2010年02月 アーカイブ

まずは皆様へ。

 まずは、2日間とも雨の東京となってしまいましたが、お時間を作っていただいた皆様本当にありがとうございました。それぞれの場面でいろいろお話を聞かせて頂きメールや電話では絶対に交換できない熱量とディテールを本当にたくさん頂きました。ありがとうございました。まずは、このブログにてお礼を申し上げます。それぞれの皆様には改めてダイレクトにご連絡を差し上げ、お話させていただいたことへの私からの反芻後のレスを投げさせていただきたいと現在も反芻中です。しっかり純化ししっかり整理して投げさせていただきたいと考えております。

 特に、TOTOさん、二人で歩いた午前3時の渋谷駅前はとてもインパクトがありました。あの感じ、絶対に忘れないでしょう。キヨシさんの言葉のリアリティーがその場を歩けたからこそググッときました。それに雰囲気満点のブレランのような雨、密やかに群れる若者、濡れた段ボールの中で眠る人たち。どこからかプリスが現れそうでしたね。白い鳩はいませんでしたが・・・。

 皆様、本当にありがとうございました。

東京の風景#004

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 何故か、新しいのか古いのか判断つかない建物が今日は気になりました。青山に向かう表参道にて。ちょっと今日も雨がポツリポツリ。

東京の風景#003

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 原宿表参道の気になったディスプレイ。ふ~ん、東京だからって気合が入っているガチガチ系だけではないんだなぁ~と、ふと、見上げてしまいました。

東京の風景#002

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 金曜日の夜は小雨。昔仕事終わりでぶらっていた頃の南新宿とは様変わり。東京はやはり日本で一番早いスピードで動いている街なんだろう。見上げる繭のようなビル。

東京の風景#001

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 新宿午後6時頃、凄まじい書籍を保有している書店でリサーチ3時間。ちょっといっぷく。東京は歩行禁煙がかなり禁止されている。どこもかしこもステレオタイプな国。

ホルモンか・・・。

 どうも最近「ホルモン」というキーワードが気になる。たぶん、気になるから、テレビや新聞でその記事に目が行くのでしょうけれど。とにかくなんとなく気になる。アイディアのレッスンという書籍を読んでいるのですが、そこにも、人の思考に影響を及ぼす医学的な科学的な信号があると書いてあった。また、「たまたま」ということを科学する書籍も読んでいるのですが、こちらにも、そのテイのことが記載されている。これはそれこそ「たまたま」なのか?必然なのか?偶然は情報化社会の中に存在しない。また、仮想現実の中にも存在しない。それらはすべて用意されたモノ。目的を持って検索してそのエリアの中でのゴールには最短で行くことができる時代になりましたが、最短で行ってどうする。そこに目的のモノが確実にあるのに・・・。つまり、学習するということは、五感と今備えている技術や知識でその場その場の最適な結論、つまり、運動を繰り返し、それを反復しながら、その英知や技を会得するということだから、すでにあるモノへアプローチしたところで、それは誰でもパソコンさえあればできるゴール。そのゴール自体を自分なりに変化させて、自分のゴールを想像し創造することが・・・、と、このような考えも実は何かしらのホルモンが影響しているという考察が非常に興味深い。

 で、じっくりとそのルートをリサーチしてみようと思っています。遺伝子でも自律神経でも脳幹でもなく、ホルモンという存在とは?医学的な知識がないのでいつもの浅いアプローチになりそうですが、それでも、ホルモンが気になりますね。

バンクーバー盛り上がってきました。

 浅田真央ちゃんの演技、とてもシビレました。でも、キム・ヨナも凄かった。ゴシップはいろいろありますが、演技を純粋に楽しむということを忘れて、メダルメダルと騒ぐことだけはしたくない。メダルは結果。そりゃトップクラスの関係者はメダルを獲得するために長期間いろいろな苦労があったわけですが、そのためにだけ・・・というわけでもないでしょう。それが全てという感覚は到底想像もできませんが、演者がアスリートが競技をしている間はそんなことを忘れて演技に競技に純粋に心を奪われていたいと思います。結果として、浅田真央ちゃんが金メダルをとれたら最高ですね。

R-1グランプリの結果。

 昨年のR-1グランプルは絶対にバカリズムさんが優勝だった。なぜ、あのチャンピオンが選ばれたのか今でも納得がいかない。しかし、今年はどうだったのか。決勝に残った人達は納得の面子。序盤戦、お笑い番組が多いせいかどの方のどのネタもどこかで観たもののブラッシュアップ。笑えるが爆発する感じはない。そして、3組目にバカリズムさん。非常に練れていたが昨年の爆発力には欠けていた。その後、なだぎさんまで納得のいかないネタが続く。ほほえましいとは感じるが爆発力はいずれも欠けている。

 とここまでで、感じたことは、ラサール石井さん以外の審査員のコメントの緩さと、会場の温度の低さ。どういう基準でこの審査員と会場客が選ばれたのかと思ってしまうほどの鎮静ぶり。あの観客達は絶対にお笑いに対してさほど期待している人たちではなかったような。そして、一番残念だったのが、三枝師匠のコメント。緩い。もう、今のトップクラスのお笑いと明らかにズレているコメントが目立つ。世代が異なり、フィールドが異なるとこうもクイチガうウのかというズレの連発。

 で、なだぎさん、エハラさん、あべさんとなだれ込む。一気にそれまでの緩い採点を3名はクリアして、最終エントリーへ。これもどこかシナリオがあるように思えた。が、さすが、実力者の3名。ネタは安心して笑え、流石の構成力と表現力で爆発感があった。しかし、M-1の「ハライチ」さんや「パンクブーブー」さんの爆発力には500歩以上届いていない。

 で、念願のグランプリはあべさんだったのですが、これは、非常に納得納得納得。他にエハラさん以外がグランプリを獲得していたら、絶対に裏がある番組構成だと思っていただろう。あべさんは爆発力とまではいかないものの、セットもツールもなしにマイクスタンド1本で勝負していた。これは美学を感じるし、ネタもさすがの仕込み。今年のR-1グランプルはとっても納得のいくチャンピオンが誕生して楽しかったし、面白かった。

 唯一、この会場にシロウイトウの存在意義は無かった。

「カールじいさん」と「サマーウォーズ」。

 「サマー~」は3月、「カール~」は4月と最近映画がDVDになるの早くないですか?というよりも、公開から上映期間が短くなっているのだろうか?公開したなぁ~と思っている映画がしばらくするとすぐにDVD発売!みたいな流れになってくる。特に海外の映画のこのサイクルが早いような気がするのですが・・・。なかなか、映画館に行けないモノにとってみれば嬉しいことなのですが、邦画が好調だということは新聞やテレビでよく話題になっていますが、本当?何を基準に「好調」なのか説明がないまま、興業成績的な歴代何位!みたいな比較だけで映画のいい悪いって判断できないでしょうし、何人映画館に来たかってことをチケットの売り上げ枚数で計っていたとしても、それは人の動きと数字の連動ってちゃっとできているの?さほど映画に対する一般ユーザーの反応って上がってなくない?むしろ、離れている傾向にあるのではないでしょうか・・・。テレビ局が映画を創る時代になり、テレビドラマの感覚で企画モノ映画が安価に排出される仕組み、これはいかなものか。なんとか大捜査線とかって、あれは何?映画?テレビ?寸劇?まだ吉本新喜劇の方がライブ感もあり、鉄板のネタがあり、楽しいという視点でですが有意義。

 で、「人間失格」もいつものノリで角川さんが出すようですが、結局、いい時期のテイストに回帰している。それは悪いことではないのですが、今、何故?「人間失格」なのか?ちゃんとこの時代を映していればいいのですが?「野獣~」「人間の~」「野生の~」「戦国~」「探偵~」などなど、若いころに深い印象の映画は多いのですが、その時代からかなり変わっているような気がする。いやいや、映画の本質は創る側も観る側も今も昔も変わっていないという仮説は確かにあると思いますが、そこは、変えてほしい気持ちもある。「神様のパズル」は物語を完全に市原君が食ってしまっていたので、とても良かったが、さて、「人間失格」の生田君はどうだろうか?

 「カール」と「サマー」は楽しみです。

宮里藍ちゃん開幕V!

 昨シーズン念願の初優勝から、藍ちゃんがひとつもふたつもクラスを上げられたような印象です。初日からずっと新聞でチェックしていて今日確認したら、なんと、開幕V!それも最終日に63の猛チャージ。う~ん、素敵です。昨年は賞金ランクが3位でしたが、今年は賞金女王もそして、メジャーも・・・と期待が膨らみます。遼君もマッチプレイでベスト16に入っていたし、すごいすごい。で、ウッズもようやく記者会見・・・、オフにどん底まで落ちた感じですが、まぁ、ウッズのことだから、そのモヤモヤはゴルフでスッキリさせてくれるでしょう。

楽しい時間・・・。

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 なんとなく、たまに、鉛筆で絵を描きたくなる。デッサンとはちがう自分なりの「鉛筆画」。何かを見て描くがフォルムが確定したらもう見ない。あとはなんとなく・・・。鉛筆と紙の相性はとてもいい。どれぐらいいいかと言うと、何よりも鉛筆が軽いから強弱が自由、そして、欲しい線が得られる。この万能さは鉛筆以上の画材はないですね。しかもモノクロだから白黒も色も表現できる。まぁ、そんな学生の頃みたいな理由はさて置き、やはり、一人で絵を描いている時間が一番楽しい。

若者像について。

 新聞の記事にこうある。「若者がモノを買わなくなった。最近の消費行動から浮かび上がる若者の「元気のなさ」は、厳しい経済環境への自己防衛だと考えれば、わかりやすいかもしれないが、どうもそれだけではなさそうだ。最近相次いで刊行されている若者の生態を描いた書物によれば、若者の消費離れの背後で生活スタイルのより深い変化が進んでいる。車を欲しいと思わない、ブランド品に関心がない、酒よりもスイーツを好む、休日は旅行や遠出をするよりも自宅の近辺で過ごす、今を楽しむよりも将来に備えて蓄積する・・・。」また、「家族や友人との親密な関係を維持するために、贈りものを交換し、メールよりも親しい友人との対面でのコミュニケーションを求めている。あくせく働いて地位を高め、それを象徴化するような消費をするよりも、まったりとした、穏やかな暮らしを目指している。」とある。

 また、別の見解として「若者には偶然を活用できる力がなくなっていると分析する。しかし、リスクを回避しようとして、達成可能な範囲で目標を定めるような生き方では、予期せぬ出来事をチャンスにかえることはできない。そのため、彼らは自分の人生を自分で決めようとして、逆に状況への柔軟な適応力を失っている。」ともある。また、別の方の意見として、「人間関係の網の目に埋め込まれてしまった若者は交際人数も交際回数も多くならざるをえない。従って、現在の状況は消費が冷え込んでいるというよりも、いくつものネットワークの中で村八分にならないために「小さな消費」を大量にしている。」とある。

 つまり、このような社会を生き抜くには「空気」を巧みに読む必要があり、他者が自分の姿にどのように反応するのかを想定して、あらかじめ修正を施した自分の姿を相手に示して、ネットワークからはじき出されないように振る舞う必要がある。当然、自己主張は控え目になり、とても、「元気がある」とはならないのだそうです。そして、さらに、このようなネットワークの中では「既視感」が蔓延している。経験したことがないのに、どこかで経験したことがあるように錯覚してしまう現象。実際に行っていないハワイに関する多数のブログのコメントを読んで「ハワイはつまらない」と評価する。そうなると、実際の行動範囲は自宅近辺だけで、個人としての器は十分に満たされる仕組み。

 これらのことが、どこまで現実に起こっているかはある程度の信頼性をこの方達の記事の中で読み取りたいという気持ちはあるが、逆にその視点を少し位置を変えればそもそもの消費の在り方が別のベクトルで再構築されようとしている、もしくは、これは新しいコミュニケーションのスタイルであり、これは肯定も否定もできないのではないだろうかと感じてしまう。何が最適かなど人の数だけあり、それらがどのような方法で共鳴しようが、心が何を感じてどの潮流を取り込むのかという部分まで考察し方向性を示すことはただの「奢り」ではないだろうか。「元気」のことでいえば、例えインターネットの中であれコミュニケーションの活性化が起こっているならそれもひとつの「元気」である。現代の若者がどうのこうのという前に世代とは常にどこかで連動しているのだから、突然「元気のない若者」増えたわけではないし、これが推移しているとしても、だから、その一部分にフォーカスして、偏った洞察を展開することは言論の自由のまさに「奢り」の側面である。この世界に存在する絶対熱量があり、温かいモノから冷えたモノへ熱量が伝導し、元気の対流が今も季節風のように吹いているなら、その熱が起こす風が見えていれば、今この瞬間自分を見失うことはないだろう。生きているとはその程度でいいのではないだろうか。

 大義は大義を生み、欲求はさらなる欲求を生む。個体としての心の在り方とは過去と未来の間の現在をどれだけ五感で感じ取れるかに尽きるように思います。

それはできない。

 年間のラウンド数などたかがしれている(多い年で2~3回)ゴルフライフ。シングルさんとお話をする機会があるとそれなりに、時間とコストをかけてシングルスコアを出してみたいと漠然と希望するが、その思いも長続きはしない。書籍やマガジンでシングルさんの技のお話をパーツパーツで聞けばこれならできるかもしれないとは思うことがあるが、それは、シングルさんの極極一部分のパーツであり、その背景にはとてつもない経験値と練習量が積み重なっているからであり、その一部分をマネしても、シングルスコアを出せるはずもない。ただ、ゴルフはそれぞれの技量で楽しめるゲームだから、自分の「楽しめるレベル」はこの程度だと自分自身に折り合いをつけてゴルフライフを、ゴルフライフらしきことを楽しんでいます。
 
 では、シングルさん達のゴルフライフは実際どうなのか?それは、例えば年間どれぐらいゴルフに行かれているのかという部分。これについては、技術的なことや素晴らしいゴルフプレイシーンのお話はよく聞くが、実際、どれぐらい練習をしていてどれぐらい年間ラウンドしておられるのかという部分は意外とお聞きすることはない。例えば、どこかの練習場にプロの方が来られてそのスイングや弾道を拝見していると、次元が違うどころか、同じクラブでなぜこのような球筋になり、こんな次元の方でもプロの世界ではシードを獲得することができないのか、ならば、テレビで応援している日本の世界のトッププロはいったい・・・となる。つまり、そのクラスに到達するためには、天武の才能があったことや、指導者に恵まれていたことや、環境に恵まれていたことなどのいろいろな条件が存在しているはずでしょうけれど、それにしてもゴルフは個人競技、個人の努力の時間こそがその方の現在のランクを示していると言える。

 ならば、年間多くて2~3回のゴルフとは押して知るべしなのである。

 で、所謂シングルさんたちは年間どれぐらのラウンドをしているのか?150~200ラウンドで、多い時は300を超えるらしい。ええっ!1年って365日ですよね?で、300以上って・・・、それはできない。つまり、「私はシングルにはなれない。」ということですね。逆に365日をゴルフに300日も費やすってどうよ?となる。ライフワークはどうしてるの?芸術や書籍や映画や他のの趣味に興味がないのだろうか?ゴルフは楽しいが、他にも楽しいことはいっぱいある。という人間なので、やはり、私にとってのゴルフは3/365が臨界点のようです。

ガイスター、オモロイ。

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 ドイツには面白いゲームが多い。というのもドイツでは毎年200作を超える新しいボードゲームやカードゲームが発売され、子どもからお年寄りまで楽しまれているそうです。そして、その年ごとの優れたゲームを決める「ドイツゲーム大賞」は、世界で最も権威ある評価基準となっているそうです。どうしてドイツではボードゲーム文化が進んでいるのでしょう?かと言えば、ドイツでは、30年以上前から真面目にゲームを作る作家たちがいて、子ども達の事を考え、また大人のためにたくさんの名作を残してきました。それがまた新しい作家を生み、というループの活性率が高く、文化として育まれてきたそうです。日本の漫画文化のようなものでしょう。また、ドイツのゲームは、箱や木製のコマなど、とてもおしゃれで洗練されているものが多いのも魅力なのだそうです。この情報は東京のクリエイターの方からの情報で、確か、某ロイヤルホストで飯を食いながらこのボードゲームに興じ、いきなりの10連敗を機した記憶が今でも鮮明に残っています。悔しさがなんともチェスとかオセロとか将棋にはない、いい感じの悔しさであり、この勝負の性質上、勝つことに対して知識や技術的なことはあまり要求されないのですが、ルールがとてもシンプルであることと、勝負が早いという割に、戦略的な部分がとてもあり面白い。これも、ドイツの文化なのかと苦杯をなめさせれたが、とても、新鮮な感覚でした。

 いいですよ、「ガイスター」。テレビゲームやRPGに嫌悪感を頂いている私はやはり、アナログテイストのこのタイプのゲームこそがゲームだと信じています。ボタンで画面をコントールしてもオモロイノカ?そこにあるだろう質感が「面白い」「楽しい」と勘違いしているのはそれでいいとして、その結果、自分自身の五感は何と言っているだろう・・・?がとても気になります。何と言うか、点数は明確ですが、加点の過程こそ楽しいのでは?勝負のディテールこそ楽しいのでは?と考えているので、どうも、薄っぺらい画面の中のゲームはやってて辛くなるばかり。これは考え過ぎ?ビジネスモデルとしての、ゲーム文化を全否定しかねない言動ですが、それでも、あのテイはつまらない。

 で、ガイスターの詳しくはこちらをご覧ください。

情報収集だけでは学習とは言わない。

 私が大好きな日本のモノカキさん(モノカキさんとカテゴライズしてもいいのだろうか?)、養老孟司さんの「まともな人」本分からの抜粋です。特に素敵すぎる洞察だったので・・・。「学習とは文武両道である。両道とは二股を掛けているということで、それぞれべつべつにという意味ではない。脳でいうなら、知覚と運動である。知覚から情報が入り、運動として出ていく。出て行くが、運動の結果は状況を変える。その状況の変化が知覚を通して脳に再入力される。こうして知覚から運動へ、運動から知覚へという、ループが回転する。そうしたループをさまざまに用意してモデル化すること、これが学習である。たとえば散歩する。一歩歩くごとに視界が変化する。その変化に合わせて、次の一歩を踏み出す。幼児はこうして自己の動きと知覚の変化、その関連を学習する。成人はこうした変化をあまりにも当然と思っているために、それをまだ学んでいない状態、あるいはそれができない状態を想像することがない。」とある。この短い文章の中に込められた無限の英知は計り知れない。この視点をどうして手に入れることができるかという部分に気持ちがフォーカスされて、養老さんが言いたいことの本質にはそれほどテンションが上がらない。この書籍に関して言えば、書かれている一次的な考察や分析よりも、何故ここに至ることができるのかという部分を読み解くためにこの一冊には非常に意義を感じてしまいました。

 つまり、情報をモニターから目で見ていることが脳の中(便宜上)で新しい運動(アウトプット)に変化されてそれがまた違う情報になるテイではそれを学習していると言えるが、さて、表示されている文字群から改めて何を得ているか、具体的に何をインプットしているかと言えば、もしかして、「モニターを見ている自分自身」止まりで、頭にはたくさんの文字が入っているだけで、閲覧しているだけでは、その情報は情報から覚醒していない。もっと、なんらかの手法で拡散して分解して化学反応を起こさせるために自分の中に取り込めってことでしょう。そうして初めて多くの情報と学習が連動されるのでしょう。

 つまり、WEBを創るという仕事の一番本質の部分であり、仮にもWEBのプレゼンテーションの企画書らしき内容の中に、作成目的として「~に行ってみたいという気持ちを起こさせること。」とか「閲覧者にとって~プラン化の材料になること。」などと書かれていても、決して、笑ってはいけない。たぶん、このテイの企画書を記述した方のモチベーションはここが天なのだから。それ以上を別アングルで嘲笑しても、それこそ、学習には至れない。だから、この文字を自分なりに一旦口に入れて消化を試みることが大切なのでしょう。そして、ひとつのループとしての結論が新しい運動としての表現手法をアウトプットすればいいのでしょう。つまり、ワクワク・ドキドキしない人達が「プレゼンテーションなんだから例えばこの企画にどんなワクワク・ドキドキが展開できるのか具体例をご提案してください。」と語尾を上げられても、この瞬間で実は全てがEND。もう、この場合、共通言語が存在しなくなる。もうその段階でそれは「ワクワク・ドキドキ」ではなくなっていることに気がつかないタイプの人間だからです。学業と向き合っているつもりで情報収集だけしてきて、本来の学習をされてこなかった人達。つまり、日本の英才教育の中で知識を詰め込むことが学習だと誤認識させられ、それに大切な時間を費やしてきた方たちの寂しい心の叫びなのである。実は。とても残念。残念過ぎてこちらが言葉を失う。

 「学習」の本質は実に深い。

外山さんにハマッテ・・・。

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 「しなやかな発想、思考を実生活に生かすには、どうしたらいいのだろう。たんなる思いつきをアイディアにするには?企画、営業、レポートなど仕事や勉強、きらりと光る会話にまで、大きく影響するアイディアのポイントは?学校や会社では教えてくれないアイディアの作り方を教えます。日々の暮らしを賢く、美しく、そして面白く生きていけるように。「思考の整理学」実践編。」とこの「アイディアのレッスン(外山滋比古:著)」の裏表紙には書かれています。完全に、「思考の生理学」の流れで外山さんについて2冊目です。なかなか、このテイの書籍を買って良くっても2冊目に手を出すことはほとんどないのですが、外山さんにはかなりはまっています。どれぐらいはまっているかというと、「思考の整理学」は海外に在住のクリエイターの方2名に思わずプレゼントした始末。ひさびさに同じ本を3冊買いましたね。

 で、アイディアについて企画・デザインの仕事をしていると「まさに!」なのですが、自分なりにこのノウハウやチップスはたくさん普通の仕事をしている人より保管しているつもりでも、さて、それを自分の中に体系化できているとは言い難い。しかも、テンションの低いビジネス書から何かいいフレーズが過去に連発されたかと言えば、かなりそれも厳しい。ビジネス書って、とっても分かりやすい反面、文脈が弱いというか、一次元の内容ばかりなので、目の前の文字を信じるか信じないかというタイプの人になら、そのアプローチで正解でしょうが、文脈を反芻したり、他の事例と瞬時に比較したり、自分にもそこそこの考察があるテイで読むにはちょっと厳しい。

 過去に人に進められた小説の始まりの数行で嫌悪感がいっぱいになり、読まなかった小説の数は限りないのですが、そうなると、二度とその著者には近づかなくなる。まず、自分でそれを買うことは一生なければ、手にとって斜め読みもしない。それはあまり読書の視野的には損をしているのかもしれませんが、どんなに進められても、それらの著者には心のメモリは動きません。そんな感じで書籍を判断してしまうタイプの人でも、目的を持って購入した書籍は自分の判断力を信じて読み切りますが、なんでしょう、人にいいと進められるのが苦手なのに、人には進めるこの多重な感じ。

 でも、外山さんはいいですよ、ぜひ!!!

白と黒。

 仕事中、路上で白と黒のツートンの車を見るたびに頭に浮かぶことがある。「白黒はっきりしているって楽だろうなぁ~。」と。何についてというわけでもないのですが、漠然とそう思います。法律という広義のモノサシではっきりとYESとNOが二分されるスッキリ感は気持ちいいだろうなぁ~と。生まれてこのかたそっちの人間になりたいと考えてことは0.1秒もないのですが、でも、そっちの人間って普段はどうなんだろう?と思います。決して、変な揶揄ではなく、仕事が白黒はっきりくっきりだから、人間的にも竹を割ったような人が多いのだろうか?友人にもいるが、確かにはっきりした人間です。

 に比べれば、私の仕事って白黒で明確な部分ってまずありえません。いつも、ちょっとグレイな白からちょっとグレイな黒の間のレンジを行ったり来たりの右往左往です。長いことこの仕事をしていると、逆にその振幅の幅を楽しもうとか、振幅がある正論が存在しない世界だからいい・・・みたいなとんでもないヒラキナオリシンドロームに満悦してしまう。それはそれで仕方ないというか、振幅があるから考えてどこで手を打つか吟味してアイディアをカタチにして現実の中にあてはめています。

 う~ん、白と黒の世界は魅力も感じますが、やはり、いろんな色がある世界がいいですね。何をっていうわけでもなく、漠然とカラフルな世界が居心地いいと思います。漠然すぎ・・・、の、独り言でした。

キンドルは、米・アマゾンドットコムが販売する・・・っても。

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 「キンドルは、米・アマゾンドットコムが販売する電子書籍端末です。」ということですが、これが「黒船」って、なんでもかんでも海外からそれらしいのが入ってきたからと言って「黒船・黒船」って呼べばいいってもんじゃないと思います。そんなに革新的なモノなのか?それ自体はこのテイですから、そんなに、ノートパソコンとどこが違う?安いのか?それとも電子書籍端末ってことで、独特の仕組みがあるのか?それがそれを指して、「黒船」と称えているのだろうか?モバイルのパソコンも一瞬心が動きかけましたが、結果、スルーでしたし、最近はノートパソコンもあまり魅力を感じない。それは、多分、iPodが便利だと感じてしまっているから。それに比較してこの電子書籍ってブサイク!?

 結局、電気がいるんでしょう?ソーラーでどこでもっても、太陽がなければだめだし。やはり、本は本がいいと思います。森林伐採とか自然資源のどうのこうという節もありますが、この体裁と一冊の書籍と比較してどちらが・・・という比較にもならないでしょう。新しいから「黒船」なのか?それほど「黒船」ってすごかったのだろうか?と「黒船」に絡んでも仕方ないのですが。

 とか言いながら、次の瞬間、手に入れたいテンションになっているかもしれない。どうにもこうにも海外の代物に弱いものなぁ~。ということで、勿論・当然の流れで、上記の写真は私ではありません。

詳しくはこちらをご覧ください。

石と人の関係。

 ブランド物やエンジン物やグルメテイストにはまったく興味がないのですが、どうも変なモノへの興味が歳を重ねるごとに肥大していきます。最初はただの興味があるないレベルだった存在がそれが手元にあることでなんとなく落ち着く感じ。そして、その欲求がどんどん高くなり「何故?」とか「どうして?」という気持ちに意味をつけようとしてしまうというか・・・。仕事上、PCやソフトウエアや周辺機器やカメラなどのデジタル機器は必然として、絵を描くので全ての画材や表現手法に必要なツール、そして、絵画・イラストレーション関連の書籍資料などなどにつては勿論、「好き」であるということが前提であり、「好き」がよほど屈折しなければ「何故?」とは考えない。それだけ自分自身と馴染んでいるからだと信じて疑わないが、妙なモノでテンションが上がるのはそれを見ながら触りながら集めながら「何故?」という気持ちを抱きながらも興味が失せない。

 そのひとつは「石」です。石の収集癖はたぶん小さい頃からあったのでしょうが、小さい頃は他に興味があることがいっぱいあったというか、「興味」の意味を理解していなかったから、「友達と同じモノ」や「友達が興味があるコト」にまぎれてそれは比較的埋もれ気味だった。それが、大人になり、「ブランド物のウエアの話に食いつかない自分」、「バイクや車の話題に反応しない。しかも、洗車が楽しくない自分」、「どこどこのなになにはとても美味しかったからぜひ行ってみてください!という言葉をスルーする自分」に気がつき始めると、あれれ?自分は何故それらに興味がなく、仕事関連のツールを中心とした非常に狭いストライクゾーンなのだろうかと考えてしまう。そして、自然と仕事場に自分の部屋に「石」を並べていろいろ想いを馳せていると、な~んとなく気持ちが落ち着くのはなんでだろう・・・となる。そして、海外やいろいろなところに旅行に行く人に「お土産は何がいいですか?」と聞かれると、「お酒」とか「銘菓」とかではなく、行った場所のどこかに落ちていた「石」が第一候補になる。で、しばらくしてこれはどこどこの石で~となり受け取る時の瞬間のテンションは言葉では表現できないぐらい嬉しい。

 で、さて、石器時代ではないけれど、「石と人の関係」の歴史って分析したら面白いのではないだろうかと考える始末。道具としての石、建造物としての石、何かの象徴としての石、鉱石としての成分が身体に影響を及ぼすテイの薬などの石、自然の造形物としての岩石や溶岩の存在、そして、墓石。う~ん、石と人ってすごく密接に関わっているような気がする。このお話は思いついたはいいがかなり広がるように思え、じっくりと、想いのレンジを分解してみたいと思いました。

 そうそう、結婚指輪も石なわけで、石に対する人間の心は古くから密接に関係していると思います。これも一般的にはちょっと妙なテンションになってしまうのだろうか・・・?

 が、パワーストーン的なノリはちょっと人為的過ぎてNG。

「オルセー美術館展2010」がやってくる。

 日本経済新聞社は、パリ・オルセー美術館の傑作絵画を一挙に115点という空前の規模で展開する「オルセー・美術館展2010-ポスト印象派」を5月26日から8月16日まで開催するらしい。同美術館「印象派ギャラリー」の改修を機に実現するもので、これほどの作品がまとまってパリを離れることは二度とない、といわれている歴史的展覧会だそうです。モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルソーをはじめとする19世紀末から20世紀初めの絵画を国立新美術館で公開の運び。

 う~ん、ついに期日が決定したか。これはガチで作品をその場で目に焼き付ける必要がある。そうそうパリになど行けないですからね。たぶん、この期間中は国立新美術館はえらいことになりそうですが、ガッツリ時間に余裕を持って足を運びたいと考えております。

 たぶん、それらを目の前にしたら心の中の何かがゴロリと変わるような、心の中の未完成だった想いがカチンと揃うような、そして、名作・傑作と言われている作品の作者たちの声が聞こえてくるようなそんなひとときになりそうな予感です。なんとも楽しみな刺激的な情報です。

三平が・・・。

 一連のパチンコ・スロットにいろいろな歴代のキャラクター!?が採用されていったい現場ではどのような仕組みになっているのか未確認ではあるが、どうせ、画面にそれらがプリントされて、適当にキャラに使われている程度でしょう。純粋にパチンコやスロットを楽しむことと一連のキャラ台のコンセンプトがよく分からん。分からんというかそれ以上にそれらを採用している人の狙いが不明。とそれ以上に遺憾である。かれこれパチンコ屋に行かなくなって何十年が経つが一時期はそれにワクワクドキドキを心の底から感じて無駄な出費をしていた。いつの日かあの空間がどうにもうるさく感じられ足がぱったりと止まる。しかし、休日その前を通れば開始時間待ちのヘビーユーザーが列をなしている。あの中にいた頃もあるので全否定はするつもりはないが、あの頃のドキドキからキャラ台にして何かそのディテールは変わったのだろか。別にこの辺はもうどうでもよくなったのでスルーしているのですが、それでも、なぜ、「パチンコ台、釣りキチ三平」が登場するのだろうか。そこだけは止めてほしい。どうせ、ある一定期間が過ぎれば別のキャラを使うのに、なぜ、この路線を決定している人の目に「釣りキチ三平」が止まったのだろうか?たぶん、その人は釣りなんてしないだろうし、三平の伝説を心で感じてきた人ではないはず。あの鮎からサーモンダービーの伝説に何かしらの心の高揚を感じた人ならば、それをパチンコ台の盤面には採用しないはず。それをそこに行って確認したいとも思いませんが、たくさんの何故?が頭で渦を巻いている。

 もしかして「釣り」と「パチンコのギャンブル性」をシンクロさせていたとしたら、もう、それは悲劇である。

自分の小さな「箱」から脱出する方法!?

 「なぜ多くのアルファーブロガーから圧倒的支持を受けるのか!」「人間関係にのパターンを変えれば、うまくいく!」がキャッチコピーで、プロットとして「知っておくべきこと。自分への裏切りは、自己欺瞞へ、さらには箱へとつながっていく。箱の中にいると、業務向上に気持ちを集中することができなくなる。自分が人にどのような影響を及ぼすか、成功できるかどうかは、すべて箱の外に出ているか否かにかかっている。他の人々に抵抗するのをやめたとき、箱の外に出ることができる。」とある。この「自分の小さな箱から脱出する方法(アービンジャー・インスティチュート著)」という書籍の広告面の文脈です。なかなか、タイムリーな書籍が出るもので、「箱」がひとつのキーワードになっている。ただ、一概にに「変える」というがなかなか変える方法って難しいと感じてしまうが、実はこれがすでに箱なのかな?著者が外人だからこの脱出方法がどちらのベクトルなのかで慣習や文化との摩擦やジレンマもあるだろうし・・・とまた箱が現れる。この論理は非常に有効ですね。「受け入れるなら受け入れるな!」「受け入れないなら受け入れろ!」と言われているような気する。

 つまり、固定観念・先入観を支えている自己の礎を改造してください的な論法なんだろうと推察します。このテイの書籍は気づいた日本人達が翻訳して発信しているネタとこの書籍のように翻訳として取り組まれているテイではニュアンスが異なるので、気なる部分として大きいのはこのアプローチですね。書籍のポテンシャルはこの判断が個人の中でどう起こってどう行動化させるという動機の部分がデジタルコンテンツと明らからに品質の格差を創出すると言っているのか?書籍の意義がここにもあることを踏まえて、あえてこの情報は検索しないことの方が真理に近づけるような・・・。

 さて、「自分の箱」が小さいのか大きいのか(たぶん小さいだろう・・・)的な仮説から、箱を意識化に置けるとして、脱出できるのか?脱出するべきか?脱出でいいのか?と感じてしまっていること自体、この提言の意義とも言え、すでに、アマゾンへ入ろうとしてしまっています。合理的に考えて、「満足=沈滞」「危機感=レベルアップ」なら、このキーワードを逃したくないというのが自分自身にとっての正論になるし、正論に疑問を抱く前にこの価値を手にしてしまうというアプローチもアリかなと感じています。

 「箱」かぁ~、この場合「箱」なのかぁ~。

正解を求めて。

 あるCMのTIPSですが、日本の数学の問題はX+Y=?ですが、海外の問題は?+?=Zみたいな要素が強いとのこと。それは誰が決めたということでもなく、「疑問+知能=正解」みたいな文化や慣習がこの国には適していると誰となくそう捉えた結果であり、その部分についてこれほどの情報化社会が到来するまではそれで切磋琢磨が成立していたのでしょう。しかし、「疑問」も「知能」も多面多様になれば、当然「正解」のバリエーションもX乗に比例するはず。

 ならば、そんな時代の正解とは何?とアプローチしがちですが、実はそうではない側面の方が正解に近いように思える。例えがあまり適切ではないかもしれないが、「ゴルフの正解とデザインの世界の相関関係」について言えば、ゴルフというスポーツに興味を持ちラウンドするようになったのは27歳の頃、そこからほぼ20年、上手くなるために楽しむためにいろいろな練習をして、人に練習方法を聞き、いろいろな書籍やマガジンを読む、そして、ゴルフの正解を探す。それは、デザインの仕事にも同じことが言える。仕事として「いいデザイン」「強いデザイン」「大きいデザイン」を会得するためにいろいろなデザインを見ていろいな作品に触れ自分自身でも試行錯誤を繰り返す。ゴルフもデザインも最終目的は正解を求めているわけである。

 しかしながら、ゴルフで言えば、まだまだ全然正解などおぼつかないレベルで、いつも、楽しいと苦しいの行ったり来たり。続けていればスコアもそのうちよくなるだろうと緩く捉えて20年、逆に悪くなっている。体調や筋肉が少しづつ衰えていることを相殺しても、正解がだんだん遠くなっている。では、デザインではどうか?気がつかないだけで意識できていないだけでゴルフと同じく正解が遠くなってきてはいないだろうか?貪欲に取り組んでいることが裏目に作用していることが一番怖い。それは、ゴルフならスコアで明確に数値化されるが、デザインは数値化できない非言語。だから、より一層怖い。この危機感はこの仕事を始めてから常に隣にいる相棒?コンサルタント?シュリンク?家庭教師?アドバイザー?

 で、「正解などないんじゃない!」と乱暴な答を出す勇気もなく、いつまでも、隣にいる危機感に愛想よくつきあっている始末。つまり、「正解」ということは流動的なその分野の中で試行錯誤していること自体を指していて、ゴールがあるようで実はゴールはないのではないだろうかと思う。ただ、それも安心して一息つきたいだけの逃げ道かもしれないので、その想いはたばこ1本分ぐらいの休憩にしておかなければいけない。

 ワンピースは絶対にある!俺は海賊王に絶対になる男だ!というルフィーはとても輝いて見えるが、それでも、尾田先生は海賊時代の正解がすでに見えているはずだから、これだけ「ワンピース」がドキドキワクワクするのでしょうね。どこかに1冊、0巻が余ってないかしら・・・。

ColdFusion8というギア。

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 リサーチし始めるとキリがない。どこかで手を打つべきラインを見極める。これもビジネスとして必要な判断力。次から次へと新しい技術や機器が投入される市場において、どのタイミングで何をチョイスしてそれをどう会得してどう活用すのかという一連のプロセス。自分自身のギアにするために最初のアプローチはやはりそのビジョンに対する全体像を手の中に一度入れること。で、大き過ぎるのか、重すぎるのか、早すぎるのかを実感しなければ、自分のギアにはならない。下手な鉄砲も数撃ちゃ時代でもないのですが、できるだけ吟味して一発一発撃っているつもり。でも、当たらないとさみしいのですが、それもリスク。ただ、「分からないことが分かった。」という収穫が、時間を経て純化されると、ある瞬間から「分かる。」に変態する場合がある。しかし、それは絶対に一度でも手に触っておく必要があり、画面で見て頭に入っているようでも、それは、実は頭に入っているだけで、何の芽も出ない。

 この時代の大きな錯覚マジックはそこにある。一瞬で欲しい情報らしきものを画面で見て読んで「分かった。」と感じてもその質量のない(限りなく軽い)「分かった。」では応用どころか、利用・活用さえできない。一定期間それに触れて自分の中に入れておくことで、自分の頭の中の「実用」の引き出しに入る。「見えている。」と「見ている。」の違い。「実用」の引き出しに入れるためには、それが、何であれ、一歩程度踏み込むというか、引き寄せる必要があり、その為にも、書籍というテイで情報というディテールに触れておく必要があると思います。

 WEBやデジタルコンテンツが結局、仮想仮想と頑張っているが、人間の五感に響かないのはそのあたりの壁を越えられないからだろう。ということで、このギアは私自身の「実用」の引き出しの中で新しい展開に繋げてくれるのだろうか・・・、って他力本願ではなく、今夜からガッツリ取り入れ作業開始なのですが。旧バージョンは使っているので、8ってことがキモなのです。どうブラッシュアップされているのやら。

1992年12月号「デザインの現場」。

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 ぶらりと中古書籍屋さんでゲット。テーマに魅かれて衝動買い。しかし、これが¥105。で、中身はと言えば十分に¥1,800(税込)分の価値がありました。どうやら、この時代の海外のコミック分野の巨匠達を特集していました。この時代(今でもそうかもしれませんが・・・)、フランスではマンガのことを「バンド・デシネ」(Bande Dessinee)、もしくは略してDBと読んでいたらしい。これは「デッサンが帯のようにつながっている」という意味らしいです。ほとんどの作品がオールカラーで、絵本作家が一枚一枚丁寧に構成を構想していたらしい。これがなかなか刺激的なのです。1992年の情報に改めてドキドキしてしまいました。

 これが書籍のGREATな部分でしょうね。1992年なのに、2010年に見ているというリアリティーでドキドキ、内容のディテールにドキドキ、そして、それを今手で1ページ1ページ捲りながら見ているというドキドキ。このドキドキは絶対に携帯デジタルデバイスやWEBコンテンツには出せないクオリア。それは3Dでクリクリ動いても同じ。書籍の中身が動き出したとしても同じ。そのドキドキは絶対に技術とか手法ではないのです。一定の時を経るということがリアリティーの品質を上げているのだと思います。

 たまには、中古書籍屋にも行ってみるものです。

「たまたま」という本。

 「なぜヒトは偶然を必然として勘違いしてしまうのか?」という疑問について、日常に潜む「偶然」を科学するということ。かのホーキング先生も大絶賛。「偶然」は、一体どんなふうに私たちの日常に影響を与えているのだろうか。本書はこの疑問に対する驚くほどおもしろいガイドブックだ。とある。レナード・ムロディナウ著ということでこの方は知らないがなになやら面白いBOOKのようです。早速、アマゾンでチェック!出版社は「ダイヤモンドオンライン」にて検索。

ソフトが手に馴染むまで。

 いろいろ総合するとどうも私自身、一般的に自転車が乗れるようになった時期が遅いということに気がついた。かなりそれは遅く、それこそ働き出してからのお話。普通は小学校に入ってすぐぐらいに自転車に乗れるようになるらしい。確かにそのあたりが非常に鈍感だったのかもしれないが、田舎だったので(あまり関係はないかも・・・)、自転車よりも楽しいことがいっぱいあったような記憶もあるのですが、たぶん、自転車を欲しいと両親にねだり晴れて自分の自転車を買ってもらったのは小学校5年生の時だった。今でもその記憶は鮮明に脳裏に焼き付いている。ピカピカの自転車。そう考えれば友達はすでに2~3年生ぐらいから乗っていたような・・・。だから、自転車にあこがれて乗れるようになった瞬間は嬉しかったですし、友達といっしょに自転車でどこかへ行くってことについても、とてつもなくはしゃいでいた。では、空白の3~4年は自分はどうしていたのだろうか。そうそう、確かシンプルに走っていた走っていた。

 つまり、それを手に入れたい、自転車に乗って友人たちとどこかに行きたいという気持ちから、両親に買ってもらい、膝とかすりむきながら練習をして、ある時、それが自由自在にコントロールできた喜びと達成感は何ものにも代えがたい感覚でした。それまで友達が自転車、自分が走るということへの劣等感というか格差感が解消されたことや、こんなにも楽にスイスイとどこへでも出かけられる満足感は忘れられない。

 で、何かを「欲しい」と思い、「何故?」と問いかける。それは、「それを使って何かをしたい。」からと理由が明確になり、実際、一定の練習期間を経て自転車をコントロールすることで得られる「自転車に乗れる。」という価値。これが、大きくも小さくも広くも狭くも人生のいろいろなところで出会うことなる。例えば、自転車の話なら、それを知り、自分の自転車を入手し、「乗る」ための技術を得て、「乗りこなす」へステップアップするこの一連のプロセスは、グラフィックデザインやWEBデザインや映像系の専門的なソフトウエアでも同じであり、プログラム系のソースでも同じアプローチとなる。「欲しい→イメージ→練習→会得→活用」のプロセスである。自転車屋に並んでいるピカピカの自転車のハンドルやサドルを触っている段階を経て、それを乗りこなしている自分をイメージして、そして、手に入れて会得する。自転車が身体に馴染むように、ソフトウエアも同じで「活用」に辿り着くまでには、このプロセスが必要です。

 余談ですが、そのアプローチを人から学ぶ場合と独学で会得する場合とそれらはケースバイケースではあるのですが、達成感は独学モードが大きい。が、独学の弊害は標準を知らないまま使ってしまうこと。つまり目的だけ達成すればいいが強すぎて、ソフトウエアの基本を踏まえて応用までスタンダードな活用術を得るためには(例えば、それをまた誰かに教授する必要がある場合など)、でも、自分で使うためならば、私は独学モードでいい、というより、独学モードがいいと思います。結局、ツールなので、使い方は自分で見極める方が手に馴染む感じもしっくりきます。仕事に使うならここまでがイントロですから、応用に進むには「基本からしっかり」が王道ですが、なかなか、そう最適な条件と環境で取り組める場合も社会に出てしまうと難しいので、最後は人間何事も「独学力」の高い人が強いと思います。

 結果エピローグではないですが、5年生の段階で買ってもらった自転車は野球に釣りにと乗りつぶし中学3年生頃にはボロボロ(海辺だったので)。で、高校に通うために自宅から駅までの通学に3年間乗った自転車はおふくろの自転車。サドルの裏に自分が乗せてもらったであろう子どもシートが付いたおばはんチャリ。サビサビでしたが、3年間乗り切りました。つまり、「自転車に乗れるようになればあとは何でも(ママチャリ)気にしない。」がその他のいろいろなことに適用され、「一事が万事」ツールとは自分にとってそういうモノ・存在になりました。いいのか悪いのか・・・、これも全て独学力が強すぎて未だに不明。たぶん、とりこぼしているボールも多いはず。自分にとって自転車は乗れたらええやん的なモノであり、ソフトウエアは自分自身の感覚の中だけで「使いこなせている」がクリアしたらええやんという存在ですね。

「ぶっ叩く!」というフィーリング。

 心技体と言いますが、体調がいいとそれまで萎えていたガッツが筋肉が高いレベルを追求し始める感覚。どうしても10代の無茶苦茶していた時の感覚を身体が覚えているものだから、40歳になっても無理をして「あいたたた・・・」となる。しかし、40歳でもバリバリスポーツに取り組んでいる方を目の当たりにすると「くそっ!」の連続。どこでスイッチを入れ間違えたのか・・・そんな後悔ばかりがあったのですが、ジメジメしていても仕方ないぞ!と吹っ切れたあたりから、40歳には40歳の運動があり、スポーツとの距離感があると知り、今では、無理をせずにできる範囲で体調を管理している今日この頃。

 そんな体調が「あれれれ・・・こんなつもりじゃなかったのだが・・・」からボロボロになりかけた40歳。そこから、5年が経過してなんとか復活らしき状態になると、そこでまた良からぬ「昔とった~」が頭を擡げる。でも、同じ轍は踏まないぞと抑制モードで今できるトレーニングをしていると、昔よりは粘りが身についたのかすこぶる体調がいい。が、昔の感覚で無茶はしないという枠の中で健康管理をする術を得る。

 で、ゴルフのお話。4年前に完全にドクターストップを宣告されたゴルフですが、なんとか、日々のスクワットや散歩やストレッチで100%とは言わないまでも70%ぐらいは感覚としてのめり込み感が戻ってきました。とはいえ爆弾が腰にあるので、MAX70%が基本。3年前は0%だったのだからこの進歩は涙なしでは語れない。「もう2度とクラブは握れないのか・・・。」と一旦置いたクラブもようやく握れる気持ちも復活して、改めてゴルフができる喜びを噛みしめています。悪い癖で「もうちょっと頑張って・・・」が絶対に泥沼に突き落とされることもこの数年で学習したので、自分なりの「大人のゴルフ」を再構築中なのです。

 それを踏まえた上で次回のラウンドは「ぶっ叩きたい!」と思っております。ライバルは田辺の猿ですが、絶対に「置きにいかない、小さくまとめないゴルフをやってやろう!」とモチベーションを上げています。健康ってほんとにありがたいです。結果は気にせずに「ぶっ叩く!」を肝に銘じて楽しいゴルフライフを展開していきたい。ちょっと欲を言えばベストスコアを出したいですね。田辺の猿さんへ、首を洗って・・・、私も首を洗って行きますので。

皮膚感覚。

 人と人の関係は理屈や理論では割り切れないと言われているいますが確かに。例えば、オンラインショップで何かパソコン周辺機器を買うや、机や椅子を買うということでさえ、WEBサイトを認知してデザインを確認して価格を確認して納品発送方法や支払いの仕様を確認する際、同じ条件のオンラインショップが2件存在した場合、もしくは、価格は微妙に異なる場合、他の変数も検討する、が、微妙に同じ条件の場合、最後の決め手は何だろう?という場合。仕様や機能が同じソフトウエアや素材写真・映像CDの場合などは、検討する要素がほとんどなくほぼコストで決めている場合が多く、そのジャッジでまず間違いないのですが、仕様も価格もいろいろな要素が同じという2者択一の場合、最後の最後の決め手は何か・・・。

 それは、いろいろな意味での「信頼感」が大きく左右する。この「信頼感」を細かく分析・分解していくといろいろな要素があり、これは、デザイン戦略やブランド戦略が基本的には担う部分のように思います。もっと言うとそのショップさんに「人間臭さのいい部分」がより強く感じられれば、最後の決定はそちらに確定する。すると、情報の発信側がより多くの商品を市場に展開したいと考える場合、商品のポテンシャルは高くしなければいけないが、それと合わせ技として、どうしても、他社との差別化という部分や中核競争能力の部分で、「イメージ」や「知名度」や「コンセプトの明確さ」、もしくは、それを扱っている担当者の方のポテンシャル(人柄や存在感やアピール力)が上記の「信頼感」ととても密接に関連している。

 つまり、同じ商品を販売しているお店が2つあり、いずれも条件が同じ場合、「信頼できる人」がいるお店で人は商品を購入するということが、日常茶飯事起のように思います。情報が氾濫して飽和している時代において、他社との比較や商品へのリサーチは凄まじく簡単になりました。しかし、最後の決め手はその商品の機能や性能プラス、その情報を扱っている人の感覚、それも、皮膚感覚として、画面に広告物に、そして、実際の商品にそれがあるかないかで市場は反応するように思います。実際、私も何かを検討して決断する場合、そのようなことが心の中で起こっているように自覚できる部分がとても多い。

 五感の中でも一番敏感なのは意外と「触覚」かもしれませんね。

動物の言葉!?

 よくテレビで「動物と話せる人」が登場する。言葉を持たないペットの犬や猫たちが心の叫びをその人だけに発信しているという。もう、支離滅裂にも程がある。というか無法地帯である。確かにペットの死は途方もなく悲しいし、子どもの頃に飼っていたペットが死ぬことは鮮明な記憶が残っていることも事実。だが、どう考えても「動物の声が聞こえる。」「動物と会話する。」はおかしい。だが、テレビのゴールデンでタレントがいかにもみたいな表情で愛らしいペットと飼い主の映像を見ながら涙している。これはもうこのプログラムの何を信じていいやら摩訶不思議。こんなまがいものの真理でなぜ涙が流れるのか、そんなに人間の心は大きいのか、いやいや、このテレビプロジェクトの創り手のスキルが高くしかも志しが偉大なのか?その番組を観ている最中もこのことだけで頭がいっぱいになり、「涙」とは何なのか?「悲しみ」とは何なのか?と???が永遠に頭の中に浮かぶ。

 が、これほど氾濫しているということは、これを観て感情移入するユーザーがいるということ。そして、それは以外にも不覚にも数字(視聴率)がいいのだろ。その数字を見ながらもこれらの番組のプロデューサー達は「うんうん、今回もなかなかの仕上がり仕上がり」とほくそえんでいるのだろうか。確かに海外のいろいろな番組を観る機会があると、どうも日本の感覚(文化や慣習)では考えられない番組が高視聴率を得て指示を獲得しているという情報が流れる。この情報を疑うことは簡単であるが、実際にそのテイのことが起こっているということについては疑う余地もなく、「120へぇ~」である。

 で、つまり、言葉を持たないのが動物だから成立するが、もし、これが、いずれ「洗濯機と話をする人」「昆虫と話をする人」「チューリップと話をする人」「月と話をする人」などがどんどんテレビに登場しても、やはりタレント達は感情移入して涙を流すのだろうか?もう感動のベクトルがどこに向かっているのか分からない。が、これも「分からない。」だけであってそのことを「分かる努力」をしていないだけなのか?それもとも「分かる訓練」を獲得していないからだとしたら、これはこれで人として問題になる。が、そんなこともないだどろうし、そうなっては本当に人としてEND。人間どうしのコミュニケーションの問題だけでもこれだけいろいろな事件やニュースが氾濫しているのだから、動物と話す前にしっかり人間と話をしましょうよ的なことでこのテイの問題にはとりあえずケリをつけている。が、根は深いような気がします。皆さんはいかがでしょう?

この中にサインはあるのか?

 「次世代ネット」「クラウド」「ツイッター」「電子書籍」「iPad」「FREE」「グーグルフォン」「アンドロイド」「ケータイ通信料」「mixi」「モバゲー」「GREE」「エコポイント」「ご当地新品種」「3万円台テレビ」「ユニクロシューズ」「新型カプセルホテル」ある雑誌広告の中に記載されていたキーワドですが、この中にビジネスチャンスになるようなキーワードははたしてあるんだろうか、日常生活を向上させるサインはあるのだろうか?昔からどうも「トレンド」と呼ばれている存在には卑屈になるパターンが多い。「流行っているものは万人向けだから絶対に反応しないぞ・・・」という天邪鬼モードがMAXになり、絶対に反応しないというよりも否定して納得みたいな感覚。でも、デザインやWEBの仕事をしているとそうもいかないので、その時は仕事モードということで「トレンド」をオブラートに包んで飲み込む。味はしないしそれほど実は腹は満たされないのですが、クリエイター・アーティストとしては栄養になっていると思っています。

 この種の人間は視野が比較的(誠に勝手な自己判断)狭いタイプが多いのではないだろうかと思っている上にあまり視野が広~いという人との出会いも少ないからかもしれないし、例え、視野が広い人との出会いがあっても自分自身の視野が狭いからそんな貴重な出会いも不意にしているのかもしれない。それはもしかしたら非常に大きなチャンスだったかもしれないのに・・・。ただ、今更ながら、この場合の「視野」とは何だろうと考えると、それについては正確に言及・定義はできない。「多分、狭いだろう・・・」「おお!あの人は視野が広かったなぁ~」レベルの緩いモノサシ。

 トレンドが移り変わるのは市場に次から次へと新しい商品が輩出され市場のニーズと複雑に絡み合い形成される潮流でしょうから、明らかに政治より信頼できるのですが、それでも、どこかで誰かがコントロールしている感があるわけです。ダカラ、それが素直に飲み込みにくい部分がどうしてもあります。風邪を引けば先生に貰う薬も素直に身体に入れるのは「医者」という信頼感のシンボルのチカラ。トレンドを真に受けて財布のひもを緩めるには、やはりそのコンセプトを自分自身の感覚で整理できている必要があると思うのです。ここまでそこまでいろいろなジャッジに神経質になる必要もないのかもしれないですが、トレンドを扱うマガジンにこれだけキーワードが羅列されると、いろいろな感覚が麻痺します。まっことサインを見つめるには眼力が必要な時代だと思うのです。

今夜は「ポニョ」。

 今夜は「ポニョ」ですね。楽しみ楽しみ。

世界一周99万円。

 「世界一周」と「99万円」という関係について、「おお!これは値打ちな旅行になりそうだ!」となるのか、「世界一周が99万円で?本当にそれを世界一周ってことで捉えていいのだろうか?」という印象があった。これはどこかの旅行会社の広告からの情報なのですが、確かに時間があれば世界一周の船の旅ってことに一度は挑戦してみたい気がする。そのことについて例えばどのような動機があれば人は「世界一周に行こう!」と決断するのだろう。つまり、このプランに申し込み実際世界一周をしてこられた方たちはどんな意識というか気持ちでこの船に乗られたのだろう?と想像してしまいます。また、時間も99万円もOKとなった時に、では、はたして「世界一周」という選択肢をチョイスするのはどんな気分な時だろうと想像してしまいました。たぶん、その時間(多分2~3ヶ月)があれば、あれをしたいこれをしたいとなり「世界一周」はチョイスするかな?となるし、99万円あれば、たぶん、映像編集用のごっついプラットフォームや映像を創るための機材を購入するだろうと考えてしまう。逆に船での旅行が好き、世界遺産などをゆっくり時間をかけて巡りたいという人にしてみれば、ひとつひとつゆったりと時間をかけて訪れたいと考え、いっきにザザァ~といいとこどりして「はい、世界一周完了」となることはチョイスしないような。

 で、改めて「世界一周」の価値と「99万円」の価値みたいなことを考えると、この価値に反応する人はいったい何%ぐらいいるのだろう?不景気とは言え、まだまだ、時間にもお金にも余裕のある方は世の中的には多いことでしょうから、2~3ヶ月ぐらい船の旅をしてても、99万円ぐらい別に・・・という人にしてみればこれは非常に「高価なひまつぶし」ってことになるのでは。これはかなり偏屈な見方だろうか?

 99万円となると専門学校の2年間の授業料関連がこの程度ぐらい?なのかもしれないので、新しいスキルや知識を得るために99万円をかける人とその眼で世界遺産など世界を見に行きたいという費用の99万円の価値観は十人十色ということになるのでしょう。

 確かにオーロラは見たいし、ピラミッドも見たい、モアイ像も見たいし、ガウディーも見たいが、そのリアリティーに今日現在的はNOな気持ちです。でも、実際にそれらをその状況で見たらいろいろな感覚が変化するのだろうなぁ~。

「色」について考える#001。

 アートやデザインの仕事に「色」の要素はとても深い関係がある。認定資格試験などでカラーコーディネイター的な資格や認定の広告を読んだりするとそのことを強く意識する。「ああ、この認定試験に合格してカラーコーディネイトの資格を取得するとどういう仕事があるのだろう?」とか、「この勉強をすることで自分自身の仕事にいろいろなメリットがあるかもしれないから、一度、問題集だけを取り寄せてみようかな?」とか考える時がある。書店でも「配色事典」や「カラーコーディネイトになるために~」みたいな書籍があれば立ち読みしてどんなことが書いてあるのか非常に興味が湧きしばらく読んでいる。しかし、結果、手元にそれらの本があるかというとそうではない。立ち読みしても、広告を見ても試験問題を取り寄せるまでには至らない。

 「色」についてどこかで真剣に学んだということとなれば、たぶん、大阪芸大と東京時代のイラストレーションの専門学校の期間だけ。その期間に「自分は色のセンスを存分に生かして仕事のポテンシャルにしてやろう!」とモチベーションを上げて「色」について研究をしたかと言えば、そうでもない。つまり、結構自分自身、アートやデザインにここまで関わっていながら、「色」については結構緩いことにあらためて気がつく。この場合の「緩い」という度合いについては緩いなりにいろいろなこだわりがあるので、また、このブログで書きます。

 で、「スギノさんはアートやデザインの仕事をしておられるから色についはかなり精通して豊富な知識をお持ちでしょうから・・・」と言われたことがあるが、その時のリアクションは「・・・」が多い。「はい、色についてはやはりプロのデザイナーとしてこだわりがあり、基本的にはこれとこれとこれと・・・」みたいなセオリーが次から次へと出てくるというわけではないからである。色について固定観念や先入観を持ち過ぎることを自分自身の中でどこか抑制している部分もあるからである。ただ、このニュアンスが非常にファジーなので、それを上記の質問に的確に頭の中の経験値や知識をチョイスすることができない、が、正しい。それは何故かだろうか。つまり、「色」についてはそれでいいと思っているからである。「色」について理論や必然が先行するとまずバランスが整わない。それは、あらゆるケースで言える。ある条件でひとつの色を決定しなければいけないという状況の場合、その色は頭の中のパレットの中を選択肢にして今与えられているテーマが完成されてそのツールが世の中に出る時、それを客観的に自分が見ているテイで、一番心地いいと想像できる色を決めている。そこに必ず絶対と相対があるから、ここの匙加減が一番難しいのですが、それでも、決断する時は頭の中のパレットに出ている色以外をチョイスすることはない。

 では、「頭の中のパレット」とは?これについてはまたいつか。

「難しい」を考える#001

 仕事でも日常生活でも「できること」を繰り返していることが多い。特に仕事となると新しいネット環境や社内のプラットフォームを新しい分野向けに整備しようとする時に必ず新しい機器や技術についてリサーチをしなければいけない。仕事の面で言えば「新しい分野」に挑戦しようと思いついた瞬間からこれまでのパターン化から一歩踏み出す必要がある。20代の頃はデザインや広告の仕事自体が自分自身にとって挑戦の連続だったから「できないこと」を「できることに」に変換するためにかなりの熱量が必要でした。しかし、仕事の効率を考えると挑戦ばかりもしていられない現実も確かにある。そこで新しい技術や感覚を仕事に適用するために挑戦する気持ちというか向上心がある程度満たされたら、どうしてもどうしてもそのルーティーンに固執してしまい、その場所で考えられる器に無理やり納めてしまおうとする気持ちが働く。これは非常にストレスになる。「これでいいのか?」と自分に問いかけて「これでええやん!」と言い返す自分が好きになれないことが多くなる。つまり、自分の器の中で「できること」だけを繰り返す。できない段階ではかなり高いモチベーションが維持されていたのに、「ああ、できるやん」レベルになると、その時の新鮮さとか高揚感が消える。全ての仕事に言えることだろうけれど、全ての仕事を経験できるはずもなく、できるわけでもないので、他の分野の「できる」と「できない」のことは分からない。

 で、新しい分野であったり、これまでのルーティーンをどうにかブラッシュアップし続けることが次へのモチベーションに繋がるだろうと思考錯誤を繰り返すわけですが、そこまでそれなりに一生懸命にベストを尽くして手に入れたことが微弱に思えてくるからと言って、そう簡単に新しいモチベーションに移行するにはそれなりに勇気がいる。というか、勇気だけの問題ではないのかもしれないですが、勇気以上の「ハラククリ」が必要だと思います。そして、それを続けてくるとそのサイクルはどんどん加速して、挑戦する。獲得する。飽きるのループが始まる。これは非常にいいことなのかもしれないが、ロスも多い。

 そんなことを考えながらデザインやWEBや映像の仕事をしているのですが、いろいろな場面で「難しい!ああ~分からない!!」に対面してしまう。では、「難しい」とは何だろうと分解していくと意外と「難しい難しい」と思っていること感じていることのハードルが少しづつ低くなる場合もある。分からない語彙や専門用語にイライラしている時、平行してそのソフトやプログラムのオペレイトを分からないなりに使っているうちに、「ああ、この本のこの部分は専門用語で書いてあるがこのことか!」とか「なんや、難解な言い方をしてくれて、要はこういうことなんかい!」という感覚になる。これらはぶちあったった「難しい」をひとつづつクリアしていく最短のアプローチのように思います。このことは、仕事の面でも日常生活の面でも意外に多いと思うので、また、ひとつひとつ例を上げて独り言でピックアップしていきたいと思います。

 というのも、最近のテレビで「ユーキャン」のCMに蒼井優ちゃんが登場しているので、どうも「資格」とか「公認」という言葉を今一度口に入れてみようかなと思い始めています。この程度の理由ですが、意外とこの程度の理由が大きな世界へ踏み出させてくれる場合が多いことも事実。

6666ビジター、62008ビュー。

 2010年1月の「スギノのノギス」ブログは過去最高のアクセス結果でした。ガチで嬉しい。今年の5月で3年が経過するのですが、初めは緩い気持ちでスタートした「スギノのノギス」ブログでしたが、やはり、はまってしまいまして、気がつけばコンスタントに毎月30投稿以上のペースで現在たぶん1200投稿以上していると思われます。「何を書こうかなぁ~」「どんなブログにしようかなぁ~」「コメントってなかなか頂けないなぁ~」と緩~く続けてきたのですが、それでもいろいろな方から応援のメッセージをいただけるものですから、ここまでブログの樹に登ることができました。おだてられると何でも嬉しいってこと。続けることが大切ですと、いろいろなブログを運営している有名どころの書籍を読むにつけ、「結果が出るのは時間がかかりますが、続けることが大切。」という言葉を信じてここまで来ている感じです。

 で、1月に訪れていただけた6666人のビジター様には感謝感激です。これは何よりもモチベーションになりますし、「ああしたいこうしたい。」もたくさんあるので今後もこの調子で軸のぶれない、でも、道草もいっぱい・・・というテイストでアート・デザイン・クリエティブについてのオモロイ・タノシイを書き綴っていきたいと考えております。何よりも楽しいというわけではありませんが、ブログが手に馴染んでくると、頭の中が整理されたり、それまで見過ごしていたサインも丁寧に拾うクセがつきます。これは、自然とそうなった結果でそれほど無理をしているわけでもないのですが、自然と時間を見つけてキーボードに向かっている感じが心地いいです。

 しかし、6666の訪問者のこの数字は何かを意味しているのだろうか・・・?。