若者像について。

 新聞の記事にこうある。「若者がモノを買わなくなった。最近の消費行動から浮かび上がる若者の「元気のなさ」は、厳しい経済環境への自己防衛だと考えれば、わかりやすいかもしれないが、どうもそれだけではなさそうだ。最近相次いで刊行されている若者の生態を描いた書物によれば、若者の消費離れの背後で生活スタイルのより深い変化が進んでいる。車を欲しいと思わない、ブランド品に関心がない、酒よりもスイーツを好む、休日は旅行や遠出をするよりも自宅の近辺で過ごす、今を楽しむよりも将来に備えて蓄積する・・・。」また、「家族や友人との親密な関係を維持するために、贈りものを交換し、メールよりも親しい友人との対面でのコミュニケーションを求めている。あくせく働いて地位を高め、それを象徴化するような消費をするよりも、まったりとした、穏やかな暮らしを目指している。」とある。

 また、別の見解として「若者には偶然を活用できる力がなくなっていると分析する。しかし、リスクを回避しようとして、達成可能な範囲で目標を定めるような生き方では、予期せぬ出来事をチャンスにかえることはできない。そのため、彼らは自分の人生を自分で決めようとして、逆に状況への柔軟な適応力を失っている。」ともある。また、別の方の意見として、「人間関係の網の目に埋め込まれてしまった若者は交際人数も交際回数も多くならざるをえない。従って、現在の状況は消費が冷え込んでいるというよりも、いくつものネットワークの中で村八分にならないために「小さな消費」を大量にしている。」とある。

 つまり、このような社会を生き抜くには「空気」を巧みに読む必要があり、他者が自分の姿にどのように反応するのかを想定して、あらかじめ修正を施した自分の姿を相手に示して、ネットワークからはじき出されないように振る舞う必要がある。当然、自己主張は控え目になり、とても、「元気がある」とはならないのだそうです。そして、さらに、このようなネットワークの中では「既視感」が蔓延している。経験したことがないのに、どこかで経験したことがあるように錯覚してしまう現象。実際に行っていないハワイに関する多数のブログのコメントを読んで「ハワイはつまらない」と評価する。そうなると、実際の行動範囲は自宅近辺だけで、個人としての器は十分に満たされる仕組み。

 これらのことが、どこまで現実に起こっているかはある程度の信頼性をこの方達の記事の中で読み取りたいという気持ちはあるが、逆にその視点を少し位置を変えればそもそもの消費の在り方が別のベクトルで再構築されようとしている、もしくは、これは新しいコミュニケーションのスタイルであり、これは肯定も否定もできないのではないだろうかと感じてしまう。何が最適かなど人の数だけあり、それらがどのような方法で共鳴しようが、心が何を感じてどの潮流を取り込むのかという部分まで考察し方向性を示すことはただの「奢り」ではないだろうか。「元気」のことでいえば、例えインターネットの中であれコミュニケーションの活性化が起こっているならそれもひとつの「元気」である。現代の若者がどうのこうのという前に世代とは常にどこかで連動しているのだから、突然「元気のない若者」増えたわけではないし、これが推移しているとしても、だから、その一部分にフォーカスして、偏った洞察を展開することは言論の自由のまさに「奢り」の側面である。この世界に存在する絶対熱量があり、温かいモノから冷えたモノへ熱量が伝導し、元気の対流が今も季節風のように吹いているなら、その熱が起こす風が見えていれば、今この瞬間自分を見失うことはないだろう。生きているとはその程度でいいのではないだろうか。

 大義は大義を生み、欲求はさらなる欲求を生む。個体としての心の在り方とは過去と未来の間の現在をどれだけ五感で感じ取れるかに尽きるように思います。