ミラーニューロンの今。

 ウィキペディアでは、「ミラーニューロンは霊長類などの動物が自ら行動する時と、その行動と同じ行動を他の同種の個体が行っているのを観察している時の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。したがって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳活動が観測されている。ミラーニューロンは、神経科学におけるこの10年で最も重要な発見の1つであると考える研究者も存在する。その中でも、ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは模倣が言語獲得において重要な役割を持つと考えている。しかし、その分野での認知度にも関わらず、ミラーニューロンの活動が模倣などの認知活動において、どのような役割を果たすのかという疑問に答える神経モデルや計算モデルは、現時点では存在しない。加えて、1つの神経細胞がある現象を引き起こすとは一般的には考えられていない。むしろ、神経細胞のネットワーク全体が、ある活動を行う際に活性化していると考えられている。」とある。そもそも、小学校の頃、美術の時間に「マネはいけない、個性的に。」と言われ続けてきたが、小学生なりに、何か変だなぁ~とは漠然と感じていたような記憶がある。なぜ、マネがいけないのか、そこから、大阪芸大に入るまでこのジレンマがあった。絵の勉強を芸大で本格的(これも語弊があるが・・・)始めるようになってからもずっとずっと「オリジナリティーを」と言われてきた。「自分の絵」を探しなさいと、とおり一辺倒の教授陣の言葉にやはり、小学校の頃感じた変な感じが否めなかった。決して懐疑的な思考ではなかったものの、常に「何故、マネがいけないのか?」が頭の中でモヤモヤしていた。デザインの仕事を始めるようになっても、また、「オリジナリティー」という言葉にぶつかる。そのデザインは何々風でいいけど、君は君のデザインをしていかなければモノホンではないですよ的な助言を頂くたびに、「ああ、またか・・・。」みたいな感覚。イラストレーション表現も「個性的な絵」のスタイルが嫌いだったのもそれが大きく影響している。「上手い絵=リアルな絵」という考えがコアにあるために、抽象画やオリジナリティーもどきのイラストレーションを否定してきた。今でも否定している。しかし、芸大で芸用心理学や社会心理学の講義に出会ってから、なぜ否定してしまうのかという心の部分の本質を見極めたいという視点を頂き、それにことあるごとに没頭するようになる。専門的な研究はできないまでも、個人的なレベルで「人の考える仕組み」に対する答を出せないものかと。その中で「マネぶ=学ぶ」というキーワードに出会えた。そこから波及する日本の義務教育の澱についても、絵画・芸術一般についての海外・日本の歴史についても個人的にリサーチをしてきた。そこまでの背景があり、このミラーニューロンの研究がここ10年のお話であることを知ると、まだまだの部分があったんだと納得してしまった。そして、最近、心のお話が書籍やテレビに取り上げられるごとにけっこう見入っている。
 で、やはり、「全ての芸術は模倣から始まる。」という言葉がかなり自分自身の心の中で色彩を帯びてくる。やっぱりね、という感じ。だってそうでしょう、芸術の歴史の中で、絵画の昔と今を体系的に分解しても、絵はそもそもただの伝達方法ですから。そこにどう価値が付加されるかは放し飼い状態であれ、根本は何かを伝える手法であるなら、それを継承する作業が絵を描くことの根底に流れているはず。それを見誤って「個性」だの「オリジナリティー」だの「情操教育」だの「心理分析」だのと言ってもそれはただの「お茶のにごり」だと思いますね。この根本を理解させる教育体系をどこかで見誤ったから、あんな総理大臣が国を動かしている国になってしまうのでしょうね(かなり強引な結論ですが。)。じゃあ、どうなるべきかという部分ですが、それは、それが見えている人がどう立ち振る舞うかだけですね。つまり、最後の最後は、誰かの頭の中にあるヴィジョンや考察が渦になり時代を作ると言っても言いすぎではないでしょう。最後の最後で、頭の中のミラーニューロンがどう反応してどんな信号を出力中枢に出すか・・・だけ。まぁ、この考察はこんなブログでは無理ですから、また、改めて執筆してそれが書籍になった時にどこかで同じ考えを読んだ時、あなたのミラーニューロンで吸い込んでください。年頭にあたり、道草思想論第一筆でした。この考察に対するご意見をぜひください。「肯定否定」ではなく、「正しい悪い」でもなく、「価値があるない」でもない、フラットな考察をよろしくお願いします。RONINさんどうですか?