僕なりの山登りの意義。

 それが偉いとか何かと比べて秀でているということではない。富士山に登ることをいろいろな人に言うと極端に2パターンの意見を聞くことができる。ひとつは「そんな無謀なことはやめほうがいい・・・。」「何故?そんなシンドイことをする意味があるのか?」「身体のことを考えたらやめるべきだ。」などの反対派。と「素晴らしい挑戦ですね。私もずっと登りたいと思っています。また、山頂に立った時の気持ちを教えてください。」「準備とか大変でしょう。でも、いいですよね。私もいつか必ず登りたいと思っています。」「私も以前に登ったのですが。大変でしたが、あの達成感は無二ですね。」との賛成派。

 この二つの考え方を否定も肯定もしないが、否定する人に対して思うことは「残念」。賛成して応援してくれる人に対して思うことは「感激」。である。もう一度言うが、登れるから賛成してくれるからいい。登れないから反対してくれるから悪いでは決してありません。私の腰や首が悪いことを知って、無理をしてはいけないですよ。私の気性や人間のタイプを知っていて、無茶をしてはダメですよ。もう決して若くはないのだからと言ってくださっていることは十分に理解している。

 が、人間の核の部分はそうモノゴトを多様に捉えることができない。否定する人と共鳴したいとは感じないし、言葉少なに共感を得られる人に対しては大きな共鳴を覚え、心から嬉しさを感じる生き物だと思う。言わば、デザインやWEBサイトのお仕事も同じで。自社の商品や業務内容を否定から入ってくる人と一緒に仕事をしたい、否定的な方にコストをかけてツールを創ってもらおうと思う人は少ないはず。それは、教科書通りの回答としてではなく、逆の立場なら私がまさにそう思うというところから組上げてきた考え。作用と反作用に注視しなければモノゴトは進化も進行も融合もしないという結論。

 で、山登りの意義とは。いろいろな条件で日々を過ごし、いろいろなタイミングで挑戦して失敗して挑戦して失敗している。が、結果、そこに登ろうと考える人や実際山で出会った人は少なくとも一歩踏み出した人であるはず。それをその場所で共有できることが、私は山登りの醍醐味だと思う。自然に触れるとか共に時間を共有するとか、五感が刺激されるとか、適当な理由はいろいろ思い浮かぶがそれは表面的な意義であり、本質は、山というシチュエイションでの一期一会を共鳴できる快感があるからだと思います。それを感じるためにもう1年以上地道なトレーニングをしてきた。そのお蔭で40度以上の熱が出ても仕事ができる。ずっと諦めていたゴルフで95のスコアを出せた。山に登ろうと想い付き得られた副産物は多い。

 つまり、そういうことである。富士山に登ることは偉大な行為でも、登れる登れないが優劣の尺度で量れるようなモノでもない。登るために努力すること。自分が決めたことに対して努力をできる人がその場所に行けるとしたら、何もしない人とは自分の器の中で小さい判断に迷い大きい判断を見誤る。結果、その場所に行けないのだろう。最後にもう一度、その場所に行けることは決して優れているということではない。ただ、いけない理由があることが人生のいろいろな場面でその場所に行けなくしているということに気がつかず、いつまでも同じ場所にいる人生はどこか寂しいような、楽しくないような気がします。あくまでも私の個人的な独り言ですが・・・。