芥川賞と直木賞。

 実はここ数年完全に「芥川賞と直木賞」受賞作品をチェックするのをスルーしてきました。以前は比較的アウトラインを確認後ですが、買って読んでいました。日頃読む本の傾向が小説の場合はほとんど日本の小説は読まず、海外のモノに限定され、分野はとりとめなく、SFから各種学術本まで翻訳本を読んでいます。でも、国内の好きな作家以外となるとやはり「芥川賞と直木賞」はチェックしていました。しかし、いつの頃から、これはただの先入観で悪しき固定観念なのかもしれませんが、若い20歳代の女性の作家の方が「芥川賞と直木賞」を受賞されることが多いような印象を受けた。これが、ちょっとひっかかった。作品もまともに読まないでそのことだけをただの「素人のカン」でスルーしていた。

 話がいきなり脱線するのですが、この「素人のカン」の部分で、「カン」とはファジーで抽象的で明確な根拠のない決断・判断の基準というニュアンスがあるのですが、私は何かにつけて自分の「カン」を信頼している。言わば、デザインの専門学校から新卒で入社した若いグラフィックデザイナーにこのパンフレットの表紙のタイトルの文字の色は赤と青、どちらが最適か?と意見を聞く場合、仮のその若いクリエイターが「僕は赤が最適だと思います。その理由は・・・」となっても、その理由にはほとんど説得力がない。学校の課題でどれだけ根拠や理論が確立されていても、現場では意味がなく、逆に学校の理論を得られる人間は現場の理論も瞬時に学び取るので能力的には高いが、理由に「一般的に~」や「このクライアントの場合~」などという根拠の根拠を語ろうものなら、もう、enoughなのである。つまり、説得力のある言葉には確実に経験値や知識からくる根拠や背景が感じられて、語彙が選択され、文脈が整い正しい道理の在る意見になる。これを無視するとそれはただの「音」になってします。しかし、「カン」とは何かと言えば、少なくとも、上記の流れのショートカット版なのである。決して、感覚的に気分的に短絡的に出てきた結論ではないのである。また、答を求めて即答がされず、3日後に上記を整理して出された答と、検証・実証・確証は不十分でも瞬時に出された答。これはどちらも正解なのですが、状況が変化する場合があり、3日後では今現在正解でも不正解になる場合もあるのである。であるなら、結果的に、正解とは「カン」で導き出された答が正しいとなるのである。「そんなぁ~馬鹿なぁ~!」というお話ですが、意外にこのケースは多い。つまり、ヤホーやグーグルを使って時間をかけて説得材料を集めるよりも、書籍を紐解くよりも、今、手持ちの自分の中の総合力(地頭=直観)で答を出し続けるルーティーンが現場では有効に機能する。しかし、材料・資料集めや書籍へのアプローチを怠ると必ず直観は枯れていく。さらに、人と直接会話したりすることが一番脳や五感への刺激になるので、隔離されたスペースでオンラインでカチカチが情報交換だと思っていると、論理は確保できても、道理が崩れる。

 で、やはり、「芥川賞と直木賞」のことは次の機会に・・・。