コミュニケーションは知覚である。

 仏教の禅僧、イスラム教のスーフィー教徒、タルムードのラビなどの神秘家の公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがあるらしい。音波は発生するが音を感じる者がいなければ、音はしないということ。音とは知覚されることによって音となる。これを例えにこの場合の音こそがコミュニケーションであると連動するらしい。なるほどなるほど、誰も聞かなければ音ではないというこなのですね。まさにそれが今デジタルデバイスの進化で覚醒されている、と、同時に攪拌されているような気がします。この混沌の中で生まれた価値あるコミュニケーションこそが次の価値だとドラッカーは言いたいのか・・・。知覚であると言われるといろいろなことの整合性が整うように感じる。