「地球が静止する日」への洞察。

 小説はディックのように短くコンパクトに閉められていた。が、映画はどうだろうかとチェック。どうもう最近この路線が多い。未知なる宇宙への表現が~ウォーズから完全に離脱してリアリティーっぽく表現されている。つまり地球外生命は敵か見方ではなく、大いなる脅威だと。人間を描ける一番小さい存在まで落として逆に宇宙に対して心からリスペクトしていますよ的な路線である。乱暴な表現をすれば無関係に近い関係だと思いますし、仮にそういう団体が飛来したとしてもその団体の技術や知識がどうであれ、間違いなく同位もしくは同位以下であるはずはない(仮説)のだから、イマジネーションをフルに使って大きく描こうが小さく描こうか、それさえも無関係と言える。だから、そのような団体が仮に地球自体を救済するために光に包まれて飛来しても、さて人間とコンタクトをとろうとするだろうか?という疑問がこの手の映画には常に先行するので集中して最後まで物語を追うことができない。このタイプで言えば唯一J.フォスターのコンタクト(カール・セーガンによるSF小説の映画化作品)が唯一宇宙を描いた一番最適な表現のように思ってします。勿論、50歩も100歩も譲ってであるが。ラストシーンは感動的ではあったが感傷的すぎたし、J.フォスターの演技があったから高いレベルで成立していたが、他の女優さんだったらかなり疑問であり、小説を読んだ方がいい。
 で、「地球が静止する日」とは印象的なタイトルであるが、太陽系を公転している限りたぶん自転が止まることはないだろうし、宇宙の仕組みへの認識自体が誤っていたら止まるかもしれない。つまり、人間は宇宙のことをああだのこうだのと人類の未来のためだと言いながら探索してい探求して追求しているが、未だかつて「宇宙との関係」のリアリティーはない。いずれも想像と仮定の産物なのである。だから、いろいろな宇宙映画が成立するのでしょうけれど、夢や希望を描くならいいが絶望から関係性を描くのは映画でなくてもいいのではないかな。配給会社がそれを求めニーズがそれを求めているという構造だけが見え過ぎてあまり楽しめはしなかった。残念。どうせなら「ミスト」や「ハプニング」の方が格段にいい物語だったと思います。