「好き」という価値判断。

 「好き」という価値判断はもっとも根幹の部分である。実際、何か行動を起こす場合や何か判断をする際にこのモノサシが最終的なジャッジをしていると思う。
 例えば、議論しているテーマに対して「好き」というレベルが100の方と50の方では確実に真理は100の方から50の方へ流れる。しかし、当の50の方はそれを100だと認識していて、100の方は50だと認識していた場合、その格差は幅は実際25~200という結果になる。これが、日常レベルでもビジネスの現場でもありとあらゆる場面で起きていれば、そりゃ「多種多様」になるだろう。そして、「好き」という価値判断の基準は曖昧になり、マスや主義やイデオロギーにコントロールされて依存している方が楽になる。この誤差に個人の存在価値があると仮定すれば、主従が明確になりそうだが、そもそも、主従などという概念は便宜上の概念であるから、必ずしも「好きと嫌い」をジャッジできない。そして、そのまま時間が流れいつしかその澱が淵に蓄積し慣習になり文化になっている。そして、その歴史が繰り返されているから人は歴史から何も学ばないというネタが成立する。
 で、例えば、好きなCDを買ってレンタルして聞くという鑑賞行為において、好きなアーティストとは自分にとって何だろう?それを判断している一番大きな基準は何だろうと考えてみる。それは、以外と世の中のBEST10的なランキングの啓蒙による判断ではないことに気がつく。細かいディテールを分析すればキリがなく、収拾がつかない。別に結論を出すために好きな音楽を聴いているわけではないから。よく聞くお気に入りのアーティストとはそのアーティストの「声のタイプ」だった。声の質というか、歌声でどうやらCDをチョイスしているパターンが多い。で、映画となると、監督だとか物語だとか時代性だとかいろいろな規準がありますが、結局、誰が出ているかでDVDを買っているパターン。やはり、そこに「好き」の価値判断が起こっているようです。
 デザインも同じ。仕事としてそれに携わらせていただいている限り「自分の好き」と「お客様の好き」をしっかりと判断する能力と自分自身のクリエイターとしての価値判断と引き出しの質と絶対量を日々収集し練り上げる必要がある。結局、「好きこそものの・・・」なのである。