「仕事」の概念。

 よく「手法」か「目的」かという議論になるとまるで「手法」が不適切で「目的」こそが絶対だという結論に流れがちですが、ほんとうにそうだろうか。そもそも、経済の仕組み(そんな巨大な概念や通念を語れるほどの経験も知識もないのですが・・・)とは誰が決めている?というシンプルな疑問があるとするれば、その答は百人が百人の答を持っているはず。その場合目的の数が百なのかひとつなのかという疑問が発生し、そのための手法は百でいいのか二百必要なのかという議論になる。これが、いろいろな場面でいろいろな時代背景と個人の資産や技術力や知識力で経済が成立していると、誠に簡単なフレーミングを行うと、さて、「仕事」とは?何なのかと、その概念はどうであるべきなのかという疑問に辿りつく。これには賛否両論どころではない数多のトライ&エラーがある。
 そこで、「いい仕事」とは何か?ということである。それだけの変数というか乱数をひとつの方程式で回答できないのであれば、それは、「なりゆき」「ふるまい」「偏在」というファジーなアプローチで取り組まざるを得ないのではないだろうか。しかし、理論がそうはさせないジレンマがある。いいと判断するためには、そういう原因を内部か外部に設定して結果を導くための試行錯誤が必要である。「いい仕事」は幻想なのか結果論なのかということである。で、今、この時、自分自身はどこのポジションなのかを知るために、つまり、アイディンティティを確立するために、鏡が必要なわけである。ネットワークの中の個が見えていない状態でお山のなんとかがそれなのか、海の孤島で死ぬまで狼煙を上げ続けることがそれなのか、地球の資源を自分の資源と勘違いして戦争に従事するのか・・・なのである。
 いい仕事はしたいですが、自分を知らないと自分のエネルギーが浪費される。時に浪費と思えることが実は的を得ていて結実し素晴らしい花を咲かせる。それが結果「いい仕事」なのかもしれない。だから、情報交換こそが一番大切であり、ネットワークを広げることは結果、自分自身を知るということなのである。にもかかわらず、微弱な理由でそのチャンスを自ら放棄する人が多い。というか、それには価値はなく、バーチャルな抽象的な信号をリアルのそれと勘違いする時代が現代のインターネット時代のように思える。それはそれで活用すれば真、ふりまわされれば偽なのである。いつかこのことはもっと整理して自分の書籍の中に記述したいと思っています。それが私の現在希望している「いい仕事」のような気がしています。