絵を残すということ。

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 日経新聞より抜粋~「小磯は何人ものモデルを描くより気に入ったモデルを何回も描いた。口数は極端に少なく、神経の多くは、とりわけ顔を描くのに費やされた。着物の柄や背景は省略しても、顔はどこまでも執着した。気に入った顔を描くこと自体に最大の興味があった。小磯が信徒として所属した神戸教会の元牧師、岩井健作は小磯との初対面を思い起こす。牧師として神戸へ赴任し、小磯宅を夫婦で訪問した。応接室で70代半ばの小磯はあいさつもせず無言のまま岩井夫人を凝視する。頭頂部からあご先へ、視線は熱すら帯びていたように思う。「ようこそいらっしゃいました」と、小磯が穏やかな表情を見せるまでほんの3秒ほど。張り詰めた空気が何倍もの長さに思わせた。描きたい顔のイメージは明確だった。額が広く、髪の生え際が整っている。目元は涼しげ。ややうりざね顔。色白で着物がよく似合う。何より清楚な印象。髪は後ろで一つに束ねているのが良い。パーマをかけたモデルを2度と呼ばなかったこともある。「T嬢の像」以降、何かをひたすら追い求めるかのように、こうした趣味は変わらなかった。女優なら八千草薫、富士真奈美、出たてのころの沢口靖子。気に入らない顔の女性は描かなかった。60年、実際に八千草を描いた「婦人像」。「映画の撮影日だったと思います」。八千草は懐かしそうに思い出す。東京・成城のスタジオを抜け出し、神奈川県の逗子にあった小磯のアトリエへ。作品は半日で完成した。伏し目がちだが、きりっと結んだ眉。奥ゆかしさと芯の強さを同時に感じさせる。これは八千草が多くの映画で演じた、一途で健気な日本女性そのものだ。八千草は大阪出身。同じ関西人でも無口の小磯とは、期待したほど会話も盛り上がらないままアトリエを辞した。すでに高名だった小磯を前に緊張もした。後日、小磯から連絡が。「もう一枚、あなたのために描いて差し上げます」。今度は小磯が世田谷の八千草宅へ。洋装の八千草は前回よりかなりリラックスし、画中の人となった。作品を残し、小磯はそそくさと去る。描かれたのは、心持ち正面からとえた穏やかな表情。なぜ小磯はわざわざ2枚目を描きたかったのかと問うと、八千草は意味ありげにくすりと笑った。1枚目はいわば女優としての八千草薫。「2枚目が本当の自分だと思います」と話す彼女は今も自宅の居間にこの作品を飾っている。
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 画家が人の本質を描くのか、描いた本質に人が気づかされるのか。考えたくなる深みが小磯の人物画にはある。岩井の知る実業家が長年の念願かない、晩年の小磯の肖像画を描いてもらったことがある。だが完成した作品が実業家はどうも気に入らない。「画家が見たあなたの顔はこれですよ」とだけ小磯は言った。「そんなものか」と、岩井は思った。数年後、実業家は亡くなった。小磯はすでに世を去っていた。牧師として駆けつけた岩井は死の床で実業家の顔を見た。死に顔に虚飾は無い。「あの絵の顔だ」。岩井は驚き、死者のために祈った。」とある。

 絵は自分自身にとって特別の存在である。それはたぶん物心がついた時にすでに心の中心に存在していたと思う。学校の図工の時間以外にも絵は自分にとって特別の存在だった。絵を志し絵の道の途中で小磯良平氏の絵に出会うが、その瞬間の記憶はとても鮮明である。どうも、日本の教育現場の美術に対する考え方は飲みめない味がする。が、飲み込まないと美術ではないと教えられるがそのセオリーは飲みこめなかった。が、芸大の頃、小磯良平氏の絵を見た瞬間、素直に心の口にその作品は入れることができた。というより、入れる入れないの感覚ではなく、心の一番真ん中に居座ってしまった。それから、日本の歴代の画家、新進気鋭の画家、いろいろ観てきたが、どれもNG。そして、今でも小磯良平氏の絵は心の真ん中の部屋に居座っている。つまり、絵とはそういうモノであるべきであると思っている。

 顔に集中する気持ち、画家が目に力を求める気持ち、女性象に対するこだわりが自分の中にある絵を具現化する気持ち。すべて何の淀みもなく分かる気がしている。画家がどのようなケースであれ絵を残すということは概念として、蛇が殻を残すのでもなく、女性が子を残すのでもなく、天才たちが歴史を残すのでもないような気がします。画家はその時、自分の中にあった時間を残すのだと思います。「自分の中にあった時間」を意識化することは至難の業ではないが、ようやく、40歳を超えたあたりから自分にとっての「時間」の意味が少しづつ分かってきたような気がする。その時、一番身近にあったものがやはり「絵」だった。この感覚はたぶんデジタル技術には踏み込めない永遠の人の心の中にある聖地のような気がします。

 久々に、小磯良平氏の作品を観て思うことでした。

 この部分のディテールをもしインターネットが昇華できたならデジタル文化はアナログ文化と少しづつ融合していくことができるでしょう。適正に間引かれたデジタル言語の谷の部分に人間の感覚が反応していることに気がつけば何かが大きく変わるような気がします。ロジックな方程式の余りの部分に実は真理が含まれていると知るような気がします。「残す」ということ、「残る」ということの山と山の間にある谷の部分です。高い山には意義があるが、谷を流れる川にこそ・・・みたいな。