バリューか?ノイズか?

 「情報が氾濫している。」とはよく聞くし見るし、そう強く感じる側面は機会は多々ある。が、その場合の「情報」とは具体的に何か?分解してみるといくつかのパターンがある。有益な情報とそうではない情報。個人的に主観的に好きな情報とそうではない情報。正しいと思える情報とそうは思えない情報。これらをバリューなのかノイズなのか選択・判断・考察しているモノサシって何だろう?ひとつは、価値というこなら、お金に換算できるし、価格的な価値を別のベクトルで判断することは消費者として当然日々行っている価値判断である。これらは比較的「価格」という基準があるからそうストレスなく判断できる数値化されたバリューである。しかし、情報の全体像はこの価値判断に当てはまらない場合も多い。

 情報とは何か、つまり、五感と心でインプットされモノ。勿論、PCの中から携帯デバイスの中からテレビからラジオから新聞から雑誌からそれらの情報は個体の中にインプットされる。¥100のモノを¥100でインプットするならストレスはないが、¥50のモノを¥100で買わされるとストレスになり、¥100のモノを¥50で買えたならそれはバリューである。が、このように明確に数値化できない情報がストレスになり個体の中に蓄積され続けると、最初それに若干のストレスを感じていた個体が慣れ、それがその個体のモノサシ・価値判断のスケールになる。これはある意味学習と呼べるのかもしれなが、良き学習もあれば悪しき学習もあるという現実。すると、その習慣で得たモノサシで以前なら価値を感じていたことがそれほど感じられなくなり、個体にとって適正な有益な情報だったにも関わらず、そのサインを見逃してしまうこと。これが、日々、小さいジャブのようにどこからも飛んでくる。これに対する護身術はないものだろうか?セキュリティーリスクと言えばそうだろうし、プロテクトツールでバリアしてればいいだけかとなるとこれも疑問が残る。結果、現代の人は自分自身の心の中にひきこもる。アイソレートは決して悪しき習慣ではないし、この状態からとてつもないコンセントレーションが生まれたり天才的な歴史的な着想が生まれていることも事実。とすると、これらのことについて、こうあるべきだ!というバイブルは存在しないという仮説も成立しなくない。たぶん、福音にもそれが適用できるはず。

 となると、バリューとノイズは自己責任において個体が判断しなさいということにならないだろうか。自己責任ほど無責任な感覚はないが、組織であれ企業であれ政治団体であれこうも人の集まるところに蠢いている悪しきノイズがネット社会になり聞こえてくると見えてくるとそうそう無関心でもいられない。強い刺激を強いストレスを個体は心のどこかで求めているという学説もあるから、非常に厄介な個体ではあるが、そこはそれでいいじゃん。五感と心でしっかりとバリューとノイズを見極めたいと思いますね。