社会における上達と規範の相関関係ついて。

 単刀直入ですが、安易にお手軽にこれだけやればグイグイ上達するという方法論ではありません。そもそも何を指して「上達」とするのか、大学や専門学校でのチュートリアルが緩いのは緩かったのは、あくまでも一般的なレベル(学校用)を目標値にしているから、基礎と言えば基礎なのであるが、応用編となった場合も基礎の延長から離れられないものだから、というよりも、それを教授する連中のポテンシャルが同じ(ワンパターンという意)だから、基礎から応用が基礎1から基礎2になるのです。仮にFLASHというソフトウエアのスキルをより現場レベルで即戦力に近いレベルまでなれるのなら、それはよほど教える人のテクとキャリアとポテンシャルが高いのケースだろう。でなければ、到底、学校の教授陣達に期待してはいけない。ある一定の囲いの中でフワフワ過ごしている保護されているトキと隙あらば相手の喉元を噛み切ってやろうと牙と爪を研いでいる野生のイタチとの差。

 何事も本来の「上達」とは、保護された囲いの中のお話ではなく、あくまでも、外の野生のエリアの中で生き延びるための技の一種であるのだから、牙や爪のない方には喉の噛み切り方など到底分からない。まず、これが「学校」と「現場」に存在する明確なテンションと諸条件の違い。

 で、学校過程を終え、そろそろこの春の季節、新しい職場でスタートを切る方も多いはず。その皆様がそれぞれの職場でそれぞれのポテンシャルを発揮されるまでどうしても個人差はあれど、ある一定期間が必要です。この期間は研修期間などと呼ばれているのですが、そもそも、社会に出てまともに研修期間を経てきた人間ではないので、私自身はこのあたりが非常に不透明なのですが、新聞などを読んでいると、学生の頃にアルバイトをしていた人間と学校で勉強を頑張り過ぎた人間とでは、あきらかに前者の現場での能力が高いとある。それは確かに実感できる。学生だから学校で勉強するのは当然ではあるが、諸事情でバイトをしてきた人やこずかい欲しさにバイトをしてきた人は、自主性が高く、しかも、自己を与えられた条件下で適応させる能力があり、しかも、自己管理能力も備わっている場合が多いように思う。に比べて、自宅と学校の往復だけの人はいい意味でも悪い意味でも「マジメ」で、これらの能力は皆無に近く、しかも、表情に余裕がなく、人間の器が小さい。たぶん、正確には大きい小さいではないのだろうけれど、大きいか小さいかと聞かれれば小さい。

 つまり、社会に出るということは、自分自身の中に明確な目標がなければ出てきてはいけない世界。目標値を与えられていた学校時代と同じベクトルで会社に目標を与えられて、それに向かって猛進するにしても、それを自分の目標値に置きかえる視点が必要であり、目標が1人称なのか、2人称なのか、3人称なのかで保持しなければいけないエネルギー量が異なるはずだからである。つまり、全体の構図的に言えば「社会」とは「学校」をも包括していた外の大きな円なのである。当然、規範は異なり、自己の円を構図的にどの配置にているかで、必然的に「社会」と自分の相関関係が決定する。さて、では、本来の「上達」とは自分自身にとってどの程度の意義があるのかも同じ方程式で算出できないだろうか・・・。