5教科的な思考。

 昔懐かしい、「国語」「算数」「理科」「社会」「英語」という5教科に何故分かれていたのだろうかとふと考えることがありました。といいますのも、ある会議でひとつの言葉についての捉え方について「私はこう思う」「いや、それはそういう意味として捉えているのではなく・・・」「ならば、私の解釈が正しい・・・」「いやいや、この場合正しい正しくないの判断ではなく・・・」とゆずらず議論のループが始まるパターン。この場合はどこのボタンを掛け違えたのだろうか?この場合はこちらはこの意味でこちら的にはこの意味だから、ちょっと何を議論しているのか?何のための議論なのか分からなくなっていっているような空気。第三者として傍観している分には気楽に捉えられるが、当事者もしくは相手サイドなら、ぐっと、話のテンションは上がる。相手に言葉や語彙を理解してもらうために言葉を重ねるのですが、その説明もどうやら100%伝わったとは言いがたい。すると、本来伝えたかったことのために、その背景を説明して、その背景を説明するための言葉や比喩を説明して、最後の最後になぜ貴方にこのことを説明しているかを説明する。もう、食い違う時はとことんである。お互いに「まぁまぁ、この場はそうカタイことを言い合わずにこのあたりでなんとか鞘にお納めください。」とジャパニズムに折衷するのか、「私の説明が理解できないのなら、言葉として覚えておいてください。このことを。」とアメリカンにゴリ押しするのかは自由ですが、どうも、会話のボタンは掛け違えたくないと思います。
 で、「国語」「算数」「理科」「社会」「英語」なのですが、「理科」「社会」「英語」は得意だったのですが、どうも「国語」「算数」という教科は好きになるタイミングを逃した。だから、社会に出て「自分は国語の成績が悪かったから漢字知識や文章の読解力などは他人よりかなり低いだろうなぁ~。」「数学も高校の後半なんてドロップアウトしてたから、社会に出て働き出したら数字のお話は敬遠しよう。」とかなりコンプレックスがあったのですが、いやいや、テストの国語や数学なんて点数を取るためだけの問題だったから、興味もわかずに点数がとれなかっただけなんだ(ヒラキ感が漂っていますが~)とも思えた瞬間があり、別に数字や文章が嫌いなわけじゃないんだから、別段、社会生活において引け目を感じる必要はないなぁ~とボタンを掛けたものだから、もう、正しかったのか書け間違えたのかさえ分からなくなってしまっているが、仕方ないと諦めている。一方、理科(特に自然や天文学や化学反応や科学の仕組み)、社会(地理や西洋の歴史)、英語(全般)には興味がありそれと勉強のベクトルがあったので、それに比例して成績も良かった。では、このことを改めて一般教養と比較すると、何のために5教科の設定があり、それを実力テストとして競っていたのだろうか・・・。この場を借りてじっくり考察してみたい。