面白い本、面白くない本。

 奥さんが、ふと、「この本は面白くなったわ・・・、最後まで読んだのに・・・。」と呟いていた。小説なら10ページほど読めばその作者・著者の雰囲気がこの冒頭に込められてるのだから、そのテイストというかフィーリングが判断できたはず。それを我慢して全部読むのもこれも忍耐力のお話。「そんな、途中で面白くなくなったら読むのをやめて別の本を読んだらええのに・・・」と言ったが、「我慢して読んだ。」のだと。う~ん、これが私にはできない。絶対にできない。気合を入れてリサーチして高い書籍を買うが読み始めるとどうも期待していたベクトルではなく、入口の部分がまどろこしい。で、目次をひも解き興味のありそうな部分をつまむがそれでもおかしい。あげくにあとがきを読むがどうもずれている。ああ・・・結果、ずれていたのか・・・と中断。別の書籍に移行する。が、しばらく数年を経て、ふと、気になっていて読み始めるとこれがまた以前の違和感がなく、すらすらと頭に響く。こんなことがあるから、頭からストップすることはしないつもりでも、つもりでも、明らかに判断ミスの小説や書籍は存在する。それらは、私にとって「面白くない本」なのである。が、それを別の方の読書感想をネットや直接読まれた方から聞いたり読んだりするとまた別の感想というか視点を持っておられ、確かに、そのアプローチなら面白くなるのかも・・・と思う。つまり、同じ書籍でも「面白い」と「面白くない」を感じるのはその人自身の問題なのかなとも思うわけです。

 だから、何万部と購入される書籍や世の中の電子書籍のムーブメントなどは波及・訴求されている大きな流れというのは最大公約数のお話なのかなと。つまり、書籍が主体的に「面白い」ではなく、相対的に「面白い」内容を書籍であれ電子書籍であれ、そのテイに整えればビジネス的にアリなのである。この方程式は本来の「面白い」との間にどれだけ深い谷があるのだろうかと思うのです。創刊しては消失していくマガジンも同じ。

 で、つまり、100人中、この本は面白くないと99人が判断しても、自分ひとりが「面白い」なら、その本は私にとって「面白い」であり、99人が「面白い」と判断しても、それはそれ、私自身の「面白い」の基準が異なればそれは面白くないとなる。だから、何か自分で書籍を作りたいなぁ~と考えた時に99人の「面白い」は絶対に書きだせないので、まずは自分にとっての「面白い」を書きだす必要があるのかなと思います。このあたり間違っていますでしょうか、キノさん?