水のお話。

 子どもの頃、水道の水を飲むことはごくあたりまえのことだったし、缶ジュースなどが発売される前、買う飲み物とは、子ども心だったかもしれないが価値がかなり高かかった。しかし、自動販売機でお茶を買う時代になり、水はあれやこれやと薀蓄のフィルターを通したモノしか口にしなくなった。これは多分進化とは呼ばず誤解なのだと思う。それがかなり純度の高い「誤解」で販売促進や認知度の部分でかなり計算されつくした「誤解」だから、「正解」だと認知してしまっていたように思う。人間の身体に水は必要不可欠、だから、いい水を飲むことが身体にも良く、それに標準的な意識レベルで「こうであるべきだ。」とインプリントされ、いつの頃か水道の水は不純物が多いと考えてしまっていた。しかし、それはいつまで続くのだろう。というのも、これまで普通に飲んでいたなんとか水という1リットル幾らかの水を飲むのを止めた時、冷蔵庫にも改めて買った水がなかった時、のどが渇いて普通に水道の水を飲んでいた。でも、あれ?これって子ども頃は普通だったのに、なぜ、「危険な飲み物を飲んだ!?」ような違和感があった。が、水の味など到底分からない私はそのまま、コップにいっぱい水を入れて飲めた。たかが水、されど水である。このようなことが、普通の生活レベルに視点を向ければいっぱいあるように思えた。引いては「日本の生活水準」というのも正確には不明である。何が「普通」で何が「標準」かを正確に判断できていないから、流れやすい方に価値観の水が流れるのだろう。その水路を作った人は偉いと思う。たぶん、この国ではそんな水路が作りやすい時代が長く続いたのですが、このところは「価値観の多様化」だとか、「ボーダーレス」とか「パラダイムシフト」とか叫ばれて久しいほどに、「普通」を見極める人が多くなってきたのではなだろうかと思います。
 で、あんな総理が誕生してしまうのでしょう。なんともシンボリックな出来事です。全てを象徴しているようで、ある意味、立派な自立した象徴的な存在だと思います。「進化」とか「進歩」なんて言葉を安易に使わずに「普通」をもう一度手のとどく範囲で再確認したいと思います。結構、水道の水は美味しいです。こんな国もそう多くないはずですから。