CRS(企業の社会的責任)について。

 2003年は「CSR元年」だったらしく、それから5年がたち、この概念は幅広く知られるようになったと日経新聞に書いてあった。さまざまな企業の不祥事がトリガーになり企業倫理の均一がどれだけ意識化にあり、実動がどれだけ伴っていたのかが問われた5年だったと記載されていた。また、環境問題についても同じ、闇雲にステレオタイプに弊社はなんとか運動に共鳴しています的なくくりで安心みたいな風潮が蔓延し、個々の意識の中には何も芽生えていない。という構図が否めない。とりあえずこの認証だけ取得しておけば、環境問題もセキュリティーも当面は大丈夫だろう・・・みたいな概念とは到底育成しきれていないレベルで安泰してしまうこの国の感覚が一番恐ろしい。つまり、お上に依存している文化と歴史の上にまだあぐらをかいている。勿論、この恩恵は大なり小なり受けていることに対してリスペクトしないわけではないし、コアな取組みや体温の高い方への共鳴は怠っていけないと思います。
 で、これは国や企業に対してのCRSというよりも、もしや、概念を持っている人との共鳴こそが一番大切な「企業の社会的責任」の核なのかもしれないと考えていた。だから、この記事の後半に展開されていた内容に心から呼応してしまった。その記事は「そのための需要な鍵は、事業の社会的意義を揚げた経営理念や経営哲学の真の浸透にあるのではないだろうか。そこにおいて、形式主義を超えたコンプライアンス、企業倫理とCRSが、従業員一人ひとりの中で改めて結びつくことになると思われる。」とっ括っている。つまり、不祥事もその発端はひとりの倫理なき個人であるはず。それが、倫理観のない誰かに伝達され、企業の総意となり、負の連鎖に発展したのだろう。つまり、一番大切なことは総意に対する個人ではなく、個人に対する総意でなければならない。総意になるまでの過程を無視し、ステレオタイプに論理を構築しようとするから「ひずみ」や「ねじれ」が発生する。時に「ひずみ」や「ねじれ」をも「共有」にしてしまうぐらいの「視野」というか「テーブル」というか「器」が今最も必要なのではないだろうかと考えてしまった。「サイズの異なるどんぐり」でも「長い釘」でも「101歩」でもいいから、まずは、自分の中の「Yes」と「No」を明確に持ちたいと思います。そこから、権利も責任も生まれるような気がするのですが・・・。ここですでにねじれているかもしれませんが。