デザイン力のリミッター。

 火事場の馬鹿力ではないが、極限に追い込まれると人間は想定以上の力を発揮することができる。また、おおきなプレッシャーがかかればかかるほど潜在能力以上の力を発揮できるタイプとそうでないタイプがいる。興奮状態ではアドレナリンが分泌されて筋肉や頭脳の活性率が上昇するというアレであるが、スポーツの世界やビジネスの現場でもこのチカラを制御できれば、ここぞという場面で自分の力を発揮できるだろうし、必要ない場面ではそれらにリミッターをかけて浪費率を適正値にセルフコントロールできるのだろう。

 では、アートやデザインのいわゆるクリエティブな仕事面ではこの方程式はどうあてはまるのだろうか?素晴らしい能力があったとしてその力がMAX発揮できたとしてそれは果たして芸術的に良い作品になりえるのだろうか?自分自身の評価として100点でも芸術やデザインは自分以外の人の評価基準が成果物の良し悪しを決定するモノだから、この場合、あまり、アーティストやクリエイターの潜在能力や感性的なセンスは連動しているようで連動していない、それこそ、いろいろ場面で「たまたま」が発生し波及しているようにも思えます。

 ではでは、この「たまたま」をどう引き寄せ制御するかがポイントだとしたら、強い一方向のエネルギーをただ出しているだけでは相関性が成立せず、評価を得られないばかりか逆の構図が展開される危険性も孕んでいるということになる。では、その場合のリミッターは、そもそも、それらの感覚はリミッターとは呼ばない能力かもしれないし、先入観や固定観念だったりすると、そこに「何故?」のベクトルを向ける必要もあり、つまり自分とはどの程度なのかをそこそこ知っていいることが基軸になるのだろうか。

 壊すだけ創るだけなら筋肉があれば成立するが、伝えようとすると思考と連動する必要がある。感性やセンスやインスピレーションなどを自由自在に操れるには・・・?さて、どの箍を外すべきか。日本にはこの箍が多すぎる・・・。まずは「日本語」という箍のシバリは結構ヘビーだ。

 最終的に非言語でのコミュニケーション能力があるなしは何でアップグレードさせるのか?それは、決してバイブルは存在せず錬金術も存在しない。つまりは「相対力」の部分とパーツとパーツ、エレメントとエレメントを組み合わせたり切り崩したりの「足し算と引き算」のジャッジである。標準的な技術が備わってからこのことを意識化に置き現場のオペレーションが手に馴染むのに昔は5年かかると言われてきたが、昨今のDTP全盛の現場において、この感覚を会得するのはかなり至難であるように感じる。つまり、成果物が出来上がってしまうことが先行し過ぎてブレインワークの部分がかなりスルーされているからである。グラフィックデザイン・WEBデザイン・アートワークは非言語表現であることを言語的にアプローチしてチュートリアルを現場の成果物に適用しているパターンをよ~く見かける。これは正確には「デザインワーク」ではないし、ましてや「アートワーク」ではない。ただの「アウトプット」である。何もアナログテイストをちりばめる必要はないが、「相対性」を無視するとデザインの価値が欠落する。これはつまり、創り手や発信者の意図が非言語的に表現できていない成果物にツールになるからである。

 つまり、現代、馬鹿とリミッターは使いようなのである。