なるほど交渉能力なのか。

 学校と社会の決定的な差は何だろう。デジタル教科書がいずれ施工されれば、その現象はさらに激化して拍車をかけることになるだろうという警鐘例がある。学校教育における、というか、それは学校という機関だから仕方がないと言えるのかもしれないが、クラブ活動やサークル活動レベルではその能力は決して養えないし、まして、教師と学生という立場は相関性に優れていると学生の頃は捉えていたが、それは、先生や教師の皆様を始めとする学校サイドのご尽力だったことに今さらながら気がつく。

 師弟関係の大規模な機関が学校の構図にはあるが、その部分には非常にむらがある。あったように思える。求める人間には求められるモノが与えられるが、求めない人間は一定期間を過ごすだけのつまらない期間になる。この差の原因をよく家庭環境や個人のポテンシャルにゆだねる理論は数多にあるが、それもひとつ。しかし、それは言わば結果論である。どうして?何故?の部分で言うならば、決定的にまだいろいろな技術や能力や視野がビギナーであるティーンに対して、もっと、事例と体験を経て「交渉能力」の鍛練が成されていないのである。

 このことに注視した海外の学校機関は多く、特にヨーロッパやアメリカの大学ではこのことを重視したカリキュラムやこの道のエキスパートを講師陣に備えている。何故交渉能力が必要かといえば、社会に出るために会得しておかなければいけない能力だからである。学生最後の年、社会に出るという緊張感のその内訳のほとんどが、「社会に適用できるだろうか?」だったように記憶している。それが、現代ではインターネットというやっかいなツールが蜘蛛の巣のように張り巡らされている社会が存在するから、ITというツールが使えれば交渉力があると誤認する人が多いことの弊害がそらかしこで発生しているような気がする。それは、学歴やキャリアやモチベーションなどに関係なくである。常に自分自身の立ち位置が「その他大勢の一員」でいい人と、「社会との関わりに適度な距離をおく個体」を意識する人の差異。この差の間には果てしなく深い谷が溝があると思います。

 まぁ、このことをブログに書き出していること自体が何故?かもしれないですが、これはただの手記であり、アーカイブであるから、何もここからコミュニケーションが生まれるとは考えていない。だから、ブログが楽しいのである。

 交渉能力とは?これは細分化していけばキリがないし、何に対しての交渉なのかというターゲット指定についてもそれこそ「ありとあらゆる」になる。もとより、何故このことが気になるかという部分で言えば、デジタル教科書への懐疑がトリガーになっていることは大筋での論拠。私自身は教育の現場で何を学んだのかと回帰する度に、5名の師匠(先生)の顔しか浮かばない。その先生方からいっぱい言葉を頂いているはずなのに、その言葉は本当に断片的にしか残っていない。その替わりに先生方の顔や声や存在感が頭の中に浮かぶ。目を閉じれば0.1秒でその5名の顔が浮かぶ。交渉能力の出発点は実はそこにあったのではなかろうか・・・?と思っています。うん、交渉能力について、まだまだ、「ひとりミーティング」をしなければならないようである。