日本語の美徳。

 日本語は特に主語を省略する場合が多い。日常会話ではこの人はたぶんこのことを言っているだろうから、それを察してこう返答しようという能力が多言語と比較しても多く含まれている。それは単一の言語をもっている国民性であるからそのようなコミュニケーションが横行しているのであり、それを文化だとか慣習だと捉えて美徳とする傾向がある。これは美徳なのか?という疑問はさて置き、主語を省略する文体にどのようなメリットとデメリットがあるのだろうかという部分である。はっきりとは言い切らず、相手の受信能力に依存するコミュニケーションの弊害が現代社会において大きな傷になりたくさんの血を流しているのではないだろうかという仮説である。聞き上手を「勘がいい」とすること。ノリがよく空気が読めるということがコミュニケーション能力と認識されていることで、勘が悪い人、ノリが悪くKYな人が敏感になるとどのようなことが起こるのだろうか。コミュニケーション能力を高めるために学業中の方も社会に出て出世を目指す方もそれなりに一般社会の中でこれらのことを「能力」と捉えて切磋琢磨試行錯誤していることでしょう。しかし、そもそも「聞く」だけでいいのか?受動の前に能動だろうと思ってしまう。つまり、能動だけでもアメリカになってしまうからNGですが(これは80%ユーモアです。)、このバランスはどこで養われるのでだろう。とは言え、この問題を自分自身の問題として捉えた場合に自分はどうなのだろう?勉強はしなかった。大学の偏差値も低かった。最初に社会に出た時に何か学士的な公認なんとか的なスキルはあったのだろうか・・・いやいや、全く何も無かった。ただただ、一生の仕事として正面から「デザイン」という仕事に向き合ってきたとしか表現できない。が、いろいろな仕事の現場で日本語のコミュニケーションのメリットとデメリットは意識してきた感覚はある。結果、何が見えてきたかとなると、他人が見え自分が見えてきた。ただ、それを世の中のいろいろなモノサシで「正しい悪い」「得か損か」「好きか嫌いか」などという基準で測った時、正確な数値は意識できていない。
 で、日本語の美徳である。日本の慣習である。つまり、郷に入っては郷に従う的な美徳に甘んじているだけなのかもしれない。この疑問に対する答は多分出せないだろう。が、それが答のような気がしています。なのに今の日本は出せない答を求めすぎているような・・・。