頭の中の言葉。

 単に語彙を増やせばいいということではないが、確かにPCへの依存度の高い便利な環境下で自分の頭の中にある語彙がコミュニケーションを行う際に適正なスピードでチョイスできない感じはここ最近ある。これが「記憶力がなくなった。」とか「ボキャブラリーが減った。」などとテレビで展開されるブレインネタを鵜呑みにしてブルーになることは簡単ですが、そんなに頭の中は単純ではない。語彙のチョイスがぶれると文脈がぶれ、結果、伝えたいことが伝わらず澱が貯まる。これを繰り返していると自分の中の伝える力が落ちてきているように感じられ委縮が委縮を生み負のルーティーンから抜け出せなくなる。これが一番怖い。文字を書かなくなったり、PCを介してのコミュニケーションの依存度が高くなるとこのルーティーンが加速していくのでしょう。デザインの仕事も私の場合、最初の頃(20年前)はMacもなくワープロもボチボチな状態だったので、キーボードで作る書類はすでに頭の中や構想しているメモを清書する道具でしかなかった。デザインについても、構想はスケッチブックや紙のうらに手書きしレイアウトシートも写植や写真のトリミングを配置するための設計図を完成してから、仕上げるためにPCとソフトウエアを活用していた。そして、この流れが進化しDTPという言葉が生まれ現在に至っている。この間に何が変化したかとなると、明らかに考えやアイディアをアウトプットする作業とオペレイトする作業が混在してしまう結果になった。よほど企画構想の部分が自分のスタイルとして確立している人はこれでもクリエイトは成立するが、いきなりPCで考えをまとめるというのは、何かをクリエイトするための一番大切なプロセスを無視した行程になるために、モノは仕上がるが「仕上がる」だけになる。このことは別に意識しなければ、アイディアや構想のプロセスが欠落しているとは意識されないので、「仕上がればいい。」だけのデザイン・クリエイションになり、結果、仕上がったものは「デザイン」でも、「クエイエション」でもない、それによく似たモノになる。これは、語彙が頭の中にあるかないかの問題と深く関係しているように感じる。

 で、メモをとる、辞書を引く、書籍を読むというインプット作業と何かを伝えようと説明している時に客観的に自分自身が見えているのか?や、比喩の応用などただ単にボキャブラリーの羅列ではないアウトプット作業の合わせ技のレベルが実際どうなのかと意識することで、結果、表現力が高まりリズムが良くなりコミュニケーションが円滑になる。芸能人のブログにアクセスが集まるのは時代の産物としてメディアの一進化系としてそれでいいが、デザインやWEBの仕事に関わらず、道具を道具として活用するために、使い手の意識は昔も今もこれからもぶれてはいけない軸のように思います。

 けっして、語彙が豊富でも専門的な知識が適正値でもないのですが、自分自身の駒はしっかりと確かめてコミュニケーションの際にはいいリズムのチョイスをしたいと思っております。一番単純な会話として「・・・を知ってる?」って聞かれた時に、どれぐらいのスピードでYES NOの返答ができ、YESのディテール、NOのディテールがコミュニケーションの軸にしっかりと絡められているかを意識したいとは常々キモに銘じている今日この頃です。インプットとアウトプットのルーティーンは反復することで表現力が高まり応用力が高まります。たぶん、デザインとかクリエイティブの仕事はそのさらに先にあるボールを投げて受けての繰り返しですから、やはり、何より地肩は強いほうがいいですよね。