すべらない話の条件。

 話術とはひとつの技術でありすべる・すべらないはその技術の優劣が「笑い」という結果へと導くレベルを左右する。ほんとうに「すべらない」ために必要な条件は何だろうといつも「すべらない話」をテレビやDVDで観ながら考える。が、演者の技量が上がれば上がるほどその見方ができなくなり、話の内容に引き込まれ技術のことやレベルのことなど関係なくただ「笑える」のである。歴代のチャンピオンがテーブルを囲みダイスがふられる。演者を決めるのはダイス。なんとスマートな手法だろうか。過去にこのステージでグズグズになってしまった演者も数名おられたがそれはこの場所の意味をよくよく理解してここで何をしなければいけないかということと、自分の技量への不安がプレッシャーになり、話を組みたてられずにアドリブも装飾できずに沈没していくパターン。落語や漫談などもカテゴ的にはこの手法と同じかもしれないが、そちらは、見るサイドもすでに心の中にこの演者がここに座り題目はこれだからたぶんこの流れでオチに向かうというパターンやシナリオが読めているという条件下で、あくまでも、ステージで演じる方の表現力を楽しんでいるだけという見方もある。つまり、松っちゃんの「すべらない話」の秀逸な部分はそれがダイスという乱数の上で演者を決め、演者は何を話してもいいという条件下で、ただ、自らのネタと話の構成力と表現力で「すべらない話」をアウトプットするという醍醐味が素晴らしい。このドキドキな感じは想定内の部分と想定外の微妙なニュアンスがあって成立する微妙なバランスなのである。

 つまり、「ワクワク・ドキドキ」など予め用意はできるないが結論であり、それを論理や方法論で考えている段階でもうそれは「ワクワク・ドキドキ」とは無縁の産物であり、「ワクワク・ドキドキもどき」なのである。これが感受性の高いターゲットに対して、古いステレオタイプの人間達が何をどう思考しようが、リアリティーの欠片もなく、結論で言えば、表現とフレームを用意したら、あとはダイスに任せられるぐらいの器がなければ非常に非生産的なアンクリエイティブな代物にしか仕上がるはずがないのである。机の上でパソコンの前で何をどう思考しようがそれはただの打痕。

 それらのことが今この日本で起きているから、政治も教育も文化もすべっているのである。自分のポテンシャルのなさを枠で囲みはみ出ることを恐れ箱庭で確実に育てられる野菜だけを育てて何かを成し遂げたと思いたいだけなのである。本末転倒が3回ほどその場で子犬のように回っているイメージ。何何はこうあるべきでしょう!などと声を高める人に限り、手持ちのコマが貧弱な証拠。年齢や地位はあるのに完全にすべっている。

 それに比べ、このすべらない話に登場している演者の皆様の覚悟と日頃の情報収集能力たるや凄まじい努力量である。しかし、この場合それは「努力」ではないかもしれない。努力というメガネでインプットされたふるまいはアウトプットする時も同じ体裁で外に出るという法則があるからである。つまり、「笑い」という本能のベクトルで感覚的にインプットされたふるまい・万物でなければ、「笑い」というカタチでアウトプットされない自分の中の等価交換の法則があるように感じます。だから、政治家も教育者も推して知るべしなのである。不適切なコミュニケーションをしてくる人に対して、一番最初に感じることはその語彙のチョイスの貧弱さとボキャブラリーレベルの安直さではなく、その方の歴史の貧弱さと安直さを感じてしまう。これは自分に置き換えても同じことが言えるのでその緊張感は常に意識を努力している。コミュニケーション上、貧弱なボキャブラリーの方は間違いなくその方のポテンシャルの低さも関連しているが、一番近くにいた方からの信号が低かったのである。それが両親なのか恩師なのか特定はできないが、一番思うことは「ああ、この方の人生にはいい出会いがなかったのか・・・」と直感で感じてしまいます。しかし、その逆の場面も非常に多く、素晴らしいエネルギーとバイタリティーを保持している人の言葉は強い。全く揺るがない。そして何かを燃やせるほど熱量がある。そういう方とのコミュニケーションはほんとに心地よくこころからドキドキ・ワクワクする。ただの言葉として「ワクワク・ドキドキ」を考察・分析しようとしている輩とは対極にいる人達である。

 つまり、見えてない人では何も伝えられないし何も伝わらないのである。そんな残念な人も多いのが世の常でもある。つまり、つまりの部分で結果的に兵藤さんはそのベクトルの最高峰なのである。