芸術とは?

 そうかそうか、「芸術」とは「人が芸術と呼ぶモノ」なのか。アートやデザインにずっと関わっていると尺度というか考え方のモノサシや他人との比較ばかりに気をとられ自分の基準値がどこにあるのか定まらなくなっていた20代だった。学校の中にアートなどないだろうとは思いながら過ごした学生時代から、生活するためにドアーズを叩いたデザイン界。もう、試行錯誤の紆余曲折の上に七転八倒、おまけに右往左往の連続だった。何のために何をする?こうなるためにこれをする?ばかりが頭に充満していた。

 で、そもそも芸術とは何か?というシンプルな疑問が頭に浮かびはじめた40代。少しずつ少しずつその大きな氷山が溶けているのかもしれない。積み上げたモノが大きいと捨てるのも大変だし、新しく何かを持ちこむのも容易ではない。いっぱいいっぱいになると場所を変えてリセットすればいいとはよく言うがそれもそう頻繁にできることではない。今、「芸術と金」という書籍とドラッカーの「マネージメント」の書籍を併読しているので、頭の中のトルクがかなり上がっているからかもしれない。

 なるほど、「人が呼ぶもの~」ありきでいいんだと今日現在は考えられるようになっています。まぁ、これも秋の空と同じかもしれないが、少しずつでも原石が見つかればそれをどうにか加工はできるというもの、何もないところからマジックのように結論は具現化できない。という意味で書籍の中の著者の世界観に一時気持ちを委ねる読書という時間はほんとに心地いい。「人が呼ぶもの~」なのだから、絶対はないということ。あくまでも相対であることで間違いなかったと少し安心している。

 余談ですが、ドラッカーの書籍の中に「公共機関」の仕組みについての警鐘の下りがあった。何故こうも公共機関の組織は機能しないのか?というQである。なるほどなるほどである。目的が一般企業とはことなること、優れた人材が存在しないこと、相対性が絶対性で完結し創造性さえも本末転倒になっているからだそうだ。確かに、競争力のない人間だからそのテイを選択したわけだから、ポテンシャルなどあろうはずがないとドラッカー氏は言いたいのだろうか・・・。

 つまり、ここに芸術とは?と同じ考察が適用されるということ。原因や起因はすべて人だということで、人がどう考えてこれからどう考察していくかを想像し創造する企業が消費に値する価値を担えるのであろう。すべてはチェーンリアクションなのである。