2010年03月 アーカイブ

近江長浜子安地蔵講公式WEBサイト。

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 最近公開させていただいたWEBサイトのご案内です。やはり、どんな時代でも世界共通なのこと。それは古今東西絶対に変わることがない。子どもこそが宝。妙な世の中、様々な価値感が蠢く現代において見失いがちなこと。それは、人間本来のまっとうするべき道を見失うこと。経済や文化や政治が混沌としている現代だからこそ、子孫という最も価値のある存在を改めて考えさせていただけた素晴らしいお仕事でした。皆様もぜひこのサイトを広く訴求して頂き、ひとりでも多くの子宝に恵まれない方へ繋がればと心から願います。

詳しくはこちらをご覧ください。http://www.kodakarakigan.com/

応援されるクリエイター!?

 毎日毎日このテイのメルマガが到着する。「教育・研修制度が充実!クリエイターのスキルアップを応援する企業。今回は「教育・研修制度が充実!クリエイターのスキルアップを応援する企業」をテーマに厳選した優良求人をお届け!あなたがずっと探していた求人情報が、見つかるかもしれません。自分の志向に合う企業を是非見つけてください!」って、企業はクリエイターを応援しすぎ!?そんなに世の中のクリエイターは応援されないとスキルがアップしないのか?そんな学業のフィールドにいない応援席大学の学生さん達じゃないんだから、そんなに応援されて本当のスキルアップ!?って感じ。でも、振り返ると自分達もいろいろな企業さんに応援されていろいろな見聞や技術を身につけさせてもらったのか・・・って、そんなわけないじゃん!!!

 不用意にノリツッコみしてしまうほど麻痺しているこのいたるところで展開される応援・支援モード。これはもしかすると応援とか支援の枠を軽く超えて、介護のクラスに陥っているとかいないとか。

 いまさら、どうあるべきなど論じる必要性も薄い時代かもしれなが、クリエイターならそれらは自分で構築しなさいよ。これまた多面的な見解ですが、自分でとは、自分でコミュニュケートしてという意味で、孤立してモヤモヤと幻想の想像の世界でスキルアップの神様とマンtoマンで鍛錬しないさいという意味ではない。

 仮に応援されてスキルアップしたクリエイターは逆に便利ですよね。育ててもらったフィールドの中でしか生きていくことができないから。保護区の中でどれだけ自由に羽ばたける飛翔能力を得ても外敵のいる外のフィールドに出たらガブリ。弱肉強食のためのスキルが身についていないことを最後の瞬間に思い知るだけ。でも、傷は増えるが生きるためのスキルを身につけるということはそのクラスのお話。まず、この広告の文脈がyesなことに問題があり、その売り文句の詳細の信頼度合いが高い人ほど何か広い視野が欠けているということだろう。

 応援することはとても素晴らしいこと。だけど、応援の多重性について知る目線も大切である。

仮想過去の定義。

 「仮想現実」はいたるところに氾濫・飽和・充満している。が、それぞれに細かく分解していくと、まず、「仮想」とはいったい何を指しているのか?「現実」とはいったい何を指しているのか?という疑問に分解でき、さらに、「仮想」をウィキペディアにならい「仮想化という用語の起源は古く、1960年代には既に広く使われていた。ネットワーク全体や個々の機能やコンポーネントなど、コンピューティングの様々な面に適用されてきた。仮想化技術に共通する目的は、カプセル化によって「技術的詳細を隠蔽する」ことである。仮想化は、例えばアクセスを多重化したり、異なる物理的位置にあるリソースを統合したり、制御システムを単純化したりすることで、根底にある実装を隠蔽した外部インタフェースを生成する。近年、新たな仮想化基盤や仮想化技術が登場し、この円熟した概念が再び注目されるようになってきた。抽象化やオブジェクト指向などの用語と同様、「仮想化」という用語は様々な文脈で用いられる。本項では、これを主に以下の2つに分類して解説する。」としても、やはり、ここでさらに2つに分類している。

 まず、この段階で気になるフレーズは「技術詳細を隠蔽する」の部分である。利便性を見える化し技術背景を隠蔽することが=仮想化であることは間違いないようである。他の考察についてはさて置き、目的のためにその手法や論法を隠蔽し、目的のみをコンピューティングの中で体験できたように錯覚させることが言わば仮想の本来の目的のひとつであることは否めない。

 で、ふと気になるのが、「歴史」である。国内に氾濫する数多の歴史的な資産。歴史小説が氾濫し、人物像がクローズアップされ、それにいかにして浸るかというベクトルに終始した体験で多くの人々がアクションを起こしている「歴史」という価値観。古き良きなんとかに群がるサティスファクション。が、最近海外のテレビプログラムを観ていて思うのは、日本の歴史ってどこまで真実なのか?すべて、仮説ではないのか?という疑問。つまり、現実も仮想化なら歴史=過去も実は大義的には仮想なのではないだろうか?しかし、「仮想過去」というフレーズでグーグルやYahoo!にヒットするページは非常に少ない。つまり、過去=仮想で片づけられているからか、そもそも、過去=歴史を何かの都合で隠蔽したいから、そのフレーズが極端に少ないのか?その視点があれば、何かそのルートでビジネスモデルが動くはず。しかし、数多の歴史博覧会の根底が揺るぐこのフレーズはもはやこの国ではタブーなのか?触れてはいけない琴線だとしたらこのブログは隠蔽されるのか・・・?

 余談ですが、「仮想未来」なら、大丈夫なのだろうか?

ドングリの芽。

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 昨年の秋に近くの運動場の並木の下に落ちてたドングリ。それを、冬の間、土に埋めておいた。冬の間はなんとも反応がなっかったのに、この前のちょっと暖かい日が続いた時、ふと、その土を見たら小さな芽が出ていました。そこから2週間ほど見守り、30個ほど土に埋めたドングリの実から少しづつ反応が。その中の一番最初に芽を出した奴をそっと植木鉢に移しました。ここでそこそこまで来たら地面に植え変える予定ですが、そこまで、会社で毎朝見守ろうかな・・・と。へぇ~ドングリの芽ってこんな葉だったんですなぁ~。12へぇ~である。

P.V.3D入門。

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 ざざっとですが、基本説明~機能別リファレンス~応用編と非常に展開が見える内容になっています。もう少しプログラムの構成や設置方法について詳しく記述してほしい気持ちもありますが、そこはサンプルソースを見てくださいということ。また、FLASH-CS4についての操作方法についてもほとんど記述していないので、これはかなりなレベルの方でないとムズカシイ。その上、3Dの基本概念についてもやはり基本説明だけで深くは記述されていない。これをFLASHでとなると完璧に3Dの概念やカメラワークやレンダリングのこと、ポリゴンのこと、マッピングのこと、ライティングのことなどなどを理解した上で、しかもコンパイルするまで実像が見えない状況ではかなり3Dの知識が必要だろう。世の中はやっと3D3Dと騒ぎはじめた感覚があるが、ゲームの世界ではあたりまえ、それに、専門分野ではたぶん30年以上の歴史があるはず。だから、さて、WEBでグラフィックデザインで映像でプログラムで3D技術を使うことに対してソフト的にもプラットフォーム的にも引き出し的にも用意・準備はできているが、ただ、それとFLASHの組み合わせとなると四苦八苦していたので、このようなフリーライブラリーが広く出回るのは嬉しい限りである。オモロイモノが創れそうです。

社会における上達と規範の相関関係ついて。

 単刀直入ですが、安易にお手軽にこれだけやればグイグイ上達するという方法論ではありません。そもそも何を指して「上達」とするのか、大学や専門学校でのチュートリアルが緩いのは緩かったのは、あくまでも一般的なレベル(学校用)を目標値にしているから、基礎と言えば基礎なのであるが、応用編となった場合も基礎の延長から離れられないものだから、というよりも、それを教授する連中のポテンシャルが同じ(ワンパターンという意)だから、基礎から応用が基礎1から基礎2になるのです。仮にFLASHというソフトウエアのスキルをより現場レベルで即戦力に近いレベルまでなれるのなら、それはよほど教える人のテクとキャリアとポテンシャルが高いのケースだろう。でなければ、到底、学校の教授陣達に期待してはいけない。ある一定の囲いの中でフワフワ過ごしている保護されているトキと隙あらば相手の喉元を噛み切ってやろうと牙と爪を研いでいる野生のイタチとの差。

 何事も本来の「上達」とは、保護された囲いの中のお話ではなく、あくまでも、外の野生のエリアの中で生き延びるための技の一種であるのだから、牙や爪のない方には喉の噛み切り方など到底分からない。まず、これが「学校」と「現場」に存在する明確なテンションと諸条件の違い。

 で、学校過程を終え、そろそろこの春の季節、新しい職場でスタートを切る方も多いはず。その皆様がそれぞれの職場でそれぞれのポテンシャルを発揮されるまでどうしても個人差はあれど、ある一定期間が必要です。この期間は研修期間などと呼ばれているのですが、そもそも、社会に出てまともに研修期間を経てきた人間ではないので、私自身はこのあたりが非常に不透明なのですが、新聞などを読んでいると、学生の頃にアルバイトをしていた人間と学校で勉強を頑張り過ぎた人間とでは、あきらかに前者の現場での能力が高いとある。それは確かに実感できる。学生だから学校で勉強するのは当然ではあるが、諸事情でバイトをしてきた人やこずかい欲しさにバイトをしてきた人は、自主性が高く、しかも、自己を与えられた条件下で適応させる能力があり、しかも、自己管理能力も備わっている場合が多いように思う。に比べて、自宅と学校の往復だけの人はいい意味でも悪い意味でも「マジメ」で、これらの能力は皆無に近く、しかも、表情に余裕がなく、人間の器が小さい。たぶん、正確には大きい小さいではないのだろうけれど、大きいか小さいかと聞かれれば小さい。

 つまり、社会に出るということは、自分自身の中に明確な目標がなければ出てきてはいけない世界。目標値を与えられていた学校時代と同じベクトルで会社に目標を与えられて、それに向かって猛進するにしても、それを自分の目標値に置きかえる視点が必要であり、目標が1人称なのか、2人称なのか、3人称なのかで保持しなければいけないエネルギー量が異なるはずだからである。つまり、全体の構図的に言えば「社会」とは「学校」をも包括していた外の大きな円なのである。当然、規範は異なり、自己の円を構図的にどの配置にているかで、必然的に「社会」と自分の相関関係が決定する。さて、では、本来の「上達」とは自分自身にとってどの程度の意義があるのかも同じ方程式で算出できないだろうか・・・。

白い葉???

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 もう3月末なのに寒い寒いと車を走らせているとふと山の中腹に1本だけ白い木を発見。正確には白い葉?花だけ?白いサクラ?なのかもしれないが、他の桜はまだ咲いていないので違うし、一本だけぽつんと白い葉の木って何?仕事中だったので現場に登って確認はできませんでしたが、なんとも不思議な木でした。しかし、機会があればあの白は何だったのか確認したい。これは何の木か?何の花か?ご存知の方おられません?

素敵なホームを見つけた。

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 天気も良かったのかもしれない。メンバーに恵まれていたのかもしれない。日頃の行いが良かったからかもしれない・・・。とにかく素敵なホームコースが地元(滋賀県)で見つかりました。なぜ、もっと早く、ここに訪れなかったのか・・・。S氏さん、H氏プロさん、お疲れさまでした。次は南のO氏と4人でガチでっせ!!!

名刺を整理するアプリ!?

 アナログ人間だから疑問に感じてしまうのかもしれませんが、iPod/iPhoneのCMで「名刺を整理するアプリもあるよ!」と言っていた。うん?それは何故どのような場合に必要なのか?アプリがなくても名刺は名刺で整理したらええやん!とつぶやいてしまいました。それに、整理しなければいけないほど名刺交換をする人は人脈もネットワークも幅広い方ですから、そのクラスの皆さまはしっかり自分の整理術を心得ておられるわけですから、別にアプリでどうするということに反応する人はさて何%いる?名刺交換をあまりしない人にしてみれば、名刺を整理するということの重要性にピンとくるのだろうか?まして、学生の皆さまなら名刺は無縁のはず。つまり、このキャッチコピーは何を暗喩しているのだろう?つまり、ゲームばかりではないですよ、ビジネスモードにもiPod/iPhoneのアプリは十分に対応されていて、実際に多くのハイパービジネスマンの皆さまも使っていますよ、だから、iPod/iPhoneは優れた商品ですとでも言いたいのだろうか・・・。ならば、かなり、先入観をコントロールしようとする節だらけ。う~ん、残念。

 電子書籍もヒートアップしてきましたが、アマゾンの仕掛けの本質は、そもそもソフトを販売してきたノウハウが本流のはず。それを、ハード込みで市場を確保しようとするために、著者の権利を保護してなびいていただこうとしていないか?サーバから落ちてくるテキストデータを端末機でスクロールしながら見ていてはたして五感が刺激されるのだろうか?ここに注目しないで、ルートだけ整えようとして過去に失敗したフレームがたくさんあるのにもかかわらず、それでも、電子書籍という価値に依存しようとする背景の背景にはいったい何がある?たぶん、危機感しかないだろう。

 オンラインの仕組みに有益な課金システムはたぶん今後どの分野ででも登場することはないという仮説を読んだ。期待しても実はただの技術だから、スムースな課金価値を構築することはできないという結論である。詳しくその分野の詳細は知らないがボワァ~とならその仮説の信憑性に投票する。数多の目新しい売り言葉が実はピカピカのメッキだったことに気がつくのにさほど時間はかからないだろう。デジタルコミュニケーションと言えば聞こえはいいが、本質的にコミュニケーションであることには違いない。なのに、メッキでキラキラさせて食いつかせてそこに課金価値を見出しているビジネスモデルは多分次の瞬間0になるだろう。想定以上に時間の流れは早いと知るべきである。だから、訴求力を上げるためにメディアが活性化されることはいいことだろうが・・・。

アイディア術について。

 仕事柄、常に新しいデザイン表現についてアイディアを貪欲にリサーチしている。それは、具体的にどの程度でどの分野に強いか弱いかなどのムラはあるが、この仕事ならではの視点で時代の流れから離れぬよう努力している感じです。しかし、人間の頭であることから、気分や体調で仕事に対するモチベーションが浮いたり沈んだりはする。効率や品質を常にいい状態にしたいとも考えているが、なかなか、心の中の頭の中のベルトコンベアーはロスが多い。しかし、長年それに携わっていることで大きな問題にならぬよう、流れが沈滞せぬよう、ルーティーンワークを展開している、つもり。が、これについても、決して安泰などない。ここで終わりというゴールはたぶんどの仕事についても存在しないだろうし、時代は常に動いているわけですから、自分の仕事だけここまでやれば安心というクラスが存在しないことは周知の事実である。また、逆にそうなったら、そういう仕事だったら、この仕事はチョイスしていないだろうし、必然・偶然とかではなく、この道の上にあった、そして、こらからあるだろう、アップ&ダウンを心のどこかの部分で楽しめていないのなら、必然でも偶然でもなく、意味も意義もなくなる。

 で、アイディアについて。どこからアイディアがやってくるのかというお話ですが、それは、未だに不明である。そのテイの書籍をこれでもかってぐらいに読み漁っても、こうしたら素晴らしいアイディアが湧き上がるや、こう考えたらこんな素晴らしいアイディアを想像できますよ的なアプローチは存在しない。逆にそんなマニュアルが存在しないからこそ、生まれた時の感動や感激がそれに繋がるのである。つまり、それが「アイディア」の本体・実体であることを見誤ると、「アイディア」自体を誤解し曲解してしまい妙な箍に縛られる。縛られることでフレーム化することで、ルーティーンが目に見えるという仕組みはそれこそいろいろなところで巨大なコストの元、実体をとにかく書面化して安心したい人たちの手で作り上げられてそれらが日々どこかで機動しているが、それは、実は、どこでもできることの範囲から新しい創造への的確なアプローチであることにはまずならなない。これが、大きな大きなジレンマ。

 「アイディア術」なんて錬金術と同じ。すでにある何かを何かに変えることなので、何かが何かを見極める目とそれをチョイスする判断力と等価交換させる接着力がその内訳とも言える。つまり、いつ舞い降りてくるか知れないモノを見極め、今、アプローチしようとするベクトルにどう活用・適用・転用できるかを見極め、チョイスしたなら、そのパーツ・エレメントをどう組み立てるかを24時間365日考えられれば、それが、それしか、「アイディア術」と呼べないのではないだろか。それが、メンドい人はクリエイターにはなれないだろうと思います。とは言え、これもまた、自分自身がいつもいつも最適な状態でアイディア術を活性化させているかといえば、・・・でもある。確証のない、安泰のない、先の見えないことへのリスクと、その道を選んだからこその、これまた目に見えないアドバンテージが今この瞬間感じられているか否かしか確信はない。それが、「不安」で地に足がついてないと感じるなら、たぶん、この仕事が向いていないと感じただろう。しかし、そんな紆余曲折・右往左往・思考錯誤が楽しい仕事はそう世の中にないだろうぐらいのヒラキナオリはあるからこそ、この仕事の適正値で言えば天職なのかなと日々頑張っているわけです。

 今、学生で社会に出て、クリエイターを仕事にしたいと感じている人がいて、こんな時代、仕事を何にするべきかの指針で悩んでいる人に、決して、デザインやアートの仕事を進めることはしないが、本質が見えず、迷っているなら、先が見える見通しのいい世界よりも、いきなり暗闇手探り状態の世界の方がオモロイですよ、とは言える自負があります。正確にはそれは自負とは呼べないかもしれないが。

 3月から4月の季節に思うことは、20年以上前、新宿でこの世界のドアに手をかけた時の気持ちである。今でもそのドアを開ける前に自分に確認した記憶が鮮明に蘇る。「さぁ、このドアを開けるということは、そういうことだからな・・・。」と自分に確認したあのドアの前。

やっぱり、P.V.3Dにしよう!

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 どうもアクトのWEBサイトのリニューアルデザイン案とメインテクノロジーとアイディアが決まらぬ。これが決まらぬから次の情報紙S.O.S.第27号の企画・編集モードにならない、だから、その次にやりたいプランが少しも進まないという、この、アクトのWEBサイトのコンセプトと表現がなにやらずっとボトルネックになり中から何も出てこない。ボトルネックというよりもラムネの瓶のビー玉状態。今回のこの決め手は言わば、ビー玉をグイッと押し込むとラムネが中からプシュー!!!と出てくる前の感じ。入手してサンプルソースコードはすでに何度となく昨年の暮れあたりからチマチマとやっているのですが、それが、チュートリアル中心で応用編がない書籍だったのですが、この2月に発見したこの書籍はわずかばかり応用編がある上、チュートリアルサンプルもなかなか具体的で活用できそうなサンプルが多い。前の書籍では「どうしたら改造できる???」が常にあったのですが、今回発見した書籍ではそれらがより、FLASH-DEVEよりに応用のテイで記事がチョイスされ、著者の活用術のベクトルも非常にストライクゾーンが広い。まぁ、それらの理由でこの書籍は買ったのですが、にしても、魅力的な応用編がけっこうありましたね。その中のサンプルはこちらです。

 これらをチマチマと改造しながら、新しいコンテンツ開発に取り組んでいます。

詳しくはこちらをご覧ください。Papervision3D-sample

プログラム言語で広告を・・・。

 あるソフト開発会社がソフト開発用のプログラム言語のみで記述した人材募集広告や募集要項を使った採用活動を開始したらしい。広告の内容を「解読」できる生徒を集め、研究職を効率的に採用する目的らしい。実際、そのプログラム言語を解読した学生が応募し採用にもつながったらしい。ソフトのプログラム技術に優れた人材を非常に効率よく集められる、ある意味非常にレアでディープなアプローチではあるが、今後のいろいろな分野・カテゴリー・フィールドでのアプローチはたぶんこの方向だろうと感じた。

 まず、プログラム言語が解読できるできないではなく、募集であることやプログラム言語に興味を持ち、そのようなアプローチをしてくる所在に興味を持ち、最低レベルの知識と能力を持っているからこそ、このアプローチに反応する。これこそが、ワクワクドキドキの本質である。学生達に消化のいい離乳食をあたえてカワイイカワイイで緩い4年間を与え、4年間分の学費で経営が安泰・・・みたいな大学はすでにもう大学機関ではないし、そんなことも気がつかない連中が教授ですって浮遊している空間でその人の一生を左右するような充実した時間が過ごせるわけがない。本末転倒のステレオタイプである。そんな緩くもレベルの低い取り組みをして、ワクワクドキドキしているのは実は学校サイドの人間だけ・・・?みたいなことになる。このプログラム言語を社員募集の広告に使うぐらいの練り上げたアプローチはいろいろな意味で挑戦だったかもしれないが、このベクトルは確実に採用する企業側もそれに反応する学生側もレベルの高い等価交換をしている。離乳食アプローチとはまったく異なる。

 で、もしこれが芸術やデザイン系の企業だったら、広告に一切文字がなし。エッシャーのようなピカソのようなダビンチのようなアプローチでその中にメッセージを隠し、それに反応する人を選りすぐるということになるのだろうか?「遊び心」と言ってしまうと、クオティティーが落ちるような語感ではあるが、練り上げた「遊び心」こそ実は想像力に溢れ先見性と訴求力を含有する素晴らしいアプローチだと思う。

1億人の発信者たち。

 誰もが発信ツールを得て、デジタルの海に向かって、書き込む、つぶやく、叫ぶ時代。ある識者が言っています。「今言葉を発している人には受け手が見えていない。日本語は子どもでも使えるという誤解があると。」この場合、子どもという例えが何を指しているのかは置いておいて、受け手を無視した言葉が実は情報の実体で、主体も客体もなく、ただ、二酸化炭素のように言葉がサーバにた蓄積されていく。そんな無駄な情報の地層の上に、はたしてどんな文化や歴史が構築されるのだろう。時代の流れと共に圧力で石になりそれを道具にまたマンモスを追いかけるのか?

 つまり、バランスが必要だということだろうし、下手な鉄砲を打ち過ぎてもう弾丸がなくなっているのが普通なのに、この時代はピストルも弾丸も仮想だからなくならない。その煙が雲になりクラウドって話。世の中はその煙でもうもう。風が吹けば普通は視界が澄むはずが、あまりにも煙の密度が高く次から次へと大砲を打つものだから、風が逆に煙を運ぶ構図。これでは、目標を見失うだろう・・・みたいな。

 で、「伝えよう」「伝えたい」という言葉だけが循環する場所まで行けばたぶんこの煙は回避できるはず。そこは、海底なのか高い山の頂きなのか?平野部からそこに行くにはやはり時間とギアと手法がいるということだろう。1億人の声や言葉が一端化石になるまで、蓄積したらそれを掘り起こして博物館に並べるというビジネスも出てくるだろう、いずれ・・・。

モチベーション3.0!?

 ある雑誌の特集記事が「モチベーション3.0~これが新しいやる気のかたち~」とありました。モチベーション1.0とは食べるため、モチベーション2.0とはおカネのため、そして、モチベーション3.0とは?という切り口です。「おカネに基づく成果主義は創造力を破壊する。」という提言をしています。そして、創造力のシンボルのようなアップル社やグーグル社のことを例にとり特集記事が展開されていく~みたいな紹介でした。う~ん、新時代はモチベーションもバージョンアップするのか・・・と。

 で、これはいったいどこの国のお話で具体的に誰が記事を書いている?がとても気になるところ。結局、コピーキャットが書いているなら、たぶん、言葉に重さがないだろう。どこかのそれらしい記事をアレンジしなおしているのだとしたら、それも残念なこと。成功例には実はあまり学ぶべき要素が少ないと私は考えているので、都合のいい美味しい上手いお話の真価は意外に空洞なことが多く、もっと、フラットで自然体のお話が好きなので、たぶん、このキーワードではこの専門誌を買う衝動には至らないと思っております。そもそもモチベーションが1とか2とか3とかってオカシイ。数値化しているのは便宜上。便宜でモチベーションが語れたらそれは実はモチベーションじゃないのでは???

S-1グランプリって何?

 先日、ココイチみたいなテイで賞金1億円を目玉に開催された「S-1グランプリ」。いったいあれは何だったのでしょう?出場メンバーをチェックしてかなりテンション高めで観ていたのですが、ちょっとこれはいったい何をしたいのか?不明すぎて開始10分ほどでテンションが0になりました。お笑いのタレントさんたちのポテンシャルが高いのは他のグランプリ系で間違いない地位を獲得している。にもかかわらずさらに賞金金額を上げてガチでジャンルを超えて何かさらに権威を創ろうという意気込みはなんとなく理解できたし、だから、期待もしたのですが、やはり、練りが甘い。たぶん、視聴者は芸人さんたちの優れたステージを楽しむというよりも、投票して当たるかもしれない100万円がありきだったような進行状況。これでは、番組が成立するはずもなく、そうそうたるメンバーであるにも関わらず、その仕上がりはひどい、ひどすぎる展開でした。フレームと賞金だけ決定してあとはMCのあつしさんだのみ。ただ、それだけでこのテイの番組が成立するとでも関係者は考えたのでしょうか。仮に、誰かが1億円をゲットしたかもしれないですが、M-1やR-1の1000万円の方がはるかに意義・意味・価値がありますね。

 昨今のテレビ番組企画のこの緩さはたぶん、スポンサーありきで、制作している人たちがスポンサーに気を使って本来のテレビメディアならではのライブ感やリアリティーを度がえしにして、予算があるから何かを創ろう程度のテンションだから賞金は1億円かもしれないですが、番組としてここまでも不成立となってしまうのでしょう。あつしさんならそれは事前におそらく120%気がついていたはず。にも関わらずあつしさんでさえ、スポンサーのマリオネットになっていた。あれだけ独自の世界観をテレビで築いているあつしさんでさえ・・・である。とても残念でした。

 あれは、タレントの価値を殺してしまうとても緩い番組でした。残念。

デジカメ小さ!

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 本日、ケーズデンキ様でデジカメ購入。妙なタイミングで本日5個限定の決算セールで5個目の品。しかし、小さい!仕事では一眼デジタルを使っているのですが、これはこれで重い大きい。ので、コンパクトサイズをずっと物色していたのですが、このタイミングでゲットしてきました。う~ん、今更ながら便利なギアになりそうです。

クリエイターの適正検査。

 こんな時代だから「検定」「資格」「公認」が目を惹く。手に技術や公的なキャリアを取得してよりグレードの高いランクの高いクラスの高い仕事をしようということだろう。しかし、ユーキャンやオンラインで展開されている人材バンク的なシステムは本当にどこまで機能しているのだろうか?結果、ビジネスモデルとしてはとても有効な仕組みであるだろうという予測はできるし、実際、目に触れる機会がオリコミチラシやダイレクトメールやテレビCMを見る限りかなりニーズが充満している印象。それは、やはり、こんな時代だからよりいい条件の職場や仕事を手にするためにいろいろな人が頑張っている。頑張らなければビジョンが手に入らないということに気がついたのだろう。しかし、それは、今この時代だからということでもないだろうし、昔から同じようなことはあったはず。経済が不安定になり、厳しい時代になったから「検定」「資格」「公認」にトライしていて、さて、いったいいつそれが手に入るのか?という疑問である。それなりに費用も時間も必要なわけですから、最終的な目的を手にするために必要なコストとの効果のバランス。そして、いつ頃それが手に身につくのかという時期的な部分をどこに設定するのかをどこまで自分のモノにするのだろうか?この部分、実際のところ、かなり緩い設定になっていないのだろうか?という不安も感じる。

 で、自分自身の仕事で言えば、クリエイター・デザイナーの仕事の適正とはなんだろうと考えてみた。それは、いろいろな要素があるだろうが、少しこの部分について、何回かこのブログで自己分析してみようと思います。「三度の飯よりも絵が好きだからクリエイターだ。」というわけではないろうし・・・。

三歩さんが小栗旬さんか・・・。

 映画「岳(ガク)」の主演とヒロインの発表があったらしい。三歩さんが小栗旬さんか・・・、と思った。そして、久美ちゃんは長澤まさみさん。これはしっくりきました。ただ、マンガで三歩さんという主人公はそうとう大きい男である。身体のサイズもしかり、心もそれこそ山ほど大きい存在として、山に訪れる人たちとの触れ合いが生死のボーダーライン上で時に過酷に時にヒューマンに展開する素晴らしい物語の連続。その中心に映画となった場合に誰がいてほしいとイメージした場合、もっと、マッチョな自然体系の俳優さんかと思っていたのが、小栗旬さんだと知り、ちょっと、いろいろなサイズ的にコンパクトな俳優さんをチョイスしたのかと最初は感じた。しかし、この画を見てみるとなんとなく、小栗旬さんはしっかりと三歩さんを演じられるのだろうという安心感を少し感じた。一映画ファンだから好きなことは言えるが、やはり原作のスピリッツをスクリーンで観たいから、画的なことやトータルで役者のとしてのポテンシャルなどを判断して監督さんは小栗旬さんに確定されたのだろう。ただ、雪山の厳しいシーンもあるそうですが、その時にどこまであの原作「岳(ガク)」のリアリティーを映像にされるのだろう?期待がかなり大きくなる。同じ系統で言えば、ホワイトアウトやミッドナイトイーグル、そして、容疑者Xの雪山シーンなども結構リアルだったが、「岳」はまた違ったテイストがある。マンガの中であれほど作者がリスペクトした死体の描写は他のマンガではあまり見たことがない。死体を描くということは、とても勇気がいる。もうその身体に生命が宿っていないことを知った上でそれを絵のモチーフにするということは、画家は死を一旦心の中に受け入れなければいけない。でなければ、死体を描くことはできないと思う。

 長澤まさみさんで言えば、やはり、「世界の~」が第一印象なので、その間、現代劇や時代劇やテレビドラマなどで観ているが役としてはまっている感じがない。つまり、第一印象が亜紀だったからである。さて、映画「岳(ガク)」の久美役もこの物語にはなくてはならい存在。それを、長澤さんのフィルターがどう捉え、スクリーンに展開されるのか、とても楽しみです。自然の中でわき目も触れず生死の境界線で頑張る女性というとても大変な役です。そう考えると、他に適役は存在しないのかもしれない。花もあるしガッツもあるしという基準で。

 で、このマンガをきっかけに山を歩いてみたい。3000m級の頂きの上に自分の足で立ってみたいという気持ちがモクモク湧きあがっている事実。最も美しいモノの一番近くには厳しい生命の危険が背中合わせであると知ることを、さて、その場に身を置いたら、やはり、怖気づくのだろうか。それもぜひ体験して確認してみたい気がしています。

 二人の素晴らしい映像を今から期待してやまない。

体温とホルモンバランス。

 体温が高い人と低い人とでは高い人の方が病気になりにくく免疫力も高いらしい。体温が低いと癌細胞が活発に活動を始めるらしい。脳を鍛えたいなら「脳トレ」ではなく「筋トレ」が効果があるらしい。神様が与えた人間の体温は37度らしい。ホルモンのバランスが崩れる最大の原因は体温の低下らしい。他のジャンルなら例えどれだけ威厳のある著者がこれらのことを文章化してもさほど興味が湧いてはこないのですが、テーマが「健康」となると鵜呑みとは言わないまでもかなり興味のベクトルが敏感に活性化される。血圧と脈拍と体温は密接な関係があるのでしょうけれど、医学的な知識が0なので、何がどうなればどうなるなどという医学的アプローチはできない。しかし、漠然とこれらの関係を日頃から意識下に置いて「ストレッチ」や「長風呂」や「ちょっと駆け足」をしているだけで、なんとなく、数値的にはどうか不明ですが、健康な自覚を獲得できているように思います。ただ、癌細胞は気まぐれらしいから、たばこが原因で肺癌になったり、消化器官系が弱いので胃癌や大腸癌なども1年に一回の検診ではチェックしてもらっている。まぁなんとか、ここまでその危険信号はなかったものの、ある日突然癌細胞が「そろそろ起動してやろうか・・・」と活動を始めたらこの歳だったら3年はもたないだろう。そんなエンドレスな危機感がどうも「健康オタクモード」の背景にあり、上記のようなキーワードには特に反応してしまいます。

 現在、日本人は「健康という病気にかかっている。」という指摘もあるらしい。う~ん、微妙な気持ちです。

自分の目線。

 「人間の目線から事態の全貌を捉え、その進行方向を見定めよう。そして、将来に対応できるビジョンを持とう。」と書籍「2030年メディアのかたち」の著者は締めくくっている。書籍を読み終えしばらくこの言葉を自分のモノにするために日々の思考の中で少しずつ断片的に思い返してこの言葉を反芻していた。あながちここ最近思うことと近いニュアンスを感じて、感じたからこそそれを確認するために買った書籍だけに、その直感がドンピシャだったこと以上に収穫があり、反芻も純化作業もとても心地よかった。この心地良さが何かモノゴトを考察する際に妙に馴染ませることなく、少しずつ自分なりのフィルターを介して綴られた言葉のひとつひとつを心の引き出しに整理しています。さすが、その初期からインターネットに携わり多くの識者達とコミュニケーションを繰り返し、その上で、著者の言葉で綴られている書籍だけに言葉が重かった。つまり、言葉がCPUのなすがままにスクロールさせているだけではなく、どこか一部分に光らせたり(FLASHやJAVA.S.は使わず・・・)、言葉を立体的(3Dテクを使わず・・・)に見せるためには絶対条件として純化された言葉を綴りなさいとこの著者から投げかけられている感覚。言葉は誰でも学習すれば知識として貯めることは可能だけれど、それをアウトプットする時に同じ質量ではPCにやらせていることと同じ。人がアウトプットするには何かを込めましょうというニュアンス。吸血鬼を撃ち殺すためには銀の弾丸を込めなさいということ。さすがに吸血鬼をこの時代に限定するは難しいが、ターゲットが見えているなら、それ相当の弾丸が必要だということでしょう。う~ん、なかなか、ドンピシャな書籍でした。満足満足。適度な消化を待とうと思っています。しかし、これは書籍ならではの満足感のリアリティー。このテイをWEBで表現できれば凄いだろうなぁ・・・。

 自分の目線、自分の目線・・・である。

バイアス。

 バイアスとは「バイアス(英:bias)、斜め、または偏りや歪みを意味し、転じて偏見や先入観という意味をもつ。心理学や社会学などの統計から一般論を導く分野で使われることが多い。」となっている。何かしらのリサーチ・アプローチを試みる時、それまでの記憶や方法論が問題の解決に有効に機能する場合とそうでない場合があり、フィルター的な解釈でそれを捉える場合や、目的と手法の置き換え的な論理で表現される場合がある。また、主体と客体についても明確にボーダーを設定することは難しいが必ずそのボーダーが存在し、意識が二分になり多重にもなる。その場合、バイアスとはこれらの障害が発生することを指しているのだろう。

 では、「バイアス」は悪玉なのか?しかし、この意見にもバイアスが発生している。純化するとは本当に難しい。泥水がビーカーにあるイメージいうとやはりそれには時間が必要なのでしょう。バイアスとは混沌とする情報化時代に仕掛けられたトラップなのか?しかし、これまた「トラップ」は善玉かもしれない?というバイアスが適用されてしまう。このループ、非常にワクワクドキドキしますね。

目標設定の難しさ。

 いつまでたっても「ゴルフが上手くならん。」と嘆きはじめてもう18年。一時期はドクターストップがかかり棚に上げたゴルフ。なんとか自分の体調と正直に向き合い健康管理オタクモードでなんとか楽しく練習場に通えるテイまで復活。調子はいいと思っているがさてその真価は未知数。つまり、ゴルフに親しみはじめてからずっと繰り返しているループがある。ラウンドするために練習する。ラウンド日が決定したら練習するの繰り返しで、君はいったいどれぐらいの結果(スコア)を望んでいるのかという部分。年間150回以上ラウンドしている方からは、「もっとコース経験が必要。」と言われ。年間30回だけれどシングルスコアの方には「練習で実感できる感覚はコースでは50%も出せないよ。」と言われ。年間2~5回のゴルフ仲間達とは「頑張って次は100を切ろう。」と言い合っている。でも、なんの根拠もなしに、100を切ると目標設定しても、それは身の丈に合っているのだろうか?そんなちょこちょこっと練習(練習らしき)をして、コースに行き友人たちと楽しくラウンドしている人間が設定すべき目標設定とはいったいどのテイなのだろう?それがふわふわしている状態で、どんな結果が出ても受け入れて。次のラウンドが決まるまで練習はしない。これは一般ゴルファーのレベルを100段階で査定した場合のどのレベルなのだろう?それがとても知りたい。

 で、今週のお話。昨年の11月頃から毎日いろいろとそれなりに頑張ってきた。練習場も近年まれに見るほど通った。さて、目標設定値はどこにしよう?「ベストスコア?」だとこれまたふわふわしているので、例えば、序盤戦でもう無理となった場合どうにもこうにも楽しくなくなる。逆に終盤戦でそれを気にし過ぎてボロボロになる。つまり、そのレベルの技術力ではベストスコアなど出ぬわ!とゴルフの神様が言っているようだ。なら、どこに目標設定をすればいいのだろうか?と考えて、無茶なことは承知の上、これぐらの爆弾発言でこれぐらいの心意気でのぞめば最後まで集中力が持続できて、もし、もし、そうなったらそれはそれで大きな自信になるだろうという目標設定。

 それは、「鷹が舞うのを見る。」である。さて、舞い降りるのか、舞い降りてほしい・・・。

滝の音。

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 水が岩を打つ音、水面にぶつかる音、静寂の中にもかすかに聞こえる風が樹々を揺らす音。日常の空間から一定の距離を置きそんな空間にいると人に備わっている基本的な能力が起動する。それは、言葉にすると「五感が目覚める」ということなのかもしれませんが、それ以上に何か意識と無意識の間で覚醒する感覚があるかもしれません。「マイナスイオン」というキーワードは商業的にもう退化しつつあり飽和した後の澱として淀みに浮遊している。しかし、イオンの話で言えば人間の感覚の中に例えばそれが流れ込んできたとして、「癒される」という感覚が正しいのだろうか。イオン=癒しとなる構図は間違いなくどこかのメディア関連のクリエイターが連動させたこと。本当にイオンが感覚に癒しを与えるなら、癒しを得るために人はイオンを渇望しているとなる。

 で、この空間にその表現が在るかと言えば、それはない。空気清浄機やドライヤーの販売促進にマイナスイオンを連動させるのはクリエイターや開発者の自由だが、間違いなくこの写真の空間にそれらは蛇足。自分自身この写真を見て思うことは、もっともっと、心を開放できる空間に身を置く時間を作らないといけないと感じました。素敵な写真をありがとうございました。

直感のチカラ。

 自分自身の中にもホンネとタテマエがあり、それは、全ての人に言えることであるはずという仮説の上のお話ですが、この場合のホンネとタテマエの間の距離感を計測するモノサシってどんなモノサシだろうか?それがしっかりと意識できれば、数値化できれば、何か大きな判断を下さなければいけない状況で間違いない正しい判断ができるというもの。しかし、何が正しい、何が正しくないということを考えるとその理由は多様になり何を軸に正しいと正しくないを判断し、どう考えれば、自分の中の正しいをジャッジできるのだろう・・・となる。こうなるともう時間と自分の中の妥協ラインの設定との勝負。「何か新しい表現があるはず・・・」「何か強い独自の表現があるはず・・・」と時間ばかりが経過してどんどん迷いの迷宮に引きずり込まれる。別に本格的な迷宮に一回も訪れたことはないけれど、人はそう表現して迷いを消化している部分もある。

 が、先に答を知っている人もいる。その人は迷うしたくさんの多様な論理を繰り返す技ももっておられる。しかし、答はもう出ている人。その人の言葉は強い。決して限定しているわけではなく、モノゴトの例えとして、あるスーパーの受付のおばちゃんが「日本の経済をなんとかせんといけないですねぇ~」と言われるのと、長浜新市長が「日本の経済をなんとかせんといけないですねぇ~」と言われるのとでは、明らかに説得力のテイが異なる。同じ言葉を言っているにしても、伝わるディテールが異なる。それはどの部分がどれぐらい異なるのか?たぶん、裏に中にある何かの量が異なるからそれが異なるのだろう。例えばそれが「熱意」だったとする。しかし、人をただ見ているだけではその人に熱意があるのか無いのかなど判断つかない。しかし、アルバイトのおばちゃんの世界観と市長の世界観はおそらくたぶん市長の方が大きく熱いだろうから・・・というモノサシで言葉に質量を感じている。これが、日々、いたるところで起こっているから、どんな人でもその判断を一瞬一瞬で行って鍛えているわけである。

 で、直感を信じるのか信じないのかはその能力を自分の中に向けた場合の技術・リテラシーになるから、それを答だと絞り込むために、上記と同様、自分の中で自分の軸としっかりとコミュニケーションしている必要がある。とすれば、モノホンの決断力・判断力が少しつづ鍛えられるということにはならないのだろうか・・・。つまり、直感とは「思いつき」「ひらめき」「気まぐれ」的に捉えがちですが、1日グーグルで資料を集めて答を出したり、何十人で会議して議論して答を出すよりも、最適な答を出せる技のひとつなのであると思います。思いませんか?オズさん?

森の写真。

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 ある素材集の中の一枚ですが、なんともいい感じの森の写真。このテイの写真は昨今の「環境問題に一生懸命取り組んでいます。二酸化炭素を一生懸命出さないように努力しています運動」に見かける写真のテイストですが、なぜ、森の写真と人間のエゴがその大前提で連携してしまうのか?これは、普通に観て連動しているが実はとても不思議な感覚である。そもそも、雰囲気のある森の写真を観てなぜ人間が地球環境を保護するという連想に行きつくのか?これにはいくつか前提があり、「人は自然を大切にしているから自然はそれに必ず応えてくれる。」や「自然のことを考えてていますと言っておけば、それがセオリーな時代だから、自社の企業活動はそれらの考えをベースに展開しているんですよ。」などという前提をクリアしていると考えているのか・・・?でも、それって、ちょっと強引である。何か共通言語が欲しいのはマスメディアに対して何かを発信する際の基本的なルールかもしれないが、どう考えても「人は人。」「森は森。」でしょう。

 この間にある関係性を深く考察するなら、その媒体や意義を語るべきであり、森は人が考えるほど微弱ではない。逆にもっとリスペクトする必要があり、上目線の時点でNG。森の写真を観たらそこに流れている空気のことや動物や鳥の声や葉と葉が風でこすれる音や水や土の匂いを連想し、脳を開放してはいかがでしょう?次に脳が連想するモノが地球のことなのか経済のことなのか文化のことなのかそれはそれぞれのポテンシャル次第でいいのではないでしょうか。なんでも二酸化炭素の削減で前に進むのは「ハダカの王様」状態であり滑稽。

グーグルのヘッダーいいっすね。

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 本日のグーグルのヘッダー画像ですが、いいっすね。ほんとにグーグルは楽しい。情報の提供の手法や仕組みだけがグーグルの意図ではなく、そこに、しっかりとデジタルなりの価値というか意義を組み合わせている。それは表面的にはデザインという形で目にすることができるのですが、その裏にある「楽しさ」とか「ワクワクドキドキ感」はさすが。やはりこれは創り手のポテンシャルでしょうね。いい人が創ればクリエイトは自然にいい感じになり、緩い人が創ればどんだけいい環境下でも作品は緩くなる。ここに一番危機感を持って行く必要がある。という意味でグーグルが健在な理由はそれを支えている人が常に動いているからだろう。だから、楽しくなる。当然の仕組みでしょうね。

Dell™ Precision™ T3500かな・・・。

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 いろいろ検討して、やっぱ「Dell™ Precision™ T3500 エントリーワークステーションT3500 ビジネスベーシックパッケージ」かなという結論です。いろいろやりたいことがあるので、上を見ても下を見てもキリがありません。適当なところで手を打つというこの「適当」のクラス設定がいつものことながら難しい。いつもいつも悩みます。MACは完全に見切っているものの、どこかで「iMAC」という選択肢もチラチラしていますし、もっと、上位クラスを思いきって検討するという選択肢もあり、いつもこんなところでモヤモヤしながら最後の最後で「えい!やぁ!」状態になります。しかしながら今メインで使っている奴は快適そのものでしたから、いろんなモヤモヤがありますが、「安定感」ということでこの仕様でしょうね。

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 こうなるのだから、ヤバイ・・・。

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 こうなって、

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 これが、

テレビがつまらない。

 最近でもないのですが、テレビ番組が本当につまらない。つまり、つまらないということは、テレビから発信される情報の「フレーム」「クオリティー」「ディテール」「付加価値」どの次元で計測してもつまらない。そりゃ、「4大メディアの崩壊」が叫ばれるはず。マスメディアが幻想だったとは思いたくないし、それはそれでかなり極論に近いから、その位置とは少し距離を置きたいとも考えるが、あながちの部分は多々ある。

 まず、「フレーム」について、なぜ、これだけの情報がインターネットや携帯電話で発信されているのに、いつもいつも、テレビは画一的でありいつまでも主体(客体に対して)を続けるのか?いろいろなシフトが世界のいたるところで起こっていますよと報じている本体が昔ながらのフレームを維持しようとする。何故?それだけいろいろな意味でオイシイからその体質を変えようとしないのか。同じ方法論で地方のテレビが目も当てられない状態になっているのにも関わらず、ケーブルテレビと無意味な勝負をしているという勘違いと同軸でも、それでもまだ「古き佳き~」にしがみつく視界の狭さ。もう、マスではないのは火を見るより明らか。なのに、体制や組織がいつまでもいつまで変えられないテイの番組をフレーム化して・・・。ほんとにつまらない。

 次に「クオリティー」。番組を転がす人たちのポテンシャルが低い。そして、雛段に集まる緩い安いタレントの皆さま。もう、1時間なんて尺が持つわけないのに、グルメとお笑いさんと秘蔵映像でまとめようとるすワンパターンさ。これは、公共の電波で、一時代を築いたメディアとは思えない品質の低さ。よくもまぁこんなことをテレビで言うわ、よくもまぁどうどうとこのレスポンスか、もっと選ばれた感のある人にスポットあてるならまだしも、次から次から出てくるのは猿と犬と猫。お前たちは桃太郎か!って感じ。

 で、「ディテール」のお話になれば、もう、ペラペレのコート35kg(A判)みたいな、パチンコ屋のチラシの方が工夫してまっせ状態である。テレビですからもっともっと、ディテールをたのみますよPさん。ということで、例えば、ニュース。これはこの時間に必要な内容か?ここまで掘り下げるほどこのニュースは意味や意義があるのか?したり顔でうなずく専門分野のコメント屋さんもそこまで言うならもっと違う切り口があるでしょうよ、何何専門家で出てくるんだったら、用意されたシナリオ以外のことをしゃべれ!と。そして、クイズ番組もひどい。もういい質問に対するいい解答は必要ない。小学生レベルと表現するともう小学生達に失礼なぐらいの質問を成人したタレントが緩るすぎるリアクションで珍解答。これがとりあえず数字があるから、頭に乗る始末。あのクイズ番組はもう動物園で動物達が鳴いてる声を聞いた方が脳にはいいかもしれない。

 最後に「付加価値」のレベルでいうと、完全にインターネットが勝ち。たぶんそれに関わる人のポテンシャルが空洞化されたのでしょうね。つまり、大手の代理店のキレキレなクリエターやプロデューサー達が進むべき道を歩み始めたからでしょうね。それが、もうテレビではなくなり空洞化がかなり浸透しているのでしょう。いずれ岩盤が抜けてその大きな穴に鳥たちが暮らし始めますね。ベネズエラの鳥の巣のように。そうなったら、たぶん、「TOKIO-DOWN」ですね。ダラスが陥没したように・・・。2012年までもたないみたいな。

 まぁ、これぞ「独り言 of 独り言」みたいなことになってしまいましたが、最近テレビを観て思うこと。もっと、君はやればできる子なんだから、頑張ってください。

映画「サマーウォーズ」確かに・・・。

 昨日、DVDをレンタルできて映画「サマーウォーズ」を観た。う~ん、確かにさまざまなメディアの評価は正しい。原作本を読んでいるのに、絵コンテ集をすでに買っているのに、映画は映画として、それまでの期待度の上を行くこの完成度。痺れましたね。しばらく、なぜこの映画がこれだけ心を動かしてくれるのか、なぜここまで心がホットになるのか、なぜここまで隅の隅まで創った皆様の熱意が注ぎ込められているのか、しばらく、そのことを考えたい映画でした。宮崎さんの「カリオストロ~」の感動からこのタイプの感動は久しい。

「考えない練習」か・・・。

 小池龍之介さんという著者の「考えない練習」という書籍がとても気になっています。広告面には「「イライラ」「不安」は練習でなくせます。見る、話す、聞く、触る・・・身体で感じる「五感」を活かすトレーニングで、脳に優しい生き方が身につく!」らしい。この種の書籍が売れているということは確実にイライラしたり不安な人が世の中多いということ。

 まず、「イライラ」についてですが、練習してなくせますと書かれているが、「イライラ」をなくすと人間はどうなるのだろう?「イライラ」にもいろいろなサイズがあり、いろいろなTPOがあるはず。どんな練習をするのかについてこの書籍を買ってみなければ分かりませんが、仮に練習の成果が上がり「イライラ」しなくなった=「イライラ」できなくなったら・・・?それはいったいどういう人間性になるのか?自分のこととして想像してみるが、全く想像できない。感情があり、五感から何かしらの情報を得てさらにそこから新しい感情が生まれてる。それを繰り返している以上、「イライラ」がなくなると、それははたして精神的に0な状態では?極論かもしれませんが、0の状態が果たして心に身体にいい状態なのか?適度な「イライラ」は日常生活に必要なのではないだろうか。まぁ、この著者が僧侶さんだからリアリティーがあり書籍が売れるという構図は否めませんが・・・。

 で、「不安」がなくせるともあるのですが、これまた自分に置きかえると全く想像ができません。「不安」がなくなると自分自身はどうなるのだろうか?これも宗教の概念の中のお話を世間一般の日常生活に置きかえるという作業が必要になり、煩悩=不安の源みたいな、七つの大罪と功罪みたいな、バックグラウンドがあるとして、「不安を予期する能力」「不安に対処する能力」「不安をモチベーションに変換する能力」らがあるから人生は楽しいと考えてしまうのは、俗っぽい考えなのか・・・。そして、不安と五感の相関関係についても感情を区分けすることはできないわけで、どんな練習をすれば、「なくせる。」と言い切れるのだろうか?信じないものは救われない的なまゆつばだとは考えたくないが、私的には適度な「イライラ」と「不安」は必要だと思います。
 
 だから、このテイで言うならば逆にそれらを「考える練習」でいいのでは?でも、このタイトルでは本な売れないのでしょうね・・・。

なんでもゾンビにお任せ!?

 映画を観ていて一時からなんだか気になることがある。それは、「ゾンビ」の存在。人間が何らかの理由でゾンビになるということがごくあたりまえのように描かれてる。ゾンビになること自体がすでに空想であるにも関わらず、なんでもかんでも人間対ゾンビという構図の映画がどうもフワフワした感じがする。ウイルスや核戦争に犯されてゾンビに本当になるのか?それとも悪霊としてのゾンビは本当に何か緩くてもいいので根拠はあるのか?

 ヒーローがばっさばっさゾンビを切りまくる。バンバンとピストルでゾンビを撃ち殺す。これは観ていて爽快とはちょっと違う感じ。そもそもゾンビの定義が緩い上にゾンビは死なないはずなのに、敵対視する理由も緩い。と考えていくと、あれあれ、ゾンビってそもそも何だったけ?となる。

 M.ジャクソンのスリラーで市民権を得たゾンビだろうけれど、墓の中からモコモコと蘇るゾンビだって、そうなった理由や背景があるはず。それをしっかりと納得させてから登場し戦うというなら納得がいく。ただただゾンビだからと言って頭から敵対するのはどうか・・・?ということで便利なゾンビの使われ方が適用されている映画シリーズでベスト1.2.3.となると何でしょう???

「FRINGE」いい感じ。

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 「国土安全保障省の監督の下、マサチューセッツ州ボストンを拠点に、FBIのFringeチームの活躍を描く。世界中で発生する説明不能なおぞましい一連の事件「パターン」の捜査の為、チームは「fringe science」(非主流科学。境界科学とも)と呼ぶ型破りな手法を用いる。」「『FRINGE』(フリンジ)は、J・J・エイブラムス、アレックス・カーツマンらが手掛けるSFテレビドラマ(海外ドラマ)である。アメリカ・FOXで2008年9月9日に放映が始まり、翌年2月10日の第14話にて中断後、同年4月7日より第15話以降を放映。第1シーズンは同年5月12日にて終了(全20話)。第2シーズンの制作も決定した。CMが通常の半分の為、1話の放映時間は約50分である。」とウィキペディアにはある。

 昨晩、DISC1と2を見たのですが、これがなかなか。でも、たぶん、一般的には無理かもしれない。そこそこCMもやっていたので気がついたのですが、レンタルコーナーには最新である1も2も3全部DVDが残っていましたから。これを観たいという方はよほど科学・非科学に興味がなければ、第1話で・・・だろうと思いました。これに食いつく人ってかなりだと思いますね。

詳しくはこちらをご覧ください。http://www.fox.com/fringe/

鉛筆画「姫」。

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 あるお仕事の「姫イメージ」の下書きです。3Hから6Bまでを何回も何回も重ねて重ねて、濃い鉛筆を薄い鉛筆でぼかすような手法での鉛筆画。このあとにカラーインクとガッシュで着色して仕上げる予定です。

「白髭海賊団」と「五影」、強ぇ。

 マンガ「ワンピース」と「ナルト」をまったりと読み終えて。う~ん、共に1億冊をはじきだすコミックスだけあって、練り込まれてるスパイスが巧みであり、熱量に換算すれば、他の作品の追随を許さないのではと、勝手なファンの独り言です。しかし、ここまで物語を登場キャラを自由自在に操ってる感覚って気持ちいいだろうなぁ~とそのことばかりが気になって仕方ありません。

 あまり、内容についての詳細は野暮として、まず、「マルコ」という登場キャラ。海軍、革命軍、そして、ルフィー海賊団とこれまでこれでもかってぐらいに新しいキャラが出て出て出まくってきたのに、白ひげ海賊団の一番隊長マルコがあの能力って・・・。もう、150ヘェ~である。そこを温存するか・・・みたいな。週刊では買っていないので、まだまだ、次から次へ状態だと思いますが、やられました。それにインペルダウンで黒ひげは何をしているの?一切最新刊ではノータッチ。アラララ・・・という感じ。

 そして、雷影とビー、そうかそうか、鬼鮫はどんだけ待たせるのかと思いきや、満を持してここでか・・・みたいな。しかも、ああいう展開のああなる結末。これはマンガ芸術だからこその臨場感。何やら電子ブックとかクラウドとか騒がしいですが、そんなモノは売り手のエゴ。紙の文化が衰退するということばかりを一方的に語り啓蒙したいでしょうが、ここまで、浸透しているリアリティーがある文化がペラペラなデジタルコンテンツにごっそりエクスチェンジはないない。PCでマンガを観賞して読んでオモロイ?デジタルデバイスで小説読んでオモロイ?便利は両刃。リアリティーが3Dで100%表現できると思ったらオオマチガイ!

 このまま果てしなく続いてほしい物語2本ですね。
 

2030年のメディアとは?

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 ようするに、情報時代情報時代、IT、ITと連呼しているが、確固たるビジネスモデルはまだ存在していないというのが実のところ。そりゃそうでしょう。マスメディアが崩壊しつつあるのですから、そう簡単に次の仕組みなどできないでしょう。大きな関が崩れたわけですから、それまでた貯められていた水の量たるや・・・です。で、2030年頃にはこうなっているだろうなぁ~的な分析・洞察・考察が展開されている書籍ですね。そもそも、メディアの源泉は何だったのか?情報の本質は?いろいろ旬なキーワードが網羅されている書籍です。これがたった¥1,050(税込)ですから、「安い!」と言わざるをえません。

 が、それも、それを「価値」とする人に適用される「値打ち感」です。つまり、情報とはメディアとはそういうものですよとこの書籍のリアリティーは語っている。いい書籍です。間違いない。

「ワンピース」&「ナルト」最新刊。

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 昨日、最新刊を発見。ワンピースはすでに1億冊突破、ナルトもそろそろ1億冊が見えているらしい・・・。あと、ブリーチも凄いらしいし、ハガレンも凄いらしい、その他レアでディープないいマンガは本当にたくさんあるのですが、やはり、いろいろな厳しい(個人的な)判断評価基準をクリアしているのは今のところこの2冊だろう。よくもまぁ、ここまでのイマジネーションと構成をこのテイストとこの展開で、しかも、たぶん、尾田さんも岸本さんも楽しんでいるのだろう。多くの人たちがこの伝説に関わっておられると思いますが、軸がぶれないということ、常に新しいアイディアとキーワードを盛り込んで来ること、そして、何よりも「絵」がいい。現在、考えられるもっともホットでパワフルで質量のある間違いのない2冊でしょう。

このリアリティー。

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 なんでしょう、このリアリティー。存在感というか質感というか。持ってみると意外に重い。この鹿はまだ子どもだったらしい。そして、角の分岐からたぶん3歳だっただろうと・・・。

風の強い日。

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 ちょっと暖かくなったと思ったら、今日は風が強くて冷たい。風車がよく回っていた。

ワンピース最新刊初版300万部!

 明日(4日)発売される「ワンピース」最新刊の初版発行部数が300万部らしい・・・。強烈である。ストロングワールドには一歩出遅れて「0巻」を手に入れることはできなかったが、いずれどこかのタイミングでアプローチしたいと思います。もし、お手元に複数ある方で1冊譲ってもいいですよという方はご一報くださいませ。

 で、エースはどうなる?白ひげはどう出る?黒ひげは?イワ様は?ドラゴンは?そして、他のルフィーの仲間たちは?もう、この最新刊の期待度たるやかつてない空前のMAXな感じ。ジャンプは買っていないので、このテンションをキープできているのですが、この数ケ月に一回訪れる波が楽しくて楽しくて。

 たぶん、長浜は5日か6日頃にコンビニで並ぶでしょうから、心の準備をしていい状態で待ちたいと考えております。

 By the way, ヘラクレスンは今何をしているのでしょう???

動画¥9,975より!

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 「TV番組やCFの素材やWEBのフラッシュ用素材、デジタルサイネージなど、あらゆるシーンでご活用いただける動画の取り扱いが始まりました。使いやすいロイヤリティフリー動画は、9,975円(サイズ:864×486pixel)、29,400円(フルHDサイズ:1920×1080pixel)!そして、ライツマネージド動画は12,600円から、全てアマナイメージズのみで取り扱う作品です。 CGや空撮、風景、人物・ライフスタイルなど、充実したコンテンツをご覧ください!」というメルマガが到着していた。う~ん、素晴らしい価格帯になってきました。素晴らしい!

詳しくはこちらをご覧ください。

「レッドシューズ」という核融合。

 それを創った人を見ればその意味が分かる。それを育ててきた人を見ればその熱量が分かる。しかし、その意味がとても真髄だったり、その熱量があまりにも巨大である場合、確実に心が魂が持っていかれる。持っていかれて人ははたと考える。何故なのだろう?設立から運営の過程において何がそこで起こったのだろうか?その地で何と何が繋がりこうなったのか?そして、それは今からどこにいこうとしているのか?すべてが自分自身の「分かる」の許容範囲を大幅に上回っていた時、これまでの方法論がまったく通用しそうにないとき、何をすればいいのか?たぶん、それを創った人の心の動き、行動の指針は常に同じだろう。たぶん、その人はぶっちゃけるとこう言うだろう。「僕は何もしていません。ただ、楽しいことをやりたかったんです。」と。それが万象に向けて何かを駆け巡らせるために一番必要なエネルギーの核の部分なのかもしれない。それは、自分自身の中でそういう場所に奉られた。「出会いたい。」といくら思考錯誤しても出会えないことが多い。「出会いたいモード」の時は味噌もクソも引き寄せてしまいそのほとんどがクソだということにあとから気がつくことが多いのに対して、魂をフラットにしていると、何故かそんな出会いがやってくる。もう、そうなった場合、必然か偶然かなどどうでもよくなる。ただ、余韻が心に残りそれが核となり小さな核融合が起こる。その場に何を投げればいいのか?考えても答はでないばかりか、例えひねり出したとしてもそれは緩い答。時にそんな場合、もう答は出ていることが多い。とは言え、開き直りで問題は正確には解決しない。だから、奉ったその場所へ何かを持っていく場合、同軸でシンクロしなければいけない。さて、その場合、自分は今どれぐらいのプロトニウムの含有量があるのか在庫を確認しなければいけないのです。

 「レッドシューズ」という核融合は毎晩、その場所で起こっている。発電されるエネルギーが暗い日本を照らしている。う~ん、こんなクリーンなエネルギー、こんな巨大なエネルギー、何かが変わる時、多分、こういう場所からその変化の兆候が現れるのでしょうね。

詳しくはこちらをご覧ください。http://www.redshoes.jp/

何故?つぶやくのか?

 ツイッターというつぶやき。より情報の発信携帯をスリムにシンプルにすることで、その反応やリアルタイムの時間軸を切り取るデジタルコミュニケーションといったところでしょう。それほどつぶやきが必要なのだろうか?時間経過を意識化させることで、情報の新鮮度合いに優劣をつけられる仕組みなんでしょうけれど、それは確かにある種の価値を感じる。しかし、その時間の経過をログる、作用と反作用を価値や意義に変換するということが、さて、どこまで五感を刺激するのだろうか?まぁ、総じてそういう時代だと言うことは非常に安易である。どこかの段階で活用してみようとは思いますが、マスメディアからの情報の均一性の上澄み液ができたら欲しいところです。沈殿する前に拡散させてこの中にある純度の高いsomethingだけをすくいとりたいと思います。誰しもがそう考えるでしょうから、あとは、でたとこ勝負でしょうね。まずはDIVE。

藍ちゃんV2スッゲ!

 日本人で海外2連勝は初、海外でも44年ぶり!いったい藍ちゃんのどこのスイッチがオンになったのだろうか!素晴らしい。遼君も新聞にコメントを寄せていたが、まったく、そのとおり。誇りですね。おめでとうございます!って感じ以上に勇気があふれてくる。スッゲ!