アイディア術について。

 仕事柄、常に新しいデザイン表現についてアイディアを貪欲にリサーチしている。それは、具体的にどの程度でどの分野に強いか弱いかなどのムラはあるが、この仕事ならではの視点で時代の流れから離れぬよう努力している感じです。しかし、人間の頭であることから、気分や体調で仕事に対するモチベーションが浮いたり沈んだりはする。効率や品質を常にいい状態にしたいとも考えているが、なかなか、心の中の頭の中のベルトコンベアーはロスが多い。しかし、長年それに携わっていることで大きな問題にならぬよう、流れが沈滞せぬよう、ルーティーンワークを展開している、つもり。が、これについても、決して安泰などない。ここで終わりというゴールはたぶんどの仕事についても存在しないだろうし、時代は常に動いているわけですから、自分の仕事だけここまでやれば安心というクラスが存在しないことは周知の事実である。また、逆にそうなったら、そういう仕事だったら、この仕事はチョイスしていないだろうし、必然・偶然とかではなく、この道の上にあった、そして、こらからあるだろう、アップ&ダウンを心のどこかの部分で楽しめていないのなら、必然でも偶然でもなく、意味も意義もなくなる。

 で、アイディアについて。どこからアイディアがやってくるのかというお話ですが、それは、未だに不明である。そのテイの書籍をこれでもかってぐらいに読み漁っても、こうしたら素晴らしいアイディアが湧き上がるや、こう考えたらこんな素晴らしいアイディアを想像できますよ的なアプローチは存在しない。逆にそんなマニュアルが存在しないからこそ、生まれた時の感動や感激がそれに繋がるのである。つまり、それが「アイディア」の本体・実体であることを見誤ると、「アイディア」自体を誤解し曲解してしまい妙な箍に縛られる。縛られることでフレーム化することで、ルーティーンが目に見えるという仕組みはそれこそいろいろなところで巨大なコストの元、実体をとにかく書面化して安心したい人たちの手で作り上げられてそれらが日々どこかで機動しているが、それは、実は、どこでもできることの範囲から新しい創造への的確なアプローチであることにはまずならなない。これが、大きな大きなジレンマ。

 「アイディア術」なんて錬金術と同じ。すでにある何かを何かに変えることなので、何かが何かを見極める目とそれをチョイスする判断力と等価交換させる接着力がその内訳とも言える。つまり、いつ舞い降りてくるか知れないモノを見極め、今、アプローチしようとするベクトルにどう活用・適用・転用できるかを見極め、チョイスしたなら、そのパーツ・エレメントをどう組み立てるかを24時間365日考えられれば、それが、それしか、「アイディア術」と呼べないのではないだろか。それが、メンドい人はクリエイターにはなれないだろうと思います。とは言え、これもまた、自分自身がいつもいつも最適な状態でアイディア術を活性化させているかといえば、・・・でもある。確証のない、安泰のない、先の見えないことへのリスクと、その道を選んだからこその、これまた目に見えないアドバンテージが今この瞬間感じられているか否かしか確信はない。それが、「不安」で地に足がついてないと感じるなら、たぶん、この仕事が向いていないと感じただろう。しかし、そんな紆余曲折・右往左往・思考錯誤が楽しい仕事はそう世の中にないだろうぐらいのヒラキナオリはあるからこそ、この仕事の適正値で言えば天職なのかなと日々頑張っているわけです。

 今、学生で社会に出て、クリエイターを仕事にしたいと感じている人がいて、こんな時代、仕事を何にするべきかの指針で悩んでいる人に、決して、デザインやアートの仕事を進めることはしないが、本質が見えず、迷っているなら、先が見える見通しのいい世界よりも、いきなり暗闇手探り状態の世界の方がオモロイですよ、とは言える自負があります。正確にはそれは自負とは呼べないかもしれないが。

 3月から4月の季節に思うことは、20年以上前、新宿でこの世界のドアに手をかけた時の気持ちである。今でもそのドアを開ける前に自分に確認した記憶が鮮明に蘇る。「さぁ、このドアを開けるということは、そういうことだからな・・・。」と自分に確認したあのドアの前。