、書に関わっていたら、たぶん、興味が沸かなかったように思うのです。自由とは言葉の裏を返せば無責任なニュアンスを受ける。それをいいも悪いも現場の教師に判断ができないから、とにかく自由に大胆にでその場を凌げばいいじゃん、みたいな空気感を強く感じる。確かに、絵や書道よりも学業において大切なことは山ほどある。そちらを優先して欲しいという親の気持ちも自分自身の中に存在していることは確か。ただ、そちらの切磋琢磨や知識の習得で会得できること、体得できることは以外に少ない。その道を進めば学校の先生レベルならなれるでしょうが、真の教育者になるにはもっと別のベクトルがあるように思います。かなり大雑把な考察ですが、どうも、「自由に大胆に」という表現が好きになれない。絵を描くことは自由でいいのか?書道を知るということは自由だけでいいのか?たぶん、そんなことをひざを突き合わせてface to faceで問えば、「いやいや、それはモノゴトのアウトライであって、もっと深く芸術や書に関わるためには個人レベルでの研鑽や試行錯誤が~」などと雄弁な言葉が用意されているだろう。実際、小学校・中学校・高校で学校の先生は勿論のこと、他の生徒で自分より絵が美味いと感じた人間はいなかったから、そんな考えにたどり着いてしまうのかもしれない。大学に入って驚愕だった。こんな凄い連中がこんなにたくさんいるのかと。感激と感動の連続だった。それでこそ大学ではないだろうか。最近では優良な企業も減ったのか、大学の企業予備校化は衰退していっていると思うが、それでも、塾を介してランクの上を目指そうとする慣習が世の中のほとんどを支配しているように思う。そうではないでしょうと思うのです。
 かなり、具象と抽象のお話からそれたのですが、勉強ひとつをとっても何か物事の考えるアプローチや仕組みを知識とノウハウで紐解くという作業なわけですから、そこに具象的なアプローチと抽象的なアプローチが存在すると思います。何も絵だけの話ではない。であれば、問題を理解する正確な視線と頭脳を鍛えずして、それを消化し正しい答をアウトプットできるわけがない。しかし、答はひとつの問題につき常にひとつではないのが世の中の常。ならば、一番肝心な能力はモノゴトを「見る能力」が最初のアプローチで一番大切な能力なはず。それを、最初から「自由に大胆に」では困る。「自由」や「大胆」とは表現上の手法であり、器が空の状態で「自由に大胆に」アウトプットしてもそれは答ではない。ならば、見る力を養い、複製する力を養い、正確にアウトプットする力が会得した段階で、自分の世界観でモノゴトを観察して、その力でアウトプットできるようになった時、はじめて「自由に大胆に」と伝えるべきだ。もしかして、「自由に」も「大胆に」もできなったコンプレックスからこの手法を導き出したのなら、それは全くの本末転倒である。
 「いやいや本末転倒も試行錯誤ですよ」と思いたいが、暖かく見守りたいが、はたして、教育の現場にそれほどタフな方がいるとは思いにくい。「自由に大胆に」なれなったコンプレックスが新しい価値観を創出するとは思いにくい。そんな方法論の歴史など、壮大な絵画や書の歴史の前では微塵に等しいからである。