会議の目的。

 「会議とは手段なのか目的なのか?」会議のテーマや議論の方向性に対してフレーミングが最後まで機能し続けて、その場に居合わせることが重要で手段としてテーマを認識するために時間を費やす場合と、一旦テーマを机の真ん中に置き、それに対して参加しているいろいろな人のポテンシャルでそのテーマを分析・検証するという時間の活用方法をそれと呼ぶのか。それらは時に複合的に絡み合い、会議に参加する人の人間関係や知識や学歴やキャリアなどのが微妙に作用し合いながら時が過ぎる。「激しき議論」とは議題に対する本質的な分析・検証・意見・提案・アドバイスが活発に入り乱れることだと思いますが、「激しい」だけに感じるのは、会議に参加する方に共通言語がない場合、これは、本来の会議というスタイルの一番理想的なレベルを10とすると、1~2レベルであるように思います。ただこれも会議をレベルなんてモノサシで計測できなのですから、なぜこの会議が開催されているのかという理由と会議の後に次回の会議までにどうするべきか何をするべきかが参加した全員に胸中に認識されていればそれはそれで会議として成功だと思う。素晴らしい結論に導くことが出来なかったとしても、それは、会議として機能していると思います。会議の最中に革新的な結論が出され、それを参加した全員が賞賛の拍手で幕を閉じるというようなK会議やTサミットみたいな、ある意味、イベント化した会議は誰かがどこかで予算調整だけしていればいい。
 ひとりひとりの問題を全体の問題として考え、全体の問題をひとりひとりが同じベクトルとテンションで考えることができ、受けの姿勢から投げの姿勢に気持ちが変わる時、次への課題やテーマが見えてくる。答に強引に導こうとする会議は会議ではなく、ただの発表会である。幼稚園の発表会である。一生懸命練習した演技を与えられた時間、ステージに上がって元気に発表する。参加者は演技が終わったら拍手で終わり。こんな会議は会議ではない。時に人がある限られた場所に集まるということは、それだけで機会価値を提供していることになる。しかし、会議だと思ったモノがただの発表会だったりすると、価値があまり感じられない。だから、いつでもどこでもオンラインで意見を見て読んで、気軽に意見を発信できるオンラインでの会議ができなかと思っている。テーマを進行形で流動的に捉え、多面的に意見や感想や提案を集めるだけでは会議とは言えない。が、機会価値が発生しなければ、それだけ、意見や感想や提案のリミッターも緩くなる。なりすぎて2チャンネルになるとただの「エゴ」の網羅になるから注意したい。文化的な社会規範的や相対や絶対をどこかでリスペクトしている姿勢を失わず、それがこの中で展開されれば幸いです。一番怖いのはやはり何ごとも「無関心」ですね。

http://www.mirai-nagahama.com/blog04