2009年07月 アーカイブ

X-MEN ZEROという仕掛け。

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 映画には全てが詰まっていると思う。そして、古今東西あらゆる数多の映画に必ず登場する主人公がいる。物語の主役である。映画は何で決まるのか?監督かもしれないし、原作かもしれないし、音楽かもしれない。また、制作費かもしれないし、プロデューサーの手腕かもしれない。しかし、この映画は間違いなく「ウルヴァリン」という存在であると思う。映画に登場する主人公には必ず物語がある。それは、生きていた人、生きている人それぞれの頭の中にある内と外との連鎖の仕組みである。誰もの思考の中心には必ず自己がある。それをどう位置づけるかについてこれまた数多の定義や方程式が存在する。その上で「自己」とは何かを考える。映画を観る際のひとつの視点としてこの自分自身の中に存在する自己と映画の主人公との連鎖がいかに、いかにかがその映画を大きく左右していると思う。そこに肯定も否定も無ければそれが関連性における自己の実態である。

 自由に空を飛ぶ主人公、いくつもの困難を乗り越え自分を見つける主人公、醜い世界で美しい世界で存在価値を求める主人公、比較や挑戦や葛藤が限られた時間の中でいくつも交差する時、そんな主人公達は光になり影になる。それが映画のひとつの醍醐味だと思っている。

 で、この映画である。ウルヴァリン、なぜこんなにも惹かれるのだろう・・・。まだその理由は分らないが、9月11日にそれが分かるかもしれないし、分らないかもしれない。これだけ一人の主人公に引き込まれるケースは本当に稀である。楽しみです。1・2・3とDVDをいつも時間があれば観ているのに、このZEROはまた違った味を感じています。

◎こちらで確認してみてください。予告篇ですが・・・。

自己防衛。

 北海道大雪山での事故で多くの中高年の登山者の方が亡くなられた。ツアーを企画した会社の責任問題が問われているが、同じツアーに参加された方で登山経験のある方も状況を察知しておられたそうで、寒さやエネルギーの消耗を少しでも回避するために、タオルの半分のところに大きな穴を開けてそれを上着の下に装着して体温の消耗を防いでいたとコメントしておられた。必ずしもこれが生死を分けた処置だとは言い切れないでしょうが、少なくとも状況の判断力と危機感を持っておられたことは間違いない。そして、自分にできる応急処置をしっかりと実行され厳しい状況を回避され、結果、下山された。確かにツアー会社が企画した登山かもしれないが、それに同意するということは自己責任も確実に機能しているわけで、企画や引率の方の経験不足、対応力の不備などが原因だとも言及しにくいのではないだろうか。

 やはり、自然は怖いということになるが、それでも、同年の方がしっかりと生還してこられたということは、体力差もあったでしょうけれど、現場での応用力というか、状況を判断して自分で考えて行動・処置された方とそうでない方で結果は異なったようである。日頃、どれだけ定期的に運動をして基礎体力を維持している方でも、状況が異なれば、そのような自負は逆にデメリットになる場合もある。自身過剰という程でもないにしろ、やはり、経験値にしても技術力や日頃の鍛練にしても、適度が適正ということだろう。ただ健康維持のために、重いバーベルやウエイトトレーニングは必要ないし、日常生活にハードなサーキットトレーニングも必要ない。とは言え、食生活も運動に対しても無頓着になり、どう見てもこれは厳しいという体格の方も、状況が同じであれば、そのまま不摂生を続ければいいが、どこかで、トータル的にプラスマイナスのつじつまが合ってくるように思います。

 で、自己管理というか自己防衛が最後の最後でポイントになるのでしょう。昨日、身体に生まれつきハンデを持っておられる方の運動や競技への取り組みについてスポットをあてるテレビ番組で、そこに登場してこられた方が、スポーツは他人に勝つことが目的ではなく、自分自身に勝つことが目的だと言っておられたし、ハンデあるから自分自身の心が内側に向いているといろいろなモノが詰まってくる。しかし、外側にベクトルが向いた時にはじめて自分が何をするべきか、自分は何をすることが楽しくやりがいがあるかが分かった・・・・と。社会や他人との関係だけを気にしても、自分の内側にあることだけを気にしても、いずれつじつまが合わなくなるのでしょう。外と内、オンとオフ、そんな関係性を踏まえて~の、「自己防衛・自己責任・自己管理」なんだと思いますね。

竜巻映像。

 あるマンションから撮影された竜巻の映像を見た。あの映像はツイスターよりリアルでした。電線がショートするする映像はリアルすぎ。しかし、豪雨に竜巻、日本の気候はどうなったのだろう。もう7月も終わるというのにこの雨と気温。まだまだ梅雨の延長上。テレビで「冷房病」という自律神経系の病気のこともしゃべっていたし、微妙に日本の四季が崩れているのでしょうか。昨日は北海道でも地震が発生していたようですし・・・。

 しかし、「竜巻」の威力って凄まじいです。昨日の群馬の竜巻はなんとか式の竜巻のレベルで計測すると1~2のレベルだそうですが、家の壁を突き抜ける瓦、金属の支柱に刺さっている木片、テッシュのように舞いあがるトタン屋根。突然の竜巻に襲われたら細い溝に身体を入れて通り過ぎるまでじっとしているのが対処方法。鉄筋の建物に逃げ込むのもいいらしいですが、できればそんなことには遭遇はしたくない・・・。

 う~ん、自然とはなんと驚異なのでしょう。

カエラ7変化#03

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 そして、これも・・・。映像づくりは全てに精通していないとダメ。他のタレントやアーティストのPVもよくチェックしているのですが、こうはならないならない。

カエラ7変化#02

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 こんなイメージどうして浮かぶのか?そして、それをこのようなPVに仕上げてしまうセンスとエネルギー。う~ん、最高ですね。最高のクリエイターと最高の素材が揃わなければ絶対にこうはならない・・・。

藍ちゃんオメデトウ!

 念願の4年越しの初優勝、おめでとう!って感じです。最後のバーディーパットはファンとして熱いものがこみ上げてきました。いろいろなスランプがあったようですが、いつかこの日が来ると日本のファンの皆様は信じてずっと待っておられたことでしょう。待望の優勝。いつも強気の藍ちゃんがその瞬間、下を向いて眼がしらを抑えていた。う~ん、感動ですね。この調子で今シーズンはあと2つほど勝ってほしい。おめでとうです。

 間違いなく、昨日の26時間テレビとは比べモノにならない感動でした。シナリオ通りの感動ってちょっと引いてしまいます。汗と涙が必ずしも感動につながるとは限らないからテレビの番組づくりも難しいのでしょうけれど・・・。

カエラ7変化#01

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 いつも木村カエラちゃんのDVDやCDやWEBなどのデザインをチェックしてしまう。これだけ素材がいいいとクリエイターの皆様はやりがいがあるだろうなぁ~。素材が厳しいアーティストもいるだろうし・・・。いいなぁ~いいなぁ~、こんなのを創りてぇ~~~!カッコイイ~~~!!!

竹林にて。

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 雨に洗われた竹林。とてもキレイでした。

雨がよく降ります。

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 ここは草津の文化公園内のベンチです。昨日はこちらで打ち合わせだったのですが、途中、3回、前が見えなくなるほどの豪雨。ほんとによくこのレベルの雨が降ります。夏の夕立ちのような雨がこうも断続的に降るってのはやはり自然環境が変化しているのでしょうか。梅雨前線の発生の仕方も例年と比べ非常に活発で梅雨の雨というよりも、どこか熱帯地方のスコールのような雨。だんだんと梅雨時期から夏にかけてはその地域のような気圧配置になっているのでしょうか。これも、温暖化や地球環境の変化に伴う出来事なのかなぁ~と思いながら草津まで車を走らせていました。

 で、打ち合わせ後、雨も上がり~で、資料撮影をしながら、公園内をウロウロ。このベンチは公園内にある大きな池のほとりにあるベンチ。適度に疲れているベンチが雨上がりになんとも存在感がありました。人工物はあまり写真に撮ってブログにすることはないのですが、なんとなく、この疲れた表情のベンチと雨上がりというシチュエイションでシャッターを落としました。

 今年の夏は冷夏だということ、冷夏は米の品質にも影響が出ますし、紅葉の紅葉の色にも影響が出ますから、地球上の全てのモノは関係があるのだとつくづく。

 さて、人間はどうなんでしょう。豪雨による死傷者が今年は例年に比べてとても多いように思います。北海道の遭難や土砂崩れの被害などなど。自然はほんとにほんとに侮れません。

地デジ普及60.7%!?

 何よりもこの「60・7%」という物理定数をどう捉えるかが問題である。アナログから地上デジタル放送に変える理由がよく理解できないまま、お上の仰せつけのとおり・・・が未だに横行しているのかと思うと受信機としてのテレビもどんだけ大きくなろうが薄くなろうが高解像度になろうが、素直な気持ちにはなりにくい。だって、新しいOSを購入すれば、PCで観れるのに、チューナーさえ購入すればデジタル放送は見ることが可能なのに、なぜ、この不景気のタイミングでテレビをリセットしなければいけないのか。ここをスルーすれば別に「いいじゃん」でいいのだけれど、なんか今回の地デジは納得がいかない。どこかに目に見えない壁がいっぱいあるように感じてしまう。

 で、「60・7%」がどうなの?という感じなのである。目標値は62%だったそうですが、この数値も背景が知りたい。とにかく人間は物理定数に弱いからよほどの理由がなければ「「60・7%」を深く掘り下げないし、なんの気なしに、「目標値は62%」だと言われたら、鵜呑みにする。ここが一番疑問な部分なのに、スルーして「そろそろウチもテレビを買おうか・・・」みたいな、いわば、安易な軸が確かに存在する。

 で、で、例えば、「カーナビ」なんかも、絶対に必要ないと私は思っている。興味もなければ、意味・意義・価値も感じない。みんなが買ってるから、みんなが便利だと言っているから、みんなが使っているから・・・という理由の方が実は「60・7%」なんじゃないかな。

 最近はプライベイトブランド(PB)って言葉をよく耳にしますが、これまでスーパーウルトラスペシャルブランド志向だった人たちがようやくその意味のないステイタス感覚を捨て、本来の機能性やデザイン性を求めて所在と背景とコンセンプトがしっかりしている(というか身の丈にマッチしている。)と感じる商品に注目しているのでしょう。これは、価値観が多様化していると言えばそれまでですが、何故、多様化しなければいけなかったかということを推察すれば、その出発点は、「60・7%」は価値が無かったということになれば、不思議な国の不思議な方程式が成立するとかしないとか・・・。全て道草思想上のお話です。

ラジオ体操開始。

 月曜日から6時15分に起きて近くの神社でラジオ体操がスタート。本日で3日目。初日はちょっと雨がチラチラだったし、昨日も雨上がりのラジオ体操だった。しかし、本日は、雲なしの気持ちいい夏の朝でした。昨日が今日みたいに晴れていたら部分日食もしっかりと観察できただろう。

 と、朝からご近所の子どもやご父兄のの皆様とラジオ体操はほんとに気持ちのいいものです。

今日は写真撮影。

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 今日は世の中全般的に皆既日食でしたが、私は彦根のカラオケスタジオさんにて撮影でした。次から次へと出てくる美味しげな料理やドリンクがなんとも素敵でした。しかし、平日の午後3時からカラオケをしている人たちって凄く余裕でリッチだなぁ~と思ってしまいました。店長様をはじめスタッフの皆様長時間撮影に協力いただきましてありがとうございました。そのカラオケスタジオさんはこちらです。

W.P.ヘッダーにSWFの埋め込み。

 今年の2月頃にグーグルで「W.P.ヘッダーにSWFの埋め込み」というキーワードでいろいろなブログやWEBサイトを検索し、3~4件ほどのブログがヒットした。それを読んで、方法はいくつかあるのだと思ってその時はテスト設置までいかずに保留しておいた。ようやく、SWFが確定してまずテスト設置にトライした。が、どうも上手くいかない。というか中途半端に部分的に表示はするが、目的の仕組みが機能しない。たぶん、W.P.のバージョンも使っているFLASHのバージョンもA.S.もいろいろ関係しているのだろうとほんとにいろいろなF.P.用にSWFを書きだしてテストを繰り返した。しかし、機能しない。ノーマルにSWFだけなら問題なく表示され機能するのが、外部にJPGデータを持ち2時間毎に1日12枚の写真画像をSWFにロードさせることが目的だったため、やはり、JPGをロードできるようになったのはF.P.の確か8.0ぐらいからだったように記憶していたので、PHPに記述するF.P.のバージョンに問題があるかだろうか・・・などなど。しかし、外部の写真がロードしない・・・。

 再度、ヒットしたブロガーの皆様の画面を確認する。何回も何回も全ページプリントアウトして読み返しテスト設置して読み返してテスト設置を繰り返す。ポイントは3つ。W.P.のヘッダーにSWFをロードさせるためにはある「JS」が必要であるということ。そして、記述先のスクリプトにはSWFの所在を絶対URLで記述するということ。そして、FLASHのA.S.側でロードするJPGをW.P.の表示データ(index)からのルートで絶対で記述するということで、無事、2時間毎に12点のjpgがロードするようになった。この間、ありとあらゆる可能性を書き出して順番に消していった。あまり得意ではないphpの改造だったのですが、結果、flashの知識に救われた。

 ブラウザで無事swfがリードして写真が切り替わった時はひさびさにひとりでガッツポーズである。詳しい方ならこの程度の作業は朝飯前なんでしょうが、私にしてみれば、この作業はかなりの達成感でした。だって、この目的で検索して最適なアドバイスが記述してあったブログは3件でしたから、これができる方もそう多くはないでしょう。それに、この件を書店で探しましたが、このレベルのノウハウは専門書でもフォローしていませんでた。書店も何件もはしごしたのに・・・。

 結果、知識として知っているだけではモノホンではないということ、目的を達成してから、本当の実感が湧いてくるという「普遍の公式」にひさびさに感動していたこの3連休でした。改めて、flashの書籍もいくつか読み返したのですが、かなりflashの書籍は読みこんでいるのでどれも覚えている技術やノウハウで可能性をひとつひとつ消していくのにflashの作業は時間はかかりませんでした。やはり、日頃の小さな蓄積が今回も助けてくれました。デザインもWEBも「資料力」と「ねばり」が大切ですね。

アニマルスピリットという感覚。

 「もし血気(アニマルスピリッツ)が鈍り、自生的な楽観に挫け、数学的期待値以外に我々が頼るべきものがなくなれば、企業は衰え、死滅するであろう」。という言葉がある。これは、経済学者、ジャーナリスト、思想家であるジョン・メイナード・ケインズが一般理論で「アニマルスピリッツ」という用語を使ったとき、それを説明するパラグラフのむすびとして書いた言葉らしい。(~日経新聞より抜粋~)なかなかの真理に近い言葉であり質量も大きい。これは人間の本能の部分と進化してきた経済体系の関係性を分析するための手法だと思う。そもそも、「安心・信頼」とは何なのか?普遍の「公平さ」とは?そもそもの部分で起源から辿る「貨幣錯覚」とは?など非常に興味深いテーマを投げ、それに対する答があるだろうG・A・アカロフ、R・Jシラー著の「アニマルスピリッツ」。この書籍はかなりチェックである。

 この記事の末尾に「物語とはビジョンの源泉である。著者らによれば、いま経済学者が集うあらゆるところでビジョンと解答が模索されており、本書はそうした解答を捻出するための背景となる物語だという。日本の答えを求める血気を持って本書が読まれて欲しい。」とメッセージがある。血気という語感からプラスとマイナスのイメージがあるが、これも引いては深い部分で「日本のそれ」なのである。ノーベル経済学賞を受賞している方の論述だからというわけではなく、何回も何回も「血気」という言葉について掘り下げ、掘り上げていくと、いったいどこに辿りつくのだろう?その物語にこそそのディテールにこそ真実があるだろうけれど、人間である前に動物であること、生物であることを忘れないで、改めて人間の経済の歴史が語られていることをこの書籍には期待しています。

 脳幹の外側にそれを覆うように進化してきた2層の臓器の意義へもアプローチしているのだろうか?何はともあれ、経済のことよりも、ノーベル経済学賞のことよりも、アニマルがどこから来てどこへ行くのかの羅針が見えればこの書籍の存在価値はあると思います。書籍を読むというアクションにもたぶん血気が必要なんだろう。

広告費用の比率。

 世界レベルででも広告費用は減少している。一般的に景気の沈滞が大きな原因だろうが、そもそも、広告費用というモノには純粋に商品や自社の業務内容を伝えるための手法と他に啓蒙や相対的な価値観を共有するための費用も含まれているわけだから、ブランド化に必要なツールの作成費用や費用対効果で言えば非生産的なアプローチも存在したわけで、全体的な減少と本質の評価には少し誤差が生じていると思います。

 で、広告と呼ばれている手法にはテレビ・新聞・雑誌・ラジオ・映画・屋外とインターネットの7種類でほぼ包括できるのですが、この相対的な比率を視てみるとそれぞれの比率は2009年でテレビ38.5%・新聞23.8%・雑誌10.9%・ラジオ7.5%・映画0.5%・屋外6.5%・インターネット12.1%となっているそうです。この中で全体的に減少していながら、唯一インターネットの12.1%は増加しているという結果が出ています。前年比では10.4%からなので、それほど伸びてはいないのですが、テレビは逆に2006年が42.8%だったのでそれほど減少していない。テレビ番組の予算がよく話題になり1/10だとか言って笑っているが、そこを削っても自分の取り分を確保したい方が多いということだろう。でも、現在のテレビ番組の作り方だったら、とても道理に適っているとは思えないし、38.5%もの比率も疑問です。ようはそこへのメスがインターネットであったはずが、結局、「地上デジタル」が苦肉の策なのでしょうね。仕組みを牛耳っている人にしてみれば、単価の安いタレントや動物の映像を流して番組になればそれでその場は凌げるだろう的な発想なのでしょう。それがメディアの中心にある以上、経済や文化や芸術がどうのなんてその中で語ってほしくないですね。結局資本主義の澱にまみれて底なし沼状態なのでしょう。

 広告費用とは先行投資ではない。広く効果的に本質を告げる手法という道理の上で頭を捻りたい。

直木賞の北村薫氏。

 北村薫氏は6度の直木賞候補での受賞らしい。そして、北村氏は新聞に「長い年月にわたって候補にしていただけたこと自体がありがたい」とコメントし、「本当に多くの人たちに支えられ、ここまでやってこられた。正直ホッとした。」と言っておられたそうである。この北村氏の「鷺と雪」はぜひ読みたいと思います。

 メディア全盛のこのデジタル時代、情報が飽和していると叫ばれ久しいが、そんな中でも自分の世界観をしっかりと小説という形態で書籍という芸術に昇華されていることのディテールは、どれだけ時代が変貌しても、価値観が氾濫しても、絶対的に変わらない人の叡智から創出される世界観に、また、多くの人が心で反応するという普遍のふるまいの存在が感じられ、この作品の価値を言わば永続的に確保しているように思います。最後の最後で生命の有限さと芸術や文化の無限の関連性の中に存在していられるというメリットとデメリットが多くの芸術作品を支えているのだと実感できますね。

 例の戦略ありきの書籍とは質量の点で比較にならない素晴らしい作品だと期待しています。

正しい道理。

 「経営人にとって大切なのは、経済と道徳のバランス。」だと、「論語と算盤」という書籍の広告のキャッチコピーに書かれていた。とても興味があるフレーズである。さらにその広告面にはこうある。「正しい道理によって得た富は、完全に永続する。孔子の教えに従って商売をする「日本実業家の父」渋谷栄一が実践した経済哲学と成功の秘訣。」別に孔子にも、渋谷さんの成功にも興味はないが、「正しい道理」の部分には非常に共感してしまう。

 さて、現代の日本経済における「正しい道理」とは何かを見極めなければこの論法の入口も出口も見えないのですが、言わば、入口と出口ばかりに終始してきたからバランスが崩れたと仮定すれば、この書籍の中に展開されているだろうモノゴトのディテールはひとつのモデルとして成立するのだろう。また、「経済人」の定義についても様々なアプローチが存在すると思うが、もう、日本経済の底が抜けている状態で完全に指針は失っているわけだから、今後、経済との接点を各々で獲得し、バランスを調整したいなら、しっかりと手持ちのコマと自らのポテンシャルを認識下に置く必要があり、そこが、モノゴトのスタートラインなのだと思います。そう考えさせるきっかけになるのではないだろうかという部分でこの書籍の意義・意味・価値があると思います。一応、チェックしたい書籍ですね。

ウッズ、ピンチ!

 あんなタイガー・ウッズはテレビで初めて観た。話題が先行され、石川遼君と同組であることで日本のカメラマンがウッズの組に集中してプレイのさまたげになったとかならなかったとか。まぁまぁ、世界ランク1位のプレイヤーが日本のメディア関係者がちょっとぐらいハードな撮影をしたところで不動だと思うが、あの表情はかなり厳しい印象を受けた。以前にも全英オープンで斜面のブッシュから脱出できずクラブをたたきつける場面を観たが、それは瞬間風速だけだったような気がする。今回はひとつのミスショットを引き摺るような表情が気になった。たぶん、第2日目のプレイを最後まで観れなかったがカットラインはクリアできなかっただろう。ゴルフは怖い。そして、悪天候は怖い。

 で、遼君もひとつのトラブルとイギリスの風と雨と低温に崩れていくシーンが続いた。ほんとにゴルフは怖いスポーツだと思う。しかし、いつもトーナメントの上位にいる選手を観るたびに思うのですが、やはり、無理な力が入っていない自然ないい意味での脱力感が漂い、しかし、集中力は最高レベルという印象を受ける。この状態はいったいどういう状態なのだろう。ゴルフトーナメントにも出場したことがなく、ただのコンペでも上位になったことがないゴルフ一般ユーザーには到底想像がつかない。たぶん、テレビにプレイを見せられるような方の天賦の才能と凄まじい努力などの部分を簡単にスルーして自由なことを感じてしゃべっているから、そんな状態の入口にさえ辿り着けないのでしょう。だから、応援者とし観戦者として好き勝手なことが言えるのでしょう。

 と、同じくして、北海道の大雪山で10名の登山者が死亡した。旅行会社の2泊3日のツアーだったようですが、3日目の行程をスケジュール通りに進めるために、悪天候を十分に考慮せずに山に入ったことが原因でその責任の所在はどこかというお話になっている。そして、こんな事件にセットの専門家の声は夏の山は冬山よりも気持ちが緩むのと装備がライトになることでちょっとした気候の変化で生命の危機に遭遇する危険性が高いとコメントしている。旅行会社の社長も微妙なコメントを言っていましたが、専門家の方に言わせれば、どのよな状況でも山に入るということは「自己責任」の元、行動するのが通念。知識も経験も体力も十分でない人が山に入り結果遭難して命を奪われてもそれはすべて「自己責任」なのだそうです。まぁ、60歳以上の中高年にどこまで「自己責任」があったかは未知数ですが、この登山のプロの方のコメントはとても納得できるし説得力がある。決して、ツアー会社を養護しているコメントには聞こえない。夏山で雨が降り強風が続くと日中の平均気温が8~10度なので、この状況だと本人が自覚している以上に体温・体力が奪われるらしい。そして、今回の10名の死者がこの低体温が死因らしい。ご冥福を祈ります。

 そうか、雪山だけが驚異ではなく、自然の中にポツンと置かれた人間はただの雨と風で生命の危機になるほど弱いのです。う~ん、イギリスの雨と風、そこは山ではなく、リンクスだったかもしれないが、世界ランク第1位の猛者も17歳の天才プレイヤーも大自然にモテアソバレタンダ・・・。

RYO ISHIKAWAというスタイル。

 17歳だから凄いと言いたいところであるし、日本のメディアやスポンサー企業も遼君のゴルフの実力よりもそのルックスや話題性を買っているような部分も多いのではないだろうか。ハニカミ王子なんてどうでもいいことを気付かせるに遼君の場合はそう時間がかけさせなかった。たぶん、17歳だから凄いという存在感もいずれ近いうちにどうでもいいことになってしまうのではないだろうか。昨晩は全英オープンに初出場の寮君の応援をリアルタイムでさせていただいた。

 数々の見せ場、その都度、遼君の表情をカメラが抜くが完全に楽しんでいる。それに引き替え、他の日本人選手のオーラの無さ加減。現場ではもっとその差がリアルなんだろうけど、すでに向こうのメディア関連のカメラさんもそのオーラ加減を見抜き、他の日本人選手の顔があまりテレビの画面に出ることはない。常に下を向いてテンションがあるのかないのか、もう、内に秘め過ぎ。なんでもかんでも内に秘めてりゃいいってもんでもないでしょうし、プロなんだから、もっと表情や仕草で魅せてほしいものです。全英オープンのコースなんて想像もできないぐらいタフなんだろうけど・・・。

 で、遼君はというと、タイガー・ウッズとウエストウッドと同じ組で自分のゴルフをしっかりとやり切った初日だったのではないでしょうか。そして、「-2」って!!!最後の向こうのメディアからのインタビューにあれだけ快活に英語で返答している日本人を過去に見たことありますかって感じ。ほんとに眠気も吹き飛ぶすがすがしさでした。このまま2日目をクリアして、4日間闘ってほしいと心から願うばかり。もしかしたら、日本人で決勝ラウンドに残るのは遼君だけ!?まぁ、そこまで他の日本人選手も情けなくないでしょうから、頑張ってくださいって感じですね。

 遼君のゴルフスタイルを「アグレッシブ」と言っているが、闇雲にどんな状況でも攻めているわけでもない。しっかり、状況を判断して攻めながら守っている印象がある。しかし、決して気持ちの部分で置きにいく姿勢が感じられない。そんなスタイルはいったいどこから来るのだろう。天性という表現だけではいい表せないほどの何か大きな器と強いガッツを感じられる。しかも、湿っていないドライな印象を受ける。これを言わば「スター」と呼ぶのかもしれませんね。他のプロの皆様も凄まじい努力をしておられるのでしょうけれど、結果、結果が異なってくるというなんとも魅力的な逸材なのですね。

芥川賞と直木賞。

 実はここ数年完全に「芥川賞と直木賞」受賞作品をチェックするのをスルーしてきました。以前は比較的アウトラインを確認後ですが、買って読んでいました。日頃読む本の傾向が小説の場合はほとんど日本の小説は読まず、海外のモノに限定され、分野はとりとめなく、SFから各種学術本まで翻訳本を読んでいます。でも、国内の好きな作家以外となるとやはり「芥川賞と直木賞」はチェックしていました。しかし、いつの頃から、これはただの先入観で悪しき固定観念なのかもしれませんが、若い20歳代の女性の作家の方が「芥川賞と直木賞」を受賞されることが多いような印象を受けた。これが、ちょっとひっかかった。作品もまともに読まないでそのことだけをただの「素人のカン」でスルーしていた。

 話がいきなり脱線するのですが、この「素人のカン」の部分で、「カン」とはファジーで抽象的で明確な根拠のない決断・判断の基準というニュアンスがあるのですが、私は何かにつけて自分の「カン」を信頼している。言わば、デザインの専門学校から新卒で入社した若いグラフィックデザイナーにこのパンフレットの表紙のタイトルの文字の色は赤と青、どちらが最適か?と意見を聞く場合、仮のその若いクリエイターが「僕は赤が最適だと思います。その理由は・・・」となっても、その理由にはほとんど説得力がない。学校の課題でどれだけ根拠や理論が確立されていても、現場では意味がなく、逆に学校の理論を得られる人間は現場の理論も瞬時に学び取るので能力的には高いが、理由に「一般的に~」や「このクライアントの場合~」などという根拠の根拠を語ろうものなら、もう、enoughなのである。つまり、説得力のある言葉には確実に経験値や知識からくる根拠や背景が感じられて、語彙が選択され、文脈が整い正しい道理の在る意見になる。これを無視するとそれはただの「音」になってします。しかし、「カン」とは何かと言えば、少なくとも、上記の流れのショートカット版なのである。決して、感覚的に気分的に短絡的に出てきた結論ではないのである。また、答を求めて即答がされず、3日後に上記を整理して出された答と、検証・実証・確証は不十分でも瞬時に出された答。これはどちらも正解なのですが、状況が変化する場合があり、3日後では今現在正解でも不正解になる場合もあるのである。であるなら、結果的に、正解とは「カン」で導き出された答が正しいとなるのである。「そんなぁ~馬鹿なぁ~!」というお話ですが、意外にこのケースは多い。つまり、ヤホーやグーグルを使って時間をかけて説得材料を集めるよりも、書籍を紐解くよりも、今、手持ちの自分の中の総合力(地頭=直観)で答を出し続けるルーティーンが現場では有効に機能する。しかし、材料・資料集めや書籍へのアプローチを怠ると必ず直観は枯れていく。さらに、人と直接会話したりすることが一番脳や五感への刺激になるので、隔離されたスペースでオンラインでカチカチが情報交換だと思っていると、論理は確保できても、道理が崩れる。

 で、やはり、「芥川賞と直木賞」のことは次の機会に・・・。

日経おとなバンド大賞か・・・。

 応募締切は2009年8月29日の「日経おとなバンド大賞2009」の募集広告が新聞に入っていました。これはとても素晴らしい取り組みですね。でもこんな企画は本来のコンセプトを無視してプロの方が参入してきたりすることがあるでしょうから、そこはそこ、皆さん「大人」なんだから子どもたちに手本を見せたいものです。「音楽は夢じゃなて人生だんだ。」と言い切るこのイベントのコンセプトがなかなか的を得ていると思います。これに共鳴する「大人」は多いと思いますし、インターネットでいくら共鳴してもなんかリアリティーがなくモヤモヤしていた方もこれには確かに反応すべき質量があるように感じます。

 このイベントが今後どのような展開と波及を生むのかは気になるところ。しかし、気にしているだけではなく、できるものなら参加したいと心が動いています。昨年はなんと622組の参加があり、総勢3,194名、平均年齢44.5歳の大人が集まったそうです。もう、これは完全に自分自身にとってストライク。45歳のおっさんがこれほど反応することはそう世の中あるもんじゃない。一人でも参加したいが、2名以上がルールです。予選会だけも出場したいな・・・。誰かバントメンバーいないかな・・・。

梅雨明け!?

 今日は琵琶湖湖岸道路を車で走っていても35度あったようです。これは梅雨明けなのでしょうか?とにかく首や腰が弱くなり長い冬が終わると花粉症に悩まされる春になり、そして、ジメジメの梅雨と、たぶん、1年の半分は「あっちが痛い」「こっちが痛い」なのです。しかし、今日のような夏日はほんとに嬉しい。このまま夏になってほしいものです。確かに何をするにも疲れる季節ではありますが、汗が出ると新陳代謝も活発になりますし、ガタガタジメジメしている季節よりは快適を実感できると思っています。これは単に思いこみかもしれませんが、意外と人間の身体は思いこみだけで健康になったり快適さを感じたり単純だと思うのです。夕方など琵琶湖を渡ってくる涼しい風の中でぼぉ~と1時間ぐらいしていたいですが、そうもいきませんから、電話で止まる湖岸道路で窓を開けてしばしのブレイク。これが意外と気持ちいいです。

ストラップソーラーチャージャー

 最近、やはり、こういう時代からか、こういう商品が気になりますね。ソーラー産業がテレビや新聞を見たり読んだりする限りは今後いろいろな場面で推進されるとのこと。他の発電技術とかみ合えばいいのですが・・・。でも、日本国内ではソーラー発電は不向きらしいが、それも、かみ合っていない人の意見かもしれないし・・・。

◎こちらで確認してみてください。

パアフルな実希さん。

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 外苑前のライブハウス。ライブのリハに少しだけお邪魔しました。このライブはMIKI-MUSIC様の発表会を兼ねてのライブイベント。出場メンバーの音合わせに目を光らせている澤村実希さん。適格な指示とメンバーの皆様からの絶大なる信頼感。その風景を一番後ろから拝見しているだけで、その覇気というかエネルギーが伝わってきました。その空気だけ感じられ実希さんにひさびさにお会いできて、という感じで満腹でした。どこからそのエネルギーがわき出てくるのでしょう?この日はイベントが複数重なって頭の中はかなり・・・なはず、なのに、突然連絡させていただいたにも関わらずこのライブハウスまでモバイルで的確にナビしていただきました。切れる方のダンドリ力は凄まじい。かなり慌ただしい空気なのに、私を見つけて少しだけ立ち話をしていただけました。ほんとにありがとうございました。

◎こちらで確認してください。http://miki-music.net/

2個の収穫です。

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 今年は1年越しのカボチャが収穫まで育ってくれました。ちょっと感動です。予定では一株に3~4個の目標だったのですが、やはり、プランタンで育てるには一株1個が限界のようです。地面に植えるのとプランタンに植えるのとでは明らかに栄養や諸条件が足りないのでしょう。が、昨年と品種を変えて栄養分も定期的に与えての2個。嬉しいです。さて、ミニカボチャなので小さい実ですが、ありがたく頂きたいと思っております。

「ROOKIES」という物語

 確かに旬な俳優がこれだけバッチリとはまりにはまった物語はないだろうと思います。原作は読んだのですが、さほど、特筆するテイストは感じられなかった。しかし、テレビドラマから映画の流れは圧巻です。元気のいい若者と野球というこれまたセオリー中のセオリーをここまでの質量に押し上げた俳優陣の能力に心を持っていかれた感覚である。

 いろいろなスポーツがあるが、自分自身にとって「野球」は別格の質量がある。実際、小学生の頃から始めて高校の硬式で甲子園を目指す段階まで20歳になるまでのそのほどんどを「野球」に費やしてきたからである。結果、甲子園の土の上に立つどころか、高校3年でも補欠にさえなれなかったのですが、野球から学んだことがこの年齢になり今もドクドクと心臓に焼きついている感覚はたぶん野球を鑑賞の対象としてしか、もしくは、「野球は楽しい」と感じている多くの野球ファンとは一線を画していると思っています。中学生の頃も野球をやりながら陸上の短距離をしていたものだから、中学3年生で両太腿の筋肉が練習のし過ぎで部分的に硬化してしまい、針治療やマッサージでは結局復活しなかったことがハード的な致命傷であり、ソフト(ハート)の部分では、練習は誰よりも一生懸命にするが、ここ一番の勝負の場面でハートがもろかったことが自分自身でも致命傷だったと思っている。結果、自分には「野球のセンスがなかった」と若い頃は折り合いをつけていたが、年齢を重ねる毎に、結果的にハードの致命傷がハートも崩していたように思っています。それに学び、芸術・デザインの道に進み、同じことを繰り返さぬよう、ハートを鍛えることに貪欲になったような意識がとても強くあります。

 で、「ROOKIES」という物語に出会った。市原君がいい、小出君がいいということ以上に、この時代、野球を描くなら中途半端では困るんですが・・・とチラミした瞬間、この物語のリアリティーにやはり心を持っていかれた。やはり、野球は自分自身にとってただのスポーツではなかったと改めて実感した。

 映画が好調らしいですが、映画館に観に来ている家族づれやテレビ番組のファンといっしょにこの映画を観たいとは思えない。だから、DVDを待ちたいと思っています。夏になると、厳しかった練習の日々が思い出され、あの時の心が少し蘇る感覚がある。高校3年生の時にはもうフルで走ることもできず、後輩たちの練習の手伝いをしていたが、最後まで野球を続けて本当に良かったと思っている。そして、また、夏が来て、甲子園が始まる。大阪で仕事をしていた頃も、仕事の仲間やお客様が「阪神戦を観に行きませんか?」と甲子園に誘っていただいたが、一度も甲子園には行っていない。まだ、あそこに行く気持ちにはなれない。

頭の中の言葉。

 単に語彙を増やせばいいということではないが、確かにPCへの依存度の高い便利な環境下で自分の頭の中にある語彙がコミュニケーションを行う際に適正なスピードでチョイスできない感じはここ最近ある。これが「記憶力がなくなった。」とか「ボキャブラリーが減った。」などとテレビで展開されるブレインネタを鵜呑みにしてブルーになることは簡単ですが、そんなに頭の中は単純ではない。語彙のチョイスがぶれると文脈がぶれ、結果、伝えたいことが伝わらず澱が貯まる。これを繰り返していると自分の中の伝える力が落ちてきているように感じられ委縮が委縮を生み負のルーティーンから抜け出せなくなる。これが一番怖い。文字を書かなくなったり、PCを介してのコミュニケーションの依存度が高くなるとこのルーティーンが加速していくのでしょう。デザインの仕事も私の場合、最初の頃(20年前)はMacもなくワープロもボチボチな状態だったので、キーボードで作る書類はすでに頭の中や構想しているメモを清書する道具でしかなかった。デザインについても、構想はスケッチブックや紙のうらに手書きしレイアウトシートも写植や写真のトリミングを配置するための設計図を完成してから、仕上げるためにPCとソフトウエアを活用していた。そして、この流れが進化しDTPという言葉が生まれ現在に至っている。この間に何が変化したかとなると、明らかに考えやアイディアをアウトプットする作業とオペレイトする作業が混在してしまう結果になった。よほど企画構想の部分が自分のスタイルとして確立している人はこれでもクリエイトは成立するが、いきなりPCで考えをまとめるというのは、何かをクリエイトするための一番大切なプロセスを無視した行程になるために、モノは仕上がるが「仕上がる」だけになる。このことは別に意識しなければ、アイディアや構想のプロセスが欠落しているとは意識されないので、「仕上がればいい。」だけのデザイン・クリエイションになり、結果、仕上がったものは「デザイン」でも、「クエイエション」でもない、それによく似たモノになる。これは、語彙が頭の中にあるかないかの問題と深く関係しているように感じる。

 で、メモをとる、辞書を引く、書籍を読むというインプット作業と何かを伝えようと説明している時に客観的に自分自身が見えているのか?や、比喩の応用などただ単にボキャブラリーの羅列ではないアウトプット作業の合わせ技のレベルが実際どうなのかと意識することで、結果、表現力が高まりリズムが良くなりコミュニケーションが円滑になる。芸能人のブログにアクセスが集まるのは時代の産物としてメディアの一進化系としてそれでいいが、デザインやWEBの仕事に関わらず、道具を道具として活用するために、使い手の意識は昔も今もこれからもぶれてはいけない軸のように思います。

 けっして、語彙が豊富でも専門的な知識が適正値でもないのですが、自分自身の駒はしっかりと確かめてコミュニケーションの際にはいいリズムのチョイスをしたいと思っております。一番単純な会話として「・・・を知ってる?」って聞かれた時に、どれぐらいのスピードでYES NOの返答ができ、YESのディテール、NOのディテールがコミュニケーションの軸にしっかりと絡められているかを意識したいとは常々キモに銘じている今日この頃です。インプットとアウトプットのルーティーンは反復することで表現力が高まり応用力が高まります。たぶん、デザインとかクリエイティブの仕事はそのさらに先にあるボールを投げて受けての繰り返しですから、やはり、何より地肩は強いほうがいいですよね。

WEBだから・・・。

 海外の方に言わせれば日本の「流行り廃り」のサイクルは世界一らしい。これが誇れることなのかそうでないことなのかはさて置き、厳しい景気のこの時代、「お値打ち」という語感から得られる情報の本質は「安いけれど品質はそこそこ」のような捉え方でいます。また、「薄利多売」なんて四文字熟語もよくPののぼりや中古Sの店頭で見かけることが多いのですが、これは、どういう語感かと言うと「ウチは儲けをぎりぎりまで切り詰めてより多くのお客様に喜んでいただくための企業努力を惜しんではいません。だから、一度、ウチの商品をご覧いただき~ベラベラベラ」となる。が、利益は求めつつも、たくさん売りたいなら、別に薄い利益を強調しなくともいいのに、不思議なこの国ではこれが簡単に通用してしまう言語伝達効果が機能してしまう。これが悲しのか悲しくないのかもさて置き、「WEB限定特価商品」と聞いて高いと感じる人はいないぐらい、「WEBで買う=店で買うより安い」という価値観になっているのは何故だろう?流通コストや取引コストが少ないから安くできる!?と通念で考えればそうかもしれないが、店よりも確かにいろいろなコストが付加されないことは理解できますが、逆に別のコストや条件が必要になってくるわけで、WEBは玉手箱でない以上、WEBだから安いと定着させてしまった発端がとても気になります。逆にWEBだから高いがそこらへんのお店で売っていないですよぉ~というアプローチをすれば、逆転の発想になるような気がするのですが。それは、みんなで注文するから怖くない国の人々の社会心理がグイグイ機能しているように思います。

 モバイルならまだしも、PCで何かを購入するのは、PCで何かを販売するというのは、そろそろ定着してきたのだから、安いものは安い、高いものは高いでいいのではないでしょうか。

 で、何かを買う時も売る時もそうですが、時代はより整理されてきています。いろいろな意味で。だから、もっと、落ち着いてゆったりと吟味して検証してから、トゥース!でいいのではないでしょうか、春日さんのように。あの人は名実ともにモノホンの倹約家であってほしい。そこに「テレビ用」だけはあってほしくないと願うオードリーファンの独り言でした。

火の元 にらめっ子!?

 長浜の消防署のヘッダーに啓示してあった火の用心の現在の標語はこうなっている。「消えるまで ゆっくり火の元 にらめっ子」。そのまま何もひっかからず通り過ぎればいいのですが、どうも、その前を車で走り過ぎても何かモヤモヤしている感じ。生粋のツッコミ型人間なので、このモヤモヤは何故だろうと考えていました。まぁ、考えるまでもなく、「にらめっ子」の「子」がうまいのか???なのかがモヤモヤとひっかかる。ツッコミでいえば「にらめっ子」ってなんやねん!!!でいいのですが、この作者のニュアンスでいくと「大人の火の不始末をゆくりっと見ていてね子どもたち」というニュアンスになり、引いては子どもの頃から火の管理はしっかりしましょうね!というメッセージが込められているということになり、さらに言えば、だらしない大人は自分の火の始末もろくにできないので、次の世代の君たちが見守ってあげてくださいね。ということへの解釈にも発展してしまう。

 で、でも、「にらめっこ」でいいのではないだろうか。ただの独り言ですが・・・。

PLUTO最終巻。

 最終巻を読みました。なるほどという結末。「憎しみからは何も生まれない。」このメッセージがどれだけリアリティーがあるのかを浦沢さんはここまで「PLUTO」という作品で高められた。高さが難解にならないマンガという手法で小説のように論文のように学術書のように。それは、つまり、手塚治虫氏からの譲り受けられた大切なスピリッツなのだと思います。人間は素晴らしいのか愚かなのか?戦いの向こうにお花畑は咲き乱れるのか?非常に非常に感じがいのある作品でした。

 この作品のことを教えてくれたI氏にまずは感謝。

2日間、雨の東京・・・。

 結局、2日間雨でした。2日間で早稲田、恵比寿、外苑前、西巣鴨、青山、原宿、市ヶ谷、御成門と何回地下鉄と山手に乗ったことだろう・・・。しかも雨で、蒸し暑いし。でもでも、東京の空気感は心から仕事モードになれるというか、昔、このデザイン仕事を始めた最初の場所なので、あの頃のテンションやモチベーションが蘇る感じでとても心地よかったですね。お時間を作っていただいた皆様本当にありがとうございました。また、改めて「例の品」や「例のモノ」を滋賀から送らせていただきます。非常に密度の高い2日でした。ここで生活するのはもうenough(お腹いっぱい)ですが、仕事で行くには素敵な場所「東京city」です。

 で、30分も余裕がなかったので、お茶の水の中古楽器店や神保町の古本屋街や秋葉のPC系や中野や高円寺をぶらぶらできなかったのが少し残念でした。

雨、降るな。

 8時頃の新幹線で東京へ。雨降るなよ。

あらためてデザインとは?

 昨日、あるお客様のところでWEBサイトや店内のPOPの内省化に取り組んでおられるスタッフの皆様に本当に僭越ではあるのですが、「デザイン力について」お話させていただく機会を頂いた。初めてお会いする方ばかりだったので、どのような環境でどのような業務に携わっておられるのかはその場でヒアリングさせていただきながらのご説明となってしまった。皆様、通常の業務の手を止めてということだったので、可能な限り、現状のお話の詳細と改善点や目標についてお聞きした上で、具体的にどのように日々の仕事の中で「デザインする。」ということを意識下に置いていただいたらいいかなどについて2時間ほどお話させていただいた。一方的に専門的なお話に偏っても生産的な建設的な時間にはならないと思ったので、現在、皆様が取り組んでおられる制作物などを拝見しながら、改良点やデザイン性を上げるということの具体的な背景や狙いをご説明させていただいた。

 皆様、2時間、とても集中してお聞きいただいたので、かなり余計なこともお話してしまったかもしれないのですが、最後の段階で、専門的な知識が少なくとも、経験値が浅くとも、まずはこの部分だけを注意しながら意識しながら毎日のWEB画面の更新や店内POPの制作に取り組んでくださいということをまとめさせて頂き、あとは、一般的なソフトウエアのお話やデータ管理のお話やWEBサイトの企画・運営のお話を時間枠の中で盛り込ませていただいた。

 さて、スタッフの皆様に対して有益な時間だったのか、今後の仕事への取り組みに対して何かモチベーションのモノサシになるようなことが言えたのだろうかと振り返りながらその場をあとにした。また、今後もこれを機会に「デザインのこと」「WEBのこと」「ソフトやハードのこと」などなど、質問があれば気軽に問い合わせてくださいということで失礼した。

 こうして、改めて「デザイン」や「WEB」や「クリエイティブ」についてお話をする機会をいただくたびに思うことは誰かからの疑問や質問にお答えしたり、テーマにそって説明させていただくということは、自分自身にとっても再確認・再認識の意味があるということ。決して日頃取り組んでいない意識していないことは言葉にでないので、日頃の考えていることを常に整理しておく必要があると感じた。それは部分的にこのブログでやってはいるが、10分程度、キーボードに向かう程度で考えていることや感じたことが全て書きだせるはずもなく、日々、忘れていくことも多いので、このような機会はとても嬉しい。

 で、あらためて「デザイン」という概念の大きさを痛感した2時間でした。

日本のサイクル。

 日本のサイクルは何かにつけて無意味に早いらしい。なぜそんなに急ぐのだろうか・・・みたいな感じじゃないの?それがどうしても効果的な展開力があるというニュアンスにならないところが辛いのではないでしょうか。これはただの抽象論なので、具体性に欠ける、非常に欠ける直観以上の妄想かもしれないのですが、そんな感じがしませんか?

 というのは、若干、海外にメルトモや知り合いや友人がいるので、その皆様といろいろ情報交換していると、考え方のボリュームが大きくゆったりとして余裕がある印象を受けるのです(たぶん、それは、私自身がセカセカし過ぎ・・・)。だからというわけではないのですが、いろいろな情報のディテールを貪欲に集めていると、どうも、ジパングはおかしいような。たぶん、これもそいういう流れの一部しか見ずに感じてしまっている非常に部分的な印象なのかもしれませんが。

 で、WEBが世界を網羅しているといいますが、そうも思えない。よくよく吟味すれば、都合のいい情報だけが飽和しているように思え、情報のその向こうにあるディテールやマテリアルやフィーリングやテイストなどは決してWEBの中には存在しない。だから、簡単に飽和させることが可能なのかもしれない。この広い地球上でそれが例え「情報」という抽象的な概念であったとしても、飽和するなんて不可能ですものね。となると、これらも仮説に過ぎないような。

 逆説的に「日本のサイクルは変?」と仮定した場合、いろいろなことのつじつまが合い始めるのは何故だろう?デザインという仕事上、情報も含めてアイディアやチップスやディテールやマテリアルやフィーリングやテイストやストレスやサティスファクションなどを組み合わせていかなければいけないので、ベースをどこに設定するかしっかり土台を吟味する必要があると思っております。

「Microsoft Office 2008」のデザイン観。

 必然的にその機能もさることながら比較するとすれば「ADOBE」との比較になってしまうのですが、オフィスシリーズの恩恵をこれまでデザインやWEBの仕事をして直接受けてこなかった、というか、それ本体で仕事のオペレイトをしたことは非常に少ないからかもしれないのですが、という意味で恩恵が直接少なかったという印象なのです。ただ、同じ、ビジネスソフトとクリエイティブソフトとして比較した場合に、パッケージ、ロゴデザイン、そして、本体の様々なインターフェイス(画面)などを比較すると、一方的に「Microsoft Office 2008」のデザイン観はひどい。苦しいとか難しいとか厳しいとかという相対的な間接的な批評ではなく、完全にひどい。というかクオリティーが低すぎる。ソフトウエアなんて作るのにどれだけ大変か知りもしないでレベルでも、「Microsoft Office 2008」のデザイン観は悪い。さらに言えば嫌いである。何が気になるというわけでもなく、坊主と袈裟の関係ぐらいに嫌いである。部分的に部位を上げればキリがないし、使う立場の人間を仮定したとしてもこれで満足な人っているのか???レベルの酷さである。

 で、さらに、非常に使い辛いインターフェイスである。何故だろうとも考える気にもなれない。新しくなって機能とインターフェイスが良くなるはずなのに・・・。これでいいのか?マイクロソフト???って感じである。だから、あまり新しいオフィスを開けたくないし、「データを開く。」ため以外のツールとしては使いたくない。かなりのユーザーがおられるはずですが、その部分は気にならないのだろうか???

 に比べて、やはり、アドビさんは凄いですね。機能面もデザイン面もスキがない。

 と、最終的にソフトでもハードでもファンの心理は恐ろしいと思いますよ。

支持率と視聴率。

 「支持率」とは内閣への国民の期待度を示す数値であり、「視聴率」とは各テレビ局のプログラムがどれだけユーザーに見られているかを示す数値であるが、そのリサーチ方法とはどれだけ信憑性があるのだろうか?人間はとにかく物理定数に弱い。「12.8%」と言われて、もしかして12.7%じゃないの?と疑問を抱く人は少ない。そもそも物理定数を信じるのか信じないのかという議論はさて置き、これほどまでに一喜一憂する「支持率」と「視聴率」の錬金術(存在するとして)は誰がどのように管理しているのでしょう?その背景について興味がないし、関係もない(なくはないのですが・・・)ので、「へぇ~そうなんだ。上がったんだ、下がったんだ。」レベルの認識しかないのですが、毎日毎日、テレビや新聞で数字を仮定されると、さすがに興味がなくとも、頭の片隅に残る。この残!?感は何だろう???

 街頭で安易な文脈を恥ずかしくもなくスピーカーから流している演説の文脈には信頼とか不審とかというレベルではなく滑稽な###の王様以下のリアクションしか自分の中からは出てこない。でも、テレビや新聞で支持率XX%と知ると、ああ、そうんなんだ、けっこうある方なんだと、何の基準値も持たないくせに軽く反応している感覚が実はとても怖いような気がします。

 視聴率も実際はどうなんだろう?テレビ関係の人達はこれが全てだとよく言っているが、「全て」ってどこからどこまでを指して全てなんだろう。その方面の教育も受けていはいないし、情報も極端に少ないので、ああ、全てなんだぁ~と思うレベルで毎日スイッチを入れている。メディアの改革が進み、テレビなどの4大メディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌だったような)ばなれが久しいと専門誌やいろいろなメルマガで読むがそれもどこまで離れたら「離れた」とするのだろう?離れたと思っていいのだろうか?そのモノサシも見たことはない。でも、「4大メディアが危ない!」と書いてあると、ああ、危ないんだぁ~と緩く思って、じゃぁ、インターネットを中心にPCやモバイル端末やCATVや衛星放送などのレアフィールドが本丸に置き換わる時代が来るのかなぁ~とこれも緩く感じてしまう。

 で、いずれも、突き詰めないから緩い現実を打破できないのですが、緩い状態で「そこそこ」ならそれでいいという満足感が実はその全ての要因なのでしょう。いつの日かその「そこそこ」「ボチボチ」が成立しなくなったらそれこそ尻の火を消すために、真剣に一喜一憂するのでしょう。

 昨晩、テレビで片腕の剣士(剣道)が大きな大会で身長差20cm、体重差も大きな猛者と戦い、その相手に一本を左手一本で入れる瞬間の映像を観た。「片腕で剣道」。ハンデを感じさせないその戦いぶりに心が熱くなると同時に生きる上で一番大切なモノが見えたような気がしました。不屈の精神力とは簡単に言葉で言えますが、絶対に諦めない強い心はそう簡単に自分の中には入ってきません。彼が初めて片腕で竹刀を構えた時の心の震える音はいったいどんな音だったのだろう?巨体の猛者から大きな大会で一本を獲った時の心の叫び声はいったいどんな声だったのだろう?

 どう思われているか?どれだけ見られているか?は社会の中のメディアとしてコミュニティー文化として必要な指標ですが、そればかりそれだけを気にして、自分の中の「音」や「声」を無視したり黙殺したりしないようにしなければ・・・。

木を植える男。

 仕事をしながら休みの日や空いた時間に日本各地の山などに一本一本木を植えている方がいるらしい。大きな財団でも企業でも公的な施設の方でもなく、あくまでも一個人のお話。植樹作業は時間もコストも必要なので毎日の生活はできるだけ切り詰めて一本一本木を植えることに使命感を持ち自分の足で全国に木の苗を植えておられる。

 このアクションについて思うことはテレビのコメントも言っていましたが、一番何より「確実」だということである。エネルギーを使い放題の会議室で二酸化炭素の排出量をどれぐらにするのかしないのかに費やされている時間、なんとか党の演説車がうそか本当かわからない文脈を大切なガソリンを使って垂れ流している行為、国民の税金を国民の税金をと言いながら椅子に座って議論こそが正義と勘違いしている役職の存在。これらの皆様がご自分の所得でご自分の両手に抱えることができるだけの木の苗を抱えて山に一本一本木を植えた方が地球との共生ってもんでしょう。乱暴な文脈かもしれませんが、この木の苗を植えている方の言葉と勘違いしている方の言葉、どちがら質量がありますか?というモノサシで地球のことを考えたら答は出ているように思います。

 もう、底が抜けたダンボールのような国であることは誰もうすうす感づいています。上なのか別室なのか分りませんが部屋に集まってひそひそ話は止めましょうよって感じです。そんな「政治ごっこ」で日本が変わるのかな・・・。アメリカの破綻と日本の経済、深い関係が因縁がなれあい感があることは現実として受け止めた上、ひとりひとりが一歩一歩何かしなければ、抜けた底は補えないような気がしています。非常に漠然とした概念・通念・観念かもしれませんが。

 で、微々たるアクションかもしれませんが、私自身は自宅の庭にスペースがあれば、栗の木を植えたり果実の木を植えたり野菜を作ったりしています。でも、それは、地球のことも考えてですが、その目的とは別に鑑賞してとか実が生ったら嬉しいとかレベルの目的でやっています。でも、大志を抱き過ぎて机の上の議論で満足するよりも自分のできる目標で目的でぶれていないことを続けていくことが大切だと思うのです。そんなことを考えていたものですから、この「木を植える男」のお話をテレビで観た時にちょっとグイグイときました。