絵も音楽もデザインも。

 常に判断の基準が3つあると思う。一つ目は好きか嫌いか。二つ目は正しいか悪いか。三つ目は価値があるかないのかである。それぞれに人は何かを判断する時この3本のモノサシで何かを推量・計測していると思う。さぁ~て、目の前にある存在やオブジェクトや出来事を判断しようとする時にごくごく自然に私たちは3つのモノサシを出してくる。しかし、何かをどうしてもひとつに決定しなければいけないという場面でこのモノサシのどの基準を最優先すればいいのかそれが判断つかない時も多々ある。そんなときは皆さんはどうしておられますか?好きだし正論だし、でも、価値はないなぁ~とか、嫌いだけど世の中一般的には悪いこと、でも、価値はありそうだなぁ~とか。
 で、「理屈」が登場する。この変幻自在のツールがなかなか自分の本意とそれていくことが多くないですか?「理屈」に頼っている人は自分の意見が極端に少なく、「自分の我をどこまでも通す」という人の「理屈」は言葉に責任感があるから相対的には信頼価値がある。しかし、絶対的に???という場合もある。つまり、今、目の前にある「理屈」を自分自身の3本のモノサシで計測するという作業が発生してくる。常日頃コミュニケーションをしている人ならば、「優しい理屈」を大きく捉えて、ひとつの意見として聞き入れ、自分の価値判断で消化できるのですが、コミュニケーションがしっかりととれていない方や、個人的にとりたくないと思ってしまう方に対しては、どんなに小さな理屈でも大きな壁となり、コミュニケーションを阻まれることが多い。だから、即物的なコミュニケーションや一方通行なコミュニケーションはどこかでボロが出て破綻をきたす場合が多い。にも関わらずそれがストレスになる人は何においてもストレスになる。それも悪いストレスになり、生産能力や整理する力に弊害をもたらす。
 しかし、本当は何かを判断するということについては、人の脳は素晴らしい機能があり、「第一印象」と「インスピレーション」という万能なモノサシがある。それは、3つの価値判断でも理屈でもなく、瞬時に判断する能力である。これを自覚できない方は精神的にメタボな方であり、この判断に自信を持っている方は大きく早く鋭い。前者の方との会話(コミュニケーション)は辛く長いが、後者の方との会話は心地いい。誰かとコミュニケーションをしている最中、自分の中の理屈が前に出ないようにすることは難しいが、後者の方なら、そんな理屈も会話の材料になってしまう。前者の方はよく1時間も2時間も長々と話題はつきないのですが、気がつけば、何を言いたかったのか???な場合が多い。
 絵も音楽もデザインもこの基準を試すいい実験材料なのである。実は。