情報収集だけでは学習とは言わない。

 私が大好きな日本のモノカキさん(モノカキさんとカテゴライズしてもいいのだろうか?)、養老孟司さんの「まともな人」本分からの抜粋です。特に素敵すぎる洞察だったので・・・。「学習とは文武両道である。両道とは二股を掛けているということで、それぞれべつべつにという意味ではない。脳でいうなら、知覚と運動である。知覚から情報が入り、運動として出ていく。出て行くが、運動の結果は状況を変える。その状況の変化が知覚を通して脳に再入力される。こうして知覚から運動へ、運動から知覚へという、ループが回転する。そうしたループをさまざまに用意してモデル化すること、これが学習である。たとえば散歩する。一歩歩くごとに視界が変化する。その変化に合わせて、次の一歩を踏み出す。幼児はこうして自己の動きと知覚の変化、その関連を学習する。成人はこうした変化をあまりにも当然と思っているために、それをまだ学んでいない状態、あるいはそれができない状態を想像することがない。」とある。この短い文章の中に込められた無限の英知は計り知れない。この視点をどうして手に入れることができるかという部分に気持ちがフォーカスされて、養老さんが言いたいことの本質にはそれほどテンションが上がらない。この書籍に関して言えば、書かれている一次的な考察や分析よりも、何故ここに至ることができるのかという部分を読み解くためにこの一冊には非常に意義を感じてしまいました。

 つまり、情報をモニターから目で見ていることが脳の中(便宜上)で新しい運動(アウトプット)に変化されてそれがまた違う情報になるテイではそれを学習していると言えるが、さて、表示されている文字群から改めて何を得ているか、具体的に何をインプットしているかと言えば、もしかして、「モニターを見ている自分自身」止まりで、頭にはたくさんの文字が入っているだけで、閲覧しているだけでは、その情報は情報から覚醒していない。もっと、なんらかの手法で拡散して分解して化学反応を起こさせるために自分の中に取り込めってことでしょう。そうして初めて多くの情報と学習が連動されるのでしょう。

 つまり、WEBを創るという仕事の一番本質の部分であり、仮にもWEBのプレゼンテーションの企画書らしき内容の中に、作成目的として「~に行ってみたいという気持ちを起こさせること。」とか「閲覧者にとって~プラン化の材料になること。」などと書かれていても、決して、笑ってはいけない。たぶん、このテイの企画書を記述した方のモチベーションはここが天なのだから。それ以上を別アングルで嘲笑しても、それこそ、学習には至れない。だから、この文字を自分なりに一旦口に入れて消化を試みることが大切なのでしょう。そして、ひとつのループとしての結論が新しい運動としての表現手法をアウトプットすればいいのでしょう。つまり、ワクワク・ドキドキしない人達が「プレゼンテーションなんだから例えばこの企画にどんなワクワク・ドキドキが展開できるのか具体例をご提案してください。」と語尾を上げられても、この瞬間で実は全てがEND。もう、この場合、共通言語が存在しなくなる。もうその段階でそれは「ワクワク・ドキドキ」ではなくなっていることに気がつかないタイプの人間だからです。学業と向き合っているつもりで情報収集だけしてきて、本来の学習をされてこなかった人達。つまり、日本の英才教育の中で知識を詰め込むことが学習だと誤認識させられ、それに大切な時間を費やしてきた方たちの寂しい心の叫びなのである。実は。とても残念。残念過ぎてこちらが言葉を失う。

 「学習」の本質は実に深い。