オルセー美術館展@NHK日曜美術館

 あまりテレビで六本木で開催されている「オルセー美術館展」の話題が出てこない。で、NHKの日曜美術館でガッツリと特集していた。誰もいないあんなに静かな展示会場でふたりだけで絵に向かえる特典っていいなぁ~と。まぁ、カメラやデレクターはいるだろうけれど、どこかのタイミングで会場内に入れるはず。とすれば、そこにある名画と自分ひとりだけというタイミングもあるはず。それってどんな気持ちになるのだろう。名画はいわば怪物である。それを描いた画家達が現代に残した、というか、生き残ったとても強烈な怪物である。しかし、その怪物は額の中から決して出てきて鋭い爪で皮膚を切り裂くわけでも、鋭い顎で頭をもぎ取るわけでもないが、確実に目に見えない爪と顎でそれを見入る人の魂をわしづかみにして画面の中に持ち帰る。だから、今もそれらは残っているとも言えなくない。つまり、この怪物はそれを描いた画家が仕掛けた時空を越えて現代に鼓動する素晴らしきモンスター達なのである。司会者の二人はその収録中、たぶん、魂をもぎ取られているはずだから、新しいスペアをいっぱい持って来ていたのでしょうね。

 怪物の前に立ち、テレビの番組だとは言え、決死のコメントだった。どれだけのポテンシャルを持ってしても、どれだけの叡智を持ってしても、これらの怪物の前で現代の作家や女子アナ程度では到底太刀打ちなどできるはずがない、それを、番組として成立させたということは、もう一つの可能性として、怪物達が見えなかった。もしくは、怪物達にスルーされたということ。だって、ひと筆ひと筆が見える距離で重なり合う色が自分の目の中に入ってくるのに、よく、言葉が整理できる。という視点では彼らはプロである。強いエネルギーを緩和するために専用のサングラスをかけていたのだろう。

 「語られる条件」で言えば、ゴッホが生涯2,000枚の絵を描き、売れたのは1枚だけという情報は必要がなく、ゴーギャンが病死したのか自然死したのかということもあまり意味がない。そんなことを本人がどこかに記述していたのか?記述などしなくとも絵を残せばそれが人生だと生命の証だと知っていたからそれを絵にしたのに、金魚のフンが長すぎる。想いとは技術や感覚を超え、時空さえ超えたその先にあるモノ。もしくは、それらの想いの一呼吸手前にあったモノ。それを、今の言葉で脚色するのは自由だが、方程式や論理でXYZ座標を決めて眺めても、たぶん、真理はそこにはないだろう。真理は絶対的に画家だけのモノ。それを描いた個体の中にあるものは永遠に未知である。絵を描かぬ者がシンクロしたければ、頭で考えずその手で何かを創る必要がある。そこに正真正銘の唯一無二の共感がある。文字や言葉のコミュニケーションにはびっくりするぐらいリミットラインが低い。

 ひさびさの日曜美術館を観て、そんなことを考えてしまいました。