2010年12月 アーカイブ

ブログ投稿2000本目!

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 この12月31日のタイミングで外は猛吹雪。大好きな雪が降っている。寒いが気持ちは凛とする。そして、これでブログ投稿が2000個目。まぁ、塵も積もれば~ということで2000本まで飽きずにブログを書いてこれた理由は?たぶん、「オモロイ」からだろう。ただ書くことが?たまに頂けるコメントが?ブログを書くためにそのアンテナを立てることが?これを読んだ人とその話題でお話が広がることが?まぁ、いろいろその「オモロイ」は分解できるが、私自身、何事においても「感性」とか「センス」とかという天才的な何かが自分に備わっているとは感じたことがない。逆に何事においても「感性」のある人の近くで歯ぎしりをしたことや、「センス」のある人の作品を見ながらこぶしを握り占めていたことなどしか思い起せない。つまり、それがないということがどれほど悔しかったが「コツコツ派」の自分を形成していると思っている。だから、何事においてもコツコツと対峙する。周りの人間から見ればそれは「努力」だと言っていただけるが、本人はそんな僭越なことは微塵も思っていない。それをしなければ頭が心が「悔しい」と感じることが嫌なのである。若いころは勝ち負けにこだわり無理をした。その結果、身体に心にその無理が蓄積していたるところが悲鳴をあげ壊れた。何事もやりすぎでありオーバーワークだった。で、結果は出せたのか?となるが、決して目標設定に足らない状態でマイナスになることも多々あった。うん?これではお前結局マイナスだぞ!と声がした頃から、自分を見つめるようになる。その結果というかその過程で手に入れた方法論が「コツコツ派」なのである。

 地球上に生命を受ける動物で人間以外に自ら自分の暮らす環境を変える動物がいる。そいつは「ビーバー」である。自分の歯だけで木を切り住処を作り水流をせき止め外敵から種を守り子孫を育てるビーバー。彼らはつまり「コツコツ派」の「カリカリ派」なのである。子どもの頃、図鑑でビーバーを知り、彼らの巣の構造を知った時にこんな小動物がそんなことをするのかぁ~となんとなく心に引っかかっていたサインが結果、それは自分が映っていたということなのかもしれない。だから、コツコツとやってきたので、2011年もコツコツとやっていきたいと思ってる。ひとつぶひとつぶの雪なら手の平に落ちた瞬間に溶けてしまうが、しんしんと降り始める雪は景色を真っ白に変えてします。これこれ、だから、数多の色の中で一番好きな色が白。

 さて、2010年はどうだったのか、それで2011年はどうするのか?というこの31日に何をここに記述したいのかとずっと考えていた。で、やはり、今年なんとなく心に引っかかっていた一番大きなことを、というか、今年一番たくさんしんしんと降り積もったことを最後にそして記念すべき2000本目にチョイスします。

 それはたぶん私が編集している情報紙S.O.S.の第25号から始まっている。その最終ページに私はこう記述している。

 「痛みよ志しになれ、傷よ翼になれ。」と。

 この号は私が心からリスペクトしているある女性アートアニメーターからのメインテーマ「カタルシス」からスポイルされてる。彼女の存在はとても大きく、S.O.S.を始めてほんとにいろいろな素敵な魅力的なクリエイター・アーティストの方と出会ったがその中でもベスト3のひとりである。彼女のアートに対する心というか気持ちの角度というか振幅がほんとに素敵だった。一回り以上年下の女性がここまでアートやデザインに対峙しているのにお前はどうだ?と凛とした気持ちなった。そして、彼女から頂いたテーマをずっと頭の中で反芻していて自然に出たフレーズがこれだった。ここで私の中の情報紙S.O.S.がひとつ完結した感覚があった。そこから、勢いで企画や編集に取り組まず毎号毎号をしっかり吟味して自分の気持ちを整理して取り組もうとさえ感じさせていただけたのである。そこからかなりペースダウンしているが、第26号はほんとにガチで作ることができた。で、2011年はさらにこの気持ちを覚醒するために第27号の企画をスタートした。テーマは「なんでやねん!」つまり、漫才のつっこみのフレーズであるが、これをテーマにしたいと考えております。クリエーター目線でアーティスト目線で今の時代にツッコンでいただきたい。と僭越ながら編集長は考えています。まぁ、この詳細は年が明けたらじっくりと全国のマスターメンバーひとりひとりに相談して第27号を進めていこうと思っております。また、その時は皆さん、よろしくお願いいたします。

 話は逸れたが、今年一番気になったこと。それは、「ずれ」「摩擦」「捻じれ」「誤差」「ゆがみ」「ひずみ」などというキーワードです。これは完全に「痛みと傷」からスポイルされている。何かを創ろうとする時にデジタルツールにはこれがない。このことにストレスっていうほどの感覚ではないが、何か???という気持ちなった。便利で飽和した情報時代のこの先の行方を危惧している気持ちがあるとすれば、それは人間的な「ずれや摩擦や捻じれなどなど」がどこか強制的に制約されて、成果物としては整然と誰が創っても同じ金太郎あめ状態になること、これが、どうもストレスになっている自分に気がついた。それは必要のないものなのか、それともデジタルツール的に苦手な、プログラム言語では一文字でも記述ミスが起こるとそのプログラムは正しく走らない。WEBもDTPもとにかく水平・平行を強制される。そこでずらしたければ故意に「回転」させる。「摩擦」を得たければそれはそう言語で数値を入力するということで擬似のそれを創るということになる。なぜ、わざわざ「ズレやゆがみ」をわざわざ0.03度とか指定するのか。これは正確には「ズレやゆがみ」ではない。結果そう見えていてもそれは微妙に回転しているオブジェクトに他ならないのである。これが長年この仕事をして麻痺しているから微塵なストレスがたまり頭を打つ~みたいなことになってはいないかと思った。そこから、アナログのアプローチに回帰し始めた。すると「濁り」や「滲み」や「紙の小さな繊維」や「油絵具の小さなゴミ」や「貼り込みのズレ」がなんともリアルを演出していることに気がついた。この仕事を始めた時は「この写植は曲がっている!もっと水平に!もっと平行に!」と怒られたが、それがデジタルツール全盛時代を経て今自分自身が「ズレや歪み」をどこかで求めている。これがとても不思議で気になった1年だった。これはたぶん何かのサインであるはずだから、ここに気持ちをフォーカスしてさらにデジタルツールに向き合いたいと考えています。

 人と人とのコミュニケーションにおいてもしかり。ストレスのない社会や格差のない社会を!と誰かはしたり顔で唱えるがそれは警笛ではない。管理したいから整理したいからと予定調和でしかのびしろを得られないポテンシャルな自分をその警笛で覆いたいからだけ。もっと、多様な時代の多様な生物としての機微を考慮したクリエイティブに取り組みたいと考える2010年12月31日ですね。

 やはり、「痛みが志しになるように、傷から翼生え飛翔できるように。」なのである。それこそクリエティブワークの本丸だと思います。いつもブログを読んでいただいている皆様へ、来年もどうぞよろしくお願いいたします。khuz

Let's play game.

 映画「saw」がファイナル。確かに猟奇殺人をテーマにしたソリッドシチュエイションという切り口はこれまでのただ幻想的な恐怖や摩訶不思議な力への恐怖とは異なる新しい思い切った切り口だった。それがこれほどニーズを獲得するとは制作に関わった人達も意外だったのではないだろうか。確かにこのジャンルはニーズがあったがここまでのシリーズ化を果たすとは、つまり、そういう時代でもあったという側面があったということ。必ずしもこれが人間像の全てではないがこの映画が描いた人間像は時代を完全に映していたと捉えて間違いないだろう。昨日、お茶を濁したような「死刑」に対する各界の著名!?な人達が小学生レベル(小学生にさえ失礼ではあるが)のみんなの会議論を展開していた。どの誰の論点を分解しても陳腐で安易で感情的すぎる。人間の「死」に対してよくもああまで無責任な言葉や文脈を並べられるものである。もうそれを近くに感じている人達だからこそ危機感があったのだろうし、切羽詰まった感じがどうも滑稽だったから、3分で見切ってしまった。「死刑」の是非についてあなた達には何も語る資格がないのだから、何を言っても言葉が軽い。まして、中国人との議論など茶番である。つまり、この番組の制作側の意図がもうテレビのステイタスを据え置き計算が計算でなくなりある証拠。そんなテレビプログラムになってしまう現代のメディアの最後の断末魔のような番組だった。登場人物たちがなにをどう論理的に語ろうが感情的に語ろうが、それはもう悲鳴にしか聞こえなかった。残念。

 で、映画「saw」のファイナルだけはまだ観ていないし、DVDのレンタルを楽しく待っている。たとえ期待した結末でなくともそれはそれでひとつのファイナルだから楽しみであるし、もし、これまでの結論が出ているのなら、それはそれで最高である。ある小説家が明確な結論を出すことは依存だと言っていた。つまり、「xxxx力」とか「人生のxxxx」とかという書籍のニーズは適度なストレスを枠を枷を自分に適用したい人が買う書籍だと言っていた。確かにである。だからそのテイが売れるという出版社と編集者と流通の現場の人達のトラップが巧みなのである。だから、小説が読まれなくなったというわけでもないらしく、小説は小説でヘビーユーザーが今も昔も一定数いるとの分析だった。売れる本の条件は「否定されにくい本」であり、それが小説になると誰が読んでも「同じ結論」になる文脈に対して人は反応して安心するから購買につながりベストセラーになるとのこと。確かに。それぞれの文脈にそれぞれの感想の幅がある場合、相対的にはレスポンスが少ない。あくまでも売るためには絶対的な感想の対象を用意しなければいけないとのこと。では、良書とは何か。つまり、「考えさせる本」であり、「考えさせる物語」なのであるそうです(それが少なくなったと嘆かれているがそうでもないらしい。)。しかし、現代は心のどこかで「繋がりたい気持ち」がふつふつと脈々と湧きあがっているから同じ価値観を共有させようとするトラップに購買が比例するらしい。な~るほど、そういう仕組か・・・みたいな。

 で、映画「saw」のキーワード的なフレーズ「Let's play game.」である。人生はゲームなのか?勝つか負けるかが人生なのか?勝つとは?負けるとは?これがトラップである。そしてそれがシリーズ化の成功要因である。それがなんでもゲームは楽しい。スポーツでも趣味でもビジネスでも人生でも。それを何かに置き換える知恵があったから人間は与えられた時間を有意義に過ごしてこれたと意識できるとこの作者は言いたいのか?死刑の議論についても同義である。だから、昨晩のテレビの中の彼らはとても生き生きしていたことは間違いない。

 そこで今回のブログの本丸について。「チェス」というゲームがある。これを知ったのは中学生の頃、ゲームが好きな友人達は将棋が主流だったのでそんな友達とは将棋をやるが、実はずっとチェスをやりたいと思っていた。シンプルでゲームとしての歴史があり、映画のシーンでよく登場するチェスというゲームにいったいどんな魅力を感じていたのかは忘れてしまったが、何か興味の対象として心に強く残った。時を経て回りにもそうチェスが好きだという人間もいない。私のレベルで競技会に出てもこてんぱんだろうしとずっとずっと気になっていたがチェスを楽しむことはできないでいた。そして、数年前に娘がDSを買った(というか買わされた)。全くこれらのソフトゲーム(マリオを始め~)に興味がない私は「あのソフトが面白い」「このゲームが楽しい」と言われても何ひとつ琴線には触れなかったが、唯一、軽いゲームソフト群の中に「チェス」があった。ここで娘のDSを取り上げて毎晩そのソフトとゲームをした。とにかく強い。100戦ほどやった段階でも1勝もできない。しかし、120戦目ぐらいに始めて勝てた。言わば始めての1勝である。たかがこの小さい端末にこれほどのめり込めたのは私の場合「チェス」がロードしていたから。たががプログラム相手にこれほど楽しかったのはあまり記憶にない。そこから、さらにチェスへのリサーチが始まり。書籍で過去の有名な対戦結果のログや世界チャンプのチェスに対するコメントを読んでさらにヒートアックした。私は全然強くないので、身近な人とボードで対戦しても結構負ける。でも、そのゲームの最中は頭の中で様々なベクトルの駆け引きが始まる。これはソフトゲームではない感覚。それが実は一番楽しい部分だと気がついた。だからゲームをするなら人間がいい。端末やデバイスの向こうにいる開発者も人間。ブラウザの向こうにいる情報の発信者も人間。フェイスtoフェイスでコミュニケーションするのも人間。つまり、脳(人間)は人間でスポイルされるということが全てに精通していることを絶対に忘れてはいけないということ。それを誤解しボタンをかけ間違えると絶対にどこまでもズレ続ける。それをゲームとして捉えるか別の次元で対峙するかは個人差があっていいと思うが、大きいゲーム、小さいゲーム、今年もいろいろな対戦をしたような気がしています。そして、勝ったか負けたかは白黒分からないし、保留の場合も、明確に結果を突き付けられた場合も、それなりに楽しかった。致命的な結果にならないテイで勝負を始めるからそこそこのゲームになり、それを楽しめるスキルや能力も結果、少しは身についているのだろう。しかし、楽しさは慣れる。ただ闇雲に大きな強い刺激だけを求めるジャンキーにならぬよう、いいゲームを2011年もやっていきたいと思います。ということで、ブログ記事2000本まであと1本。このブログもひとつのゲームかもしれないし。

コンビニのお店づくり。

 あるお仕事で京都の山の中を一日中車で走っていた。かなりの山奥のため一旦林道を走り始めると目的に到着するまで、そして、滋賀県に帰ってくるまで、一軒もコンビニがなかった。普段、いつでもどこでも気軽に入れるコンビニがないと例えようのない不安が押し寄せてきた。普段、営業中に車でコンビニに入るのは缶コーヒーを買ったり軽食を買ったりアマゾンの支払いをしたりと、まぁ、買い物が中心なのですが、他にも用をたすであったり、知らない土地で道を聞くだったり、急ぎのコピーをとらせてもらったりと結構便利。それが、車で道を走れども走れどもコンビニがない場所は正直辛かった。これほど毎日の生活のサイクルにコンビミに助けられているとはと愕然とした。そして、ようやく山を抜け琵琶湖が見えて来たところで1軒のコンビニでおにぎりとコーヒーを買って食べた時のその安心感たるやほんとにほんとにホットステーションだった。いやぁ~コンビニって大切だと思いましたね。で、そのコンビニもいろいろなチェーン展開があり、メジャーなところからマイナーなところまでいろいろ。それぞれ、これと言ってお店づくりに特徴がなさそうでけっこうそれなりに店長さんのご意向というかお店お店の特徴がある。商品の品揃えなども流通の経路が同じだから酷似している部分もあるが、ちょっとした規模の違いやチェーンエリアの違いで置かれている商品は少しづつ異なる。特に売上の中でかなりの割合を占めるお弁当・おにぎり関係はそれぞれのチェーンによって趣向が違う。一時、店の単体で賞味期限ギリのお弁当の値段をスーパーみたいに値下げをして売ろうとしたコンビニの店長が本部に警告されていたが、これも、営業努力と営業方針の微妙な違いの摩擦。でも、お店である以上売上を求めた店長と、ブランドイメージを大切にするためにルールを守った本部との摩擦はどのビジネスモデルにも存在するのでしょうね。お店の雰囲気についても既製品のPOPをルール通りに並べているお店もあれば、たぶん、バイトのスタッフの方が手書きで作っておられるだろう値札や商品のPOPなどを見てみると、営業努力というか顧客サービスの優劣が見てきます。昔ながらの料理店や街の商店街の対面販売とはちょっと違うスタイルではありますが、コンビニひとつでも「お店づくり」のスタイルが様々なんですね。

 で、私が毎日営業活動しているエリアで頻繁に入るコンビニをふと数えたら、12ヶ所あった。チェーンの種類で言うと3種類。それぞれいろいろなタイミングで入るのですが、よく利用するコンビニの条件とすると営業コースとの関係があり、駐車場の大きさや道路への出やすさなどがまず利用頻度に関係しています。つまり、利便性の高いお店はやはり車も多く、対抗車線に入るのは避けたいから左折で入りたいし、目的地に対してもやはり対抗車線(右折)には出たくない。これらの関係から、目的地に向かう頻度とルートがコンビニの立地条件とマッチしていることが第1の条件。そして、第2の条件はやはりお店の人の対応力である。あきらかにバイトであきらかに経験値がなくあきらかに人間的に微弱な人がいるお店は敬遠する。しかし、いつでも店長らしき人が明るく、レジでちょっと待った程度でも「お待たせしました!」と言ってくる人がいるお店は自然と利用頻度が高くなるわけ。

 つまり、このことは、企画・デザイン会社でも同じだということ。立地条件は昨今ネット時代でもあるから、さほど連動なしないものの、小さいミニマムな会社はコンビニのような展開と同じですから、少人数でお客様の気持ちを組み取り、パン1個、缶コーヒー一本でも気持ちを込めて心から「ありがとうございました!」と言えるような姿勢を徹底したいと思っております。まぁ、商品が「企画やデザインやWEBサイト」というカタチのない存在感のない質感のないモノだけに、それを創っている人が言わば「商品」であり「コンテンツ」なのだど肝に銘じ邁進しなければいけない。コンビニでもたぶんそうでしょうが、新しい商品や新しい戦略をあの小さい規模でどんどん取り入れてサバイバルしているわけで、「もう、次から次へと新しいパソコンやソフトやデバイスが出るからついていけませんわぁ~!」とか「勉強する時間がないので新しい技術や新しい商品はめっきり・・・」とか言っている場合ではない。小さいミニマムな会社はそういう会社のテイで精一杯できることに取り組まなければ、戦線離脱は否めない。努力を怠ることは人間だからいろいろなタイミングやフィーリングの関係でムラがあるだろが、絶対に「これぐらいでいいや」という気持ちだけは心のゴミ箱に捻じ込み、無理苦理にでも、誠意ある判断をしなければと取り組んでいます。だから、いろいろな企画やデザインや印刷物やインターネットのことなどで「山道」を走っている車の「コンビニ」のような存在になりたいと思う年の瀬でした。

 寒い日の一本の暖かい缶コーヒーのような、熱い日のスポーツドリンクのような、そんな仕事を商品を創れるように2011年も頑張りたいと思っております。さてさて、ブログ記事2000本まであと2本。

目的意識と目標設定。

 ある小説家の方の本を読んでいる。その書籍にはその著者がいかにして小説家になり成功を収めたかがその方の言葉で綴られている。普通ならばこのようなタッチの書籍は手に取ることもないし、まして買って読もうとは思わないのですが、まえがきに書いてあったあるフレーズに反応してしまった。勿論、この著者はいくつもベストセラーを出しているし、自分でももう一生分の資産は貯まったと言っているぐらいだから彼のプランは成功したことになる。羨ましいと思うし相当の努力をしてこられた感じが本文を読みながらひしひしと感じています。しかし、本人にしてみればこうなることはある意味必然だったような言い方。その苦労が全然苦労として捉えておられないニュアンスがある。逆に自分の目的意識と目標設定を明確にしてそれに沿ってやるべきことをやってきたとのこと。こういうタイプの人は努力が努力ではなく、もう、人生の一部になっている。決して血と汗の結晶ではないのである。自然とこつこつマイペースに考え書き出してきたことに当然のようにニーズが社会が多くの人が反応した。結果、人気作家として不動の地位と作家としての安定した生活を手に入れたというだけ。これが自然。

 つまり、ゴールがキモ。よく、アート系やデザイン系の学校を卒業した新卒者やデザインの仕事をしたいという若い方と接点があるが、彼ら彼女達のゴールはグラフィックデザイナー・WEBデザイナーとして働くことが目標ではなく、その立場になれるだけでゴ~~~ル!みたいな部分が確かにある。で、現場の課題を与えると頭を抱える。こんなことは学校では習わなかったと・・・。で、自分のポテンシャルに3年ほどして気づく。そして、仕事を変える。自分は「デザイナーになれた。」という達成感と共に他の仕事をして人生をつつがなく過ごす。これも必然。

 上記の小説家はこうも言っている。「自分が目標設定した以上の人間には絶対になれない。」と。確かに重い言葉である。その通りである。目標設定さえしていれば、その目で耳で何事もインプットしていれば、自分自身の血や肉になろうことも、それがない人は簡単にスルーするし、コミュニケーションに置いてもそこに軸足を置かない。だから、つまり、そういうカテゴの人にはなれないのである。つまり、結果には十分な原因がある。そして、結果が次の目標設定のための原因に置き換わる。この循環がいわばスタイルになるわけで、何かテッパンな公認試験を合格して鳴り物を鳴らしてその肩書きを手にした時(瞬間)に失速する人と、入りはミニマムでも一旦その世界にはいり自分ののびしろを自分自身で設定して努力を努力とも思わず、試練を試練とも感じず切磋琢磨している人。後者の人間だけが手にできる「循環」があり、このエンジンのトルクを上げるためのガソリンは「目的意識と目標設定」でしかない。

 私も同じ、小説などいつでも時間があれば書けると思っている。

 最初の部分、ひっかかったフレーズとは「小説家になりたければ小説を読むな!」である。

 さて、ブログ記事2,000本まであと3本。今年もあと3日。次の3本はそういう意味も込めて長いブログになろうかと思います。今から少し今年のことも含めてこの3本の構想をいつものライトダウン形式ではなく、しっかりと練りこんでみようと思っております。あと2010年も3日ですし・・・。

笑い飯さんおめでとう!

 笑い飯さんおめでとうである。念願のチャンピオン。記念すべき10代目のチャンピオンであり最後のチャンピオンにふさわしい存在感だったのではないでしょうか。しかし、スリムクラブは最後の最後のいい仕事をしましたね。この影響は計り知れないはずです。本人達も気がつかないところでたぶんえらいことになっているような気がします。いい仕事をするとニーズを掘り起こせるのですね。ポンテンシャルでもスキルでもセンスでもない存在感。これに磨きが掛かれば鬼と金棒状態なのでしょうね。たかが漫才、されど・・・ですね。素晴らしい展開でした。

 で、私の一番はジャルジャルさん達でした。あの場所であのネタをやる勇気。感服です。サムライです。ワールドは健在でした。

すべて些末である。

 決して間違えてはいけないこと。良い仕事とは、「こうである。」などという方法論で成立していない。まして、インターネットの中にありあまるノウハウやステレオタイプな情報が納められているとしてもそれは決して「創作」ではない。だから、テンプレートをどう活用しようが決して新しい価値は生まない。創作とは元来そういうものだから、個人の感性が作り上げる芸術とは全て同位となる。この感性に多くのユーザーが反応し自分にとって有益なものだと感じれば、それが広く商品として価値を生み出す。そして、それを作って作者がビジネスとして成立し創作を続ける。この循環が正しい。だから、セオリーに腰掛けて机の上で白や黒について協議してもそれは整理であり創作ではない。何かを創っていますって自分自身のIDをどういじくってどうにかしようとしても、そこが間違っている場合、創ることから離れていく。つまり、インプットして消化してアウトプットしたモノでなければすべてが些末なのである。お手本はない。お手本をきれいに写せる段階では創作ではない。つまり、セオリーを壊すことが唯一のスタートラインであるべきなのである。

 仕事とは苦労や労働に見合った報酬を得る行為であるから、無料で何かをしているボランティアには一見崇高な行為に見えて実は無料さに依存しているだけ。ピリピリした感覚がなければ報酬を得る勇気を見送る結果になるだけで、継続できるルーティーンにはなりえない。ここが一番の本丸である。

 なぜ、こんなことを思ったかと言うと、あまりにも「無料ゲーム」とか「無料ソフト」とか「無料」な価値が氾濫し過ぎていることにちょっとかなり危機感を感じたからである。「無料なのにここまで多機能です。」の裏には「無料だからここまでで御免なさい。」という些末さに思えるからである。ここから上位の機能が欲しければ有料になりますって、それは一見手法のように見えるが大きな感違いである。だから、無料ゲームののびしろのなさ加減がナンセンスであり微弱すぎてその手法で企業のIDの認知度を上げようとする仕組みに疑問を感じる。厳しい時代だからこそ多様なニーズに反応できる創造力を鍛えたいと思う。

「すべらない話」について。

 さて恒例の松本さんの「すべらない話」。結果、「すずめばちの話」には意義がある。良かったがmostではない。17名の精鋭とのことですが、若干2名は苦しかった。これも予定調和としてテレビプログラムのサガ。仕方ない、結果、その読みは正しかったが。で、松本さん、ジュニアさん、木村さん、兵頭さん、河本さん、ほっしゃんさん、宮川さん、小藪さん、ケンコバさんだけなら良かったという最初の印象と、うん?やっぱいい話術を持っておられるなということで、コカドさん、バカリズムさん、設楽さん、タカさん、若林さん。しかし、若干2名は厳しかった。だからこそ他の方の話術が引き立つというモノなのだろうけれど、まず、落語家とワハハの人は厳しい結果だった。

 落語家はちょっと感違いをしていた。つきつめればあまり面白いディテールはなかったし、仮にあなたの境遇をベースに経験値の中から面白いすべらない話の視点をチョイスするのはいいが、まず、それぞれのディテールの捉え方が間違っている。その上、話の構成がその場しのぎで話が軸になければならないのにボディラングでなんとかしようとしている。そして、さほど落ちてはいなかった。何かの御縁でその場所に出れたのでしょうけれど、もう、出ない方がいい。そして、ワハハの人。ネタはしっかり構成されていたし、面白かったが論外である。それは誰がしゃべってもいいネタでしょうし、あなたがそれをチョイスしたのか、それとも作家が裏にいたの?と思ってしまうほど、あなたの話は口に馴染んでいませんでした。そのニュアンスは微妙な部分でデリケートな部分でもあるが、結果、二つのネタのどこを切ってもプラン通りのリズムが漂い話に入れない。これ全て落語家と同じ、話術が場の空気にマッチしていないのでしょうね。お二人さん、松本さん達に気を使わせないでください。ということでこの二人はランク外。

 で、他の15名さんを分析すると。まず、MVSのタカさん。これも、リスペクト票を松本さんから獲得できた結果であり。逆にマスターメンバーの方の中で特筆できるような爆発感がなかったから年功序列的な空気で獲得できただけ。別に「大人のおしっこ」の部分。さほどリズムも悪かったし、陳腐なセンスですし、話術の構成もさほどでした。たけし軍団ってこのレベルなんですね。残念。

 そして、河本さん。河本さんがしゃべっているから空気はそこそこ暖かいですが、それにしても、構成がグズグズでしたね。いつものキレがなかったし、おかんのディテールが弱かったですね。落ちも結果、それだけ・・・感がいっぱいでした。ちょっとつらいお話。すべってはいなかったが爆発したというわけでもなかったですね。ちょっと残念。

 次に、設楽さん。うん、日村さんを弄るのはいいですが、もっと、愛のある弄りをお願いします。相方だからその程度のネタはあるでしょうが、もっと、お話の状況の描き方というか、日村さんのキャラとかを入れないとただ「歯がない人のお話」になってしまいましたし、最後の爆発感にたどり着けなかったですね。残念です。

 その次は塚地さん。ここは意外と普通でしたが、話の質的には面白かったですね。モチーフがキタローさんということでいいネットワークがあって良かった良かった。

 第11位、キム兄さん。もっともっと甲本ヒロトさんがネタの中心なら拾う部分があったのじゃないですか。ケンコバさんならもっとヒロトさんを膨らませることができたんじゃないですか。それが、残念。中居君と宮迫さんの伏線も読めちゃた読めちゃった。で、やっぱり~みたいなことで、前回の魚君のようにちょっとぐらい話を盛ってもよかったのではないですか。

 第10位は、ケンコバさん。子どもネタは永遠に不滅ではありますが、もっと、強烈なオチを期待してしまっていましたから、この順位です。とは言え、話の大きさもそこそこで情景もそこそこ。もっと、その3名のガキんちょのディテールを盛り込んで欲しかったです。

 第9位、以外と若林さんです。あの口調だからいつでも笑う準備はできているし、お話の構成も流石。しかし、話の流れと落ちがちょっと遠い感じがしました。もっと、その劇場でのエピソードがひとつふたつあっても良かったような、そのバーモンドさんのキャラももう少し掘り下げて欲しかったような気がしました。しかし、第9位ですから、非常に面白かったです。

 第8位は、コカドさんでした。良かったです。読めましたが、でも、コカドワールドを聞けただけでも短い時間でしたが楽しかったです。やはり、ポテンシャルは高い。もっともっと、いろいろなテレビの場面でコカドさんを見たいと思っているので、このよな場所にもガンガン登場してほしい。「キXタマ」か・・・とそのチョイスにコカドさんらしいオチですっと完結したすべらないお話でした。

 第7位は、ジュニアさん。せいじさんネタにしては、ボケ感がイマイチ。でも、さすがの話術でグイグイでした。最後のワンフレーズは予定調和としても、表現力や語彙のチョイスなどさすがのマスターメンバーです。描く世界の時間軸の妙と迫力ある語調。素晴らしいお話の組み立てでしたね。

 第6位は、意外と兵頭さん。かなり仕込んだ感がありましたが、もっと、上位を期待していただけに盛り上がり部分が普通なのと、落ちが普通だったのでこの順位。しかしながら、その表現や入ってくる語彙のディテールたるや楽しいテンションを最初から最後までキープして兵頭さんワールド全開でした。GOOD.

 第5位は、バカリズムさん。そうか、そうか、そう落とすのか・・・とあとを引くネタでした。

 第4位は、松本さん。まっちゃんらしい視点と観察眼に何も言うことがない。マスター話術です。

 そして、第3位は、ほっしゃんさん。あの感覚はやはり何をお話されてもすべらない。そんなツッコミはそう放てるわけではないし、それがそれ?みたいな感覚はセンスとしか言えない。「ハーレーダビットソンかいっ!」って整体ですやん。うん、素晴らしい。

 で、第2位は、やはり、宮川さんでしょう。何回思い出してもいい。宮川さんの話術の巧みさとインパクトの部分で言うならば安心して聞いていられる感じ。そうですかそうですよね、確かに「角刈り」って・・・。そこを広げるのですか、みたいな部分と、その日に飛行機に乗って家族で旅行するのに・・・角刈り・・・みたいな視点はもう圧巻です。

 そしての部分で、私の第1位はもうその流れや視点や描写力において最高の仕上がりでした。たぶん、このお話は小藪的にはテッパンの域なはず。でも、ここでそれを持ってこられるほどの完成度の高いすべらない話。松ちゃんが冒頭に世の中、2種類の人間しかいない!と。それは、「すべる人とすべらない人だ!」と。そのテンションをしっかり受け止めると、このお話がやはりNo.1でした。

 落語家とワハハの人は場違いでした。ただ、話をすればいいというテイではないことをもっと知るべきである。つまり、今年の年末のすべらない話の1、2、3は、「虫」「角刈り」「ハーレーダビットソン」なのである。今夜は最後のM-1です。最後のチャンプの爆発力を楽しみにしたい。

クリエイターの皆さん!

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 全国のクリエイターの皆さんへ、もし、今現在、レーザープリンターの新規導入で悩んでおられるのでしたら、絶対にガチにOKIさんの「MICROLINE Pro 930PS-X・Pro 930PS-S」ですよ。これは間違いありません。弊社も最近導入したのですが、秋から冬にかけて気温が結構変化する時期の導入だったので、ちょっと、ライトな汚れがありましたが、それも全然気にならない気にならない。メンテナンスの方にフォローしていただき即解決です。それに、電話対応もしっかりしているしとても対応もプロフェッショナルな印象で大満足ですね。そして、プリンターの機能面ではまったくもって問題はないですし、カラーマッチングも抜群です。印刷用紙の種類の幅もけっこう広いですし、ほんとに大満足です。保守も5年にしましたが、これがどうやらレーザープリンターのワンサイクルのようです。5年後はまた次のシリーズが出るタイミングなので、その段階まで今回の5年保守で全面的にバックアップしていただけるとのこと。これも非常に嬉しいサポート体制ですね。

 比較するわけじゃないけど、今更、愚痴るわけじゃないけど(実は愚痴るんだけど。)「メーカーX」には本当に導入時から高い保守料金払ってトラブル続き、っていうか、トラブル感が漂わない日はないぐらいストレスの塊でした。何度(たぶん、400回ぐらい・・・)アクトの2階から地面に落してやろうかと思ったぐらい。それに「メーカーX」のサポートの方のスキルに文句を言うわけではないですが、教育レベルでの対応力の低さはもうOKIさんと比較になりません。ほんとにこのOKIさんのプリンターにして良かった良かった。詳しくは下記のサイトをご覧ください。抜群ですよ。※別にOKIさんから広告費用は貰っていませんが、これは、実際にガチの本心だから仕方ありません。

OKIさんの公式WEBサイトのプリンターページです。

クリムトは落ち着きますね。

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 仕事で姫を描くものだから、そのリサーチで、いろいろサイトを見ていて発見したクリムトの作品。今回の「姫の肖像画」は透明水彩とガッシュ(不透明水彩)の併用なのでそれぞれの画材の色彩の特徴を踏んで描写する必要がある。最終的には大きな看板用の出力であるためにある程度の緻密性が必要です。しかし、緻密に描くだけでは絶対に出せない「優しさ」とか「温かさ」がホンマルだと、描き方や最終仕上げに至るまでの表情やモデルの捉え方を何パターンも頭の中でシュミレーションしています。つまり、まだ鉛筆による下描きの段階ですが、すでに、どこから着色して全体の仕上がりや着物のパターンなどを透明水彩から不透明水彩に移行するタイミングも含めてシュミレーションしています。

 これがチグハグになると、ディーテルばかりか表情を描くまで到達しない。表情について下描きの段階で決まっているようなものだと思いきや、実は、最後の最後のひと筆まで表情はどうにでもなる。だから、着物の色彩や肌の透明感や「優しさ」と「温かさ」を一枚の作品に注入するには相当緻密なプランが必要なのである。そして、緻密なプランがまとまった段階で、もっとも大切なこと。それは、その自分がたてたプランの中でどこまで感覚的になれるかが絵の仕上がりの「のびしろ」を左右する。そこが何より描き手のポテンシャルの部分ですね。何事も白紙から始める作業ですから、プランとポテンシャルが作品の完成度を決めるのです。

 これは、これまで仕事やライフワークで何千・何万枚のイラストや絵を描いてきましたが、どれも緊張感いっぱいです。多くの不安もあるし失敗もある。しかし、ただの一度も成功がない。だから、次の一枚に向かうことができるのです。この醍醐味はこの仕事を実際にやっている人としか共有できない。趣味で絵を描いている人達とは絶対に共有できない厳しいガチの部分です。だからこその部分で、自信もあるし不安もあるということ。何事もそうなのでしょうけれど・・・。

 しかし、クリムトの色彩は落ち着きますね。素晴らしい作品です。この作品は知らなかった・・・。

ジブリの新作。

 宮崎監督が企画・脚本を手掛けたジブリの新作が「コクリコ坂から」に決まったらしい。時代背景は1980年ごろでその設定値も宮崎さんならではこだわりがあるそうです。作品のキャッチフレーズは「上を向いて歩こう」らしい。現代が前向きに進むのが非常に難しい時代で、みんなが下を向いている時代。でも、上があるじゃないか~と宮崎さんは言いたいのだろう。

 涙がこぼれないように~なのである。

愛国消費という基準。

 消費が多様になったと言われて久しいが、そもそも、ニーズとは多様であるべき。それを一過性の基準で大量生産して経済大国経済大国って言われてきたからその錯覚度に本来の仕組み感が麻痺しているだけでしょう。でも、この言葉「愛国消費」というのはちょっと違うみたいである。

 広告文にはこうある。「下流社会」の著者が解き明かす新しい消費の波。これから売れるモノのキーワードは「ニッポン」だ!とのこと。欲しいのは日本文化への誇り~ということです。さて、日本人であることが誇りに思う若い世代が増えている!という仮説が仮に成立したとして、さて。洋食より和食、フローリングより畳、海外旅行より国内旅行。こうした若者の日本志向が、新たなる「消費」を生み出しつつある。日本の未来を変えるかもしれない新しいムーブメント、「愛国消費」の正体を独自調査と統計分析から明らかにするか・・・。う~ん、なんともたよりない文脈である。まず、それは必然であることに適当なキャッチフレーズを付けただけで新しい価値と錯覚させようとしてませんか?若者の日本志向ってそもそも、軸足がそこなんだから志向もなにもなく議論の余地がないし、独自調査や統計分析などと言ってもさらに輪をかけてワンである。

 しかし、反応しなければいけないポイントは「愛国」というフレーズ。もしこれに反応する70歳と20歳が共に同じモノを見ていたら・・・、見えているものが同じモノだったとしたらちょっと冷たい汗が出てくる。勿論、この国は愛しているが「愛国」というフレーズは語感はニュアンスは本当に「愛国」でいいのか。別の語彙をチョイスできなかったのだろうかと、選択肢のなさ加減がヤバイような気がします。これが危惧ありきの危惧ならいいのだけれど。なんか、トラップが多そうです。

アビィ・ロードが世界遺産!?

 世界遺産の基準は何?ビートルズのレコジャのあの横断歩道が世界遺産に決定したらしい。で、世界遺産ってそもそも何だったけ?って感じ。なんかある一部の人の主観というかさじ加減ひとつのような気もしなくもない。然るべき基準があるのだろうけれど。んなこと言ったらノーベル賞もよく年末にニュースでやっているなんとか賞みたいなご老体がいただいている奴とかって年功序列的な賜物!?一定の業績や知名度や経歴などが大きくこの価値判断に影響しているのでしょうけれど、まぁ、一生関係のない人間にしてみればただのねたみなのかもしれないが、しかし、ただの路が世界遺産はちょっと付加価値の「付加」が尋常ではないような・・・。

トイ・ストーリー3

 ピクサーの映画を観るたびに思うことはなぜディズニーしきりの映画は面白くないのか・・・である。面白くないというと乱暴な言い方になってしまうが、楽しさが弱いというか、それぞれのキャラに魅力がないというか、物語にエッジが立っていなというか、創り手の意図が伝わってこないというか、どの場面をどう捉えてもカッコよくないのである。何故か?「好み」で全ての答は解決しそうですが。この「好み」が一番複雑。自分の「好み」をどう自分自身捉えているかをどこまで知っているということになると、これも未知数であり大枠ぼわぁ~としているようなモノだから仕方ない。としても、ディズニーの戦略はフワフワしてモノゴトの質量が限りなく0に近い。「夢がある。」とはこれまた都合のいい表現になるが、何を指して「夢」なのか。

 と、これと同じようなことが2大勢力の構図によく感じる。グーグルとヤフーである。どうも私は「好み」の部分でヤフーをあまり活用しない。とてもメンドクサイ。素晴らしいエンジンであることは周知の事実ではあるが、使うというスタンスでは使っていて楽しくない。業務的な部分が運営・企画・開発者の意図の部分だろうか人間的に相性が悪いという印象を受ける。シェア的には確かヤフーの方が日本人のシェアを獲得しているらしいからその理由がよく分からない。とにかく、ヤフーの印象は使っていて(あまり仕事上以外では活用しないが・・・。)感じることは「楽しくない。」である。

 で、同じテイでアップルとマイクロソフトの構図が一番仕事に関連する密接な比較になる。さて、この2社を抜きで自分自身の仕事は成立しないことを十分に理解しているというテイで、正直アップルはもうメンドクサイ。20年以上もお世話になってきていながらこんな判断をするのは非常に心苦しいが、もう、アップルは楽しくないし洗練さだと思いたい部分が鼻につく。一旦、このように何かがひっかかるともう最後の最後の細かい部分までがひっかかる。好きだった部分までが気になり好きでなくなる。これは道具だからと自分に言い聞かしてもどこかでボタンをかけ間違えている状態。折り合いはつかない。で、一方のマイクロソフトは最初はただの仕事のためだけの道具だった印象が、使っているうちにその機能性や安定性が身にしみてくる。派手でも戦略的もスマートでもないこのOSが実は実務的という部分でしっかりクリエイトしている実感である。「カッコいいからMACを使っている。」という声をよく聞くがこのレベルは本末転倒である。数百万クラスの腕時計を誇示している人間の薄さが比喩の対象になる。まぁ、そもそも、時計に数百万をかけるほど手持ちがないという現実を卑下している部分は否めないが、もしかしたら、手元に数百万ある人間になったら、必然的に高価なブランドモノの腕時計を購入するかもしれないが・・・。まぁ、このマジックについては非現実的な部分としてスルー。

 で、「トイ・ストーリー3」という映画、そいういう意味で面白くカッコいい胸の真ん中にズンと来ちゃう映画でした。たぶん、上記の方程式がすべて当てはまる「作り手」のそれだろう。

KAGEROUの評価か・・・。

 話題になっているヒロさんの処女作「KAGEROU」。いい意味でも悪い意味でも話題になっていますね。ただ、これに対する評価が一様に芳しくない。これはもしかして逆に「読んでみてくださいよ!」というFAKEか?どこをリサーチしても「凡庸」であるという評価が伴う。

 逆にそうでない場合だったらどうするのか?歴代の文豪に肩を並べるような作品だったらそれこそ驚異の新人作家であるし、それを選出した実行委員会も株が上がるというテイ。しかし、そもそもそうではないし、ただのゴシップだと捉えればそうガチで評価などとしなくともいいじゃん。作用と反作用の関係で言えば、評価している人はどうなんだろう?結局、それを特筆している結果になっているような気がします。

 私は残念ながら、この作品に対する気持ちのレベルはプラスマイナス0です。だから、絶対読まないぞ!と拒絶もしないし、何かのタイミング(いろいろなたまたまが重なって・・・)で手元に落ちてきたならページをめくるかもしれない。そういう存在ですね。人間が一生かかって読んだ本は歴代の研究者や文豪の大家でも数万冊と言われています。世界中にいったい何種類の書籍があるのか想像もできませんが、まぁ、力まずに「たまたま」気になった書籍を順番に入手して手元に置き、気持ちが向けばページをめくればいいのでは、結果、何冊読んだかなどどうでもいいこと。で、当然、電子書籍のコンテンツが何十万・何百万あろうが、あんなデバイスで何かを得たいと思う世代では明らかにないので、このまま無理をせずに自分のスピードでいいかなと・・・。

 ただ、「歌うクジラ 上・下」の仕掛けには興味がある。

留学生が激減!?

 日本から海外への留学生の数がここ数年激減しているらしい。逆に韓国や中国からの留学生は増えているらしい。これはどういうこと?アジアからの留学生が増えているのはとてもいいことだと思いますが、えっと、日本人の学生さん達どうした?これからは間違いなくグローバルな時代じゃないんですか?その大切な時期に海外の異文化や本場のディテールを感じて考えてくることは一生の財産になると思うのですが。私事で言えば、ほんとに中学から高校ぐらいはヨーロッパに行きたかった。でも、それは不可能だとあきらめたがそれはいろいろな条件があるから仕方なしの部分。ただ、少年は大志を抱くものだと思っていたから自然と海外の文化や芸術や歴史に興味があった。気がついたら地球儀をぼぉ~と見ていたり地理の世界地図を見ていたような記憶がある。しかし、そんなチャンスはなかなか手元に引き寄せられるはずもなく自分にできることにシフトしたような気がする。

 に比べて今の時代、海外留学に対しての国のサポートはかなり充実しているし、受け側の国もほんとにたくさん存在する。のに、日本人の学生は動かないということらしい。この島に閉じこもって情報を端末から得ている。まるで、鳥の巣のひな状態。いつ羽ばたくのか?それとも巣の中で仮想で羽ばたく?3Dで羽ばたく?電子を交換しても本当の飛ぶための翼は生えてこない。それが情報の本質であり、デジタルギアの本丸。とはいえそう悲観することもない。「知る」ことだけに特筆すれば地球はかなり小さくなっただろうし、情報の発信側も「感じさせてくれる」ような疑似の工夫や表現技術は巧み(進化とは思えない。)になってきている。だったら、あとはその足で立っている場所を変えるだけじゃん。

 ネイティブな日本人がいつの日か情報の海の上でガチなアボリジニにならぬように。

理系?文系?

 さて、デザインという仕事は理系なのか文系なのか?という疑問がふと頭をよぎる。というのも、地元の大学のあるプロジェクトに関わらせていただいいるのですが、その中で「理系と文系」についてのライトな議論があった。以前にブログでも書いたのですが、現代の企業が新卒・中途採用の正社員を採用する際に傾向として「文系が有利」という昨今の事情があるらしいが、それでも、理系の人のニーズは世界規模では特にITの分野で引く手が余っているらしい。つまり、どういうことなのか?・・・と。

 で、自分自身ははたして何系?なのかと考える。そして、デザインという仕事の適性は理系なのか文系なのか?まぁ、この世界の知人・友人・仕事仲間を網羅してもその系統は絞り込めない。明らかに理系の人でこのデザインやアートの世界を闊歩しているという人も知らない(ただ、知らないだけなのでしょう。)し、文系だからデザインの仕事に有利だったという話もてんで聞かない。ということは、あまり理系でも文系でも関係ないということ。言わばそれが「芸術系」でカテゴライズできるのかな・・・と。

 さて、この「芸術系」とはどう定義すればいい、どう分析すればいい。これが全く見当が付かない。付かないどころか、そもそも「芸術系」で括ったところでそれで何の利がある?となる。括れないから「芸術系」だと言うつもりもないし、括れないということは括る必要がないということで、社会との適合性などということをテーマにしているから括れないのだろう(違うかな・・・?)。そもそも「芸術系」と言われて然るべき連中とは、もしや、理系とも文系とも超越したどこか上の方かはるか下の方、いや、どこかその国境を越えた場所で成立している括りなのかもしれないと考えてみる。それが、どこかで接点を持つ、持たせることができるのが「デザインの仕事」に通じているなら、一旦、フラットに立てれば誰でも「芸術系」と呼べるのかもしれない。右足、左足体重が気になるうちは結局ニーズありきになるのかもしれないですね。

 理系と文系の間には男と女の間にあるような深い谷が潜んでいそうな気がするのです。

世界で一番美しい「元素図鑑」。

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 こんな図鑑があるのか・・・、子どもの頃は時間があればいろいろなカテゴリーの図鑑を見ていた記憶が蘇ってくる。図鑑こそイマジネーションを掻き立てる素材である。しかも、「元素」である。これはちょっと高価な書籍ですが、ぼぉ~と見るのに手元に置いておきたい一冊かな。

 これが、さて、電子書籍のテイで携帯デバイスで見るって感じとなると、さて・・・?たぶん、そんなのを片手にイマジネーションは広がらんだろうなぁ~。それが電子書籍コンテンツの最後のボトルネック。人間がこれに慣れる時間までさて開発者達は待てるのだろうか。

イグアナちゃん!

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 こいつこいつ!さぁ、リサーチリサーチ。何を食べるんだろう・・・。飼うとなるとどんな奴なんだろうとなりますね。かわいい~!そして、カッコいい~!!!

本気のシューズ。

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 尾川智子さんはボルダリングに行く時、それがジムであれ自然の岩であれ靴を2種類持っていくらしい。ひとつは練習用とウォーミングアップ用。そして、もう一つはガチの本気シューズ。他にボルダリングに必要なモノと言えば、チョーク袋とチョークだけなので、やはり、靴は自分の身体に足にマッチする一品をリサーチしなければいけないということ。あとの備品としては指の保護用のテープや爪切りやちょっとしたケガ用のエイドキット。そして、ハンドクリーム程度らしいですから、ほんとにこの競技は身体ひとつで重力に立ち向かうというアプローチなんだ。自然の岩場に行く時は下に敷くマットを背中に担いで現場に持ち込む必要がある。安全性のためらしい。でも、それだけあればボルダリングは楽しめる。ボルダリングがいいのは自重を四肢で支えながら様々な壁面や岩石に挑むわけだから無駄な筋肉や余計な瞬発力が必要ないということ。つまり、身体ひとつでいかに壁面をオブザベーションしてルートを決めてそのイメージにそって4本の手足を動かすことができるか。その結果、ゴールが見えるという競技なのである。だから、筋力だけではダメ。身体の柔軟性やルートやフックポイントを見極める観察力が必要不可欠なのである。そして、長時間のボルダリングには筋肉の持久力が必要。つまり、自然と身体ひとつで向き合いただ自重を四肢で支え重力に立ち向かう競技なのである。

 そのためにいろいろなトレーニングも必要ですが、このシューズも必要なのです。

 が、長浜・彦根にはボルダリングジムどころか、その専門店がない。ほんとに残念な街である。

ツクリタイモノ。

 ツクリタイモノガミエテコナイ。ツクリタイノニツクレルハズナノニ。ソレガミエテコナイモドカシサ。アセットモナニモデナイコトハワカッテイルケレド、ダカラ、アルイテミルカ、クルマヲウンテンシテミルカ。シロクジチュウソンナコトヲカンガエテイルト、サラニ、ツクリタイモノガトオクニイクヨウナキガシマス。ナゼダロウ。ソレハ、ケッカ、ツクレナイトイウコトナノカ。イヤソウハカンガエタクナイ、ツクレルハズダ。キブンテンカンスレバイイノカ、コノママコノシコウヲツヅケルノカ・・・?ナニカヲツクルトイウコトハコノシコウサクゴノレンゾクデス。ソレハワカッテイルツモリ、ナガネンソレヲクリカエシテイルハズナノニ、トツゼンソレガオリテクルトキガアルコトモイッパイアッタシ、ソレヲマツコトモタイセツダトイウコトモシッテイルツモリ、だけど、ソレガクルシクモアリ、タノシイ。

あと10日。

 あと本年も10日となりました。早い早い~のか、厳しい一年だったのか。振り返るとただ一生懸命な1年でした。このままこのままこのテンションで年末年始を迎えるだけ。ということで4年まに始めたこのブログも現在このエントリーで1980件目。あと20本の記事を書けば大台の2000件です。よもや始めた時は2000件など想像もしていませんでしたが、これもただただ一生懸命に書いてきた結果。チリも積もれば~なのである。ほぼ毎月45本のペースでいろいろ書いてきました。これからもさらにテンションをあげていろいろ書いていきたいと思っております。

 で、あと20本、イッキに2010年中に2000本を入れたいと思っております。

ガンジーは弁護士だった。

 目から鱗とまでは言わないがマハトマ・ガンジーは弁護士だったのか・・・。

電子という枕詞。

 「電子」というニュアンスが本体になるまで時間がかかる。これが一般の認識のようですが、「紙」というメディアが本体になるまでにかかった時間よりも比較にならないスピードでそれがスタンダードになりつつあるという警鐘はさてどこまで真実味があるのだろうか。何基準でそんな仮説が成立するのだろう?それは希望的観測なのか。ただ、常に希望的観測の振幅こそがスタンダードになるための伏線であったことは真実なので、これも言わば過渡期と捉えるのが現代的なのかもしれない。古典的モノサシを決して「電子」に適用できないことも真理。ニーズがあるから変化が伴うのである。それこそ電子のスピードでそれらは進化していると言えるのでしょうね。さて、「電子」についてあまり掘り下げている新聞の記事やニュースを見ないがそこはもしかしてブラックボックスなのだろうか。いわゆる「電子」ですよ。分子・原子の電子ならばそれ相当の背景をくみ取らねばとも思うのですが、そこはツールに展開された場合、意外とスルーされているような。

 逆に「電子」という最新の技術をして、何故?すでに存在する「書籍」や「新聞」や「雑誌」を模倣しなければいけないのかという視点はどうか?「電子」の技術なら、これらの形態や様式を模倣せずとも独自の進化系を歩めばいいのに、なぜ、あえてすでに存在する形態を手法を取り込まなければいけないかという問題点についても意外とスルーされているような。例えば「電子XXXX」という新しい価値観で情報をサーバから端末に落として相互に連携させるような仕組みならば、何も「書籍」のテイは必要ないはず。なのにあえて「書籍」「BOOK」とするのはそれ相当の理由があるからである。それは、「電子」をスルーして「書籍」をくみ取らなければならない何かとなる。そして、「電子書籍」という言葉が成立している。

 さて、端末の技術が今後どのような進化をたどるかは一般市民的には未定としても、技術ならどこかに物理的な限界点が存在するだろうし、人間が使うツールとしての進化ののびしろもそう極端な形態ではないはず。人間工学がどこまで進化しても、所詮1Gの世界で体重30~80kgの生物が2本の手と10本の指で使う道具にどこまで進化が歩み寄ってくれるのだろうか。今後、人間の視力や聴力や筋肉がどこまでどうなるかまでも予測しているのかという仮説も必ずツールの進化には影響を及ぼしているはず。では、人間の生物としての進化の予測と道具の進化は連動しなければいけないはずだから、そのあたりをあらゆる分野の最先端の人達の頭の中はどうなっているのやら・・・である。

 で、一句、「白うさぎ、電子の穴で、ウエルカム」。

日本語の依存性。

 日本人は言い切ることを避ける。文頭にニュアンスを置き、説明を展開し、結論を他人に依存するニュアンスで意見を交換している。これがいいのか悪いのか。慣習だからとスルーすることも危険だし、そこを掘って何か出てくるのか・・・?となるとそれも掘り方を吟味しなければいけないこともリアル。ただ、非言語を使ってアートだのデザインの世界にいるとコピーライトの不連続性が体系なのか?システムシステムと言いながらシステムのフィッシュボーンに依存し過ぎて結論ありきになってはいないかと少しシニカルな気持ちになる。悲観しているのか楽観しているのかそれさえ「悲観」と「楽観」の語彙に依存しているような。思考の骨に血を通す段階で血と骨を入れ替えれば、甲殻類的思考とでも言うのか。体得していることが体得していないことに干渉されないように保護プロテクトとしての言語能力。切り込まれても切り込まれてもいなせるチカラが言語の本丸だとも考えている。さて、刀は何本持てばいい、傷はどこまでなら自己治癒の対象なのか・・・?である。

繁栄とは。

 「人類10万年史、進化の原動力を解く。」か・・・。マット・リドレーという著者、英国のジャーナリストであり、オックスフォード大で動物学の博士号を取得。英国国債生命センター所長などを歴任した人物らしい。その著者が言っている。原題が「合理的な楽観主義者」となっていることから、その独自の視点がとても気になる。手の中の石斧をマウスに変えるまで10万年以上のひらきがあり、その精密な社会的進化のエンジンがあると言っている。そこにある「アイディアの交配」というフレーズがどうも気になって仕方がない。その視点から見た人類の未来ってことになるのでしょうけれど、これが、また、この著者のポテンシャルを覗きたいという気持ちをどこまでも刺激する。知能や才能や技能が交換されながら生成される秩序と言いきっているようですが、そのどこかにもし自分自身がいるとしたら、何か接点的なモノが抽出できるかもしれない。それが、日々の暮らしにどうF.B.するかは未知数として、探究の価値がありそうです。すでにファイナンシャル・タイムスとゴールドマン・サックスが本書を本年のBEST1に推挙しようとしていることからも、この著書、かなりありかもしれない。

クマムシ!?

 クマムシを検索すると「緩歩動物(かんぽどうぶつ)は、緩歩動物門に属する動物の総称である。4対8脚のずんぐりとした脚でゆっくり歩く姿から緩歩動物、また形がクマに似ていることからクマムシ(英名はwater bears)と呼ばれている。また、以下に述べるように非常に強い耐久性を持つことからチョウメイムシ(長命虫)と言われたこともある。体長は50マイクロメートルから1.7ミリメートル。熱帯から極地方、超深海底から高山、温泉の中まで、海洋・陸水・陸上のほとんどありとあらゆる環境に生息する。堆積物中の有機物に富む液体や、動物や植物の体液(細胞液)を吸入して食物としている。およそ1000種以上(うち海産のものは170種あまり)が知られている。」と出てくる。

 そんな生物知らんわ!小学6年生用の科学の本に紹介されていた「世界最強の生物クマムシ」だって!そんなこの年齢(46歳)になるまでそんな虫の存在を知らなかったことが、なんともショック。ショックが一周回って驚愕です。無酸素にも他の細菌・ウイルスにも乾燥にも放射線にも宇宙線にも低温にも高温にも死ぬことがない。寿命が1年のこの生物。う~ん、知らないことが多すぎる。

 絶対にどこかで探してきて顕微鏡で観察しながら飼ってみたい!!!さて、そいつはどこにいるのか???

アレックスと私

 2007年9月、アレックスという名の天才ヨウム(オウムの一種)が31歳の若さで亡くなった。「鳥は思考して話す」という驚愕の事実を証明して・・・。と広告文に記載されている。ちょっとドリキとする広告だった。これは心が引き寄せられていく。「奇跡のノンフィクション」この言葉にどうも弱い。

電子書籍をガチで・・・。

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 さて、ここから電子書籍にガチで取り組みます。セミナーに行ったり実際作って販売している人との情報交換はすでにやっているのでそれほどハードルの高さは感じていません。ただ、流通や訴求の部分はまたいずれとして、モノを作ってサーバにアップしてからの思考錯誤が手に馴染むまでガチで取り組む所存です。その心意気の部分でこの2冊がまず始点ですね。

新譜いろいろ。

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 STINGの「IF ON A WINTER'S NIGHT...」と、NORAH JONESの「THE FALL」と、MILEY CYRUS の「CAN'T BE TAMED」です。ここら辺はテッパンなので新しいのが出るたびに~の、ルーティーンの部分ですね。ええ人は期待を裏切りません。いつのどの時代でも。

伊吹山の雪。

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 いよいよ降りましたって感じ。長浜エリアではチラチラでしたが、さすが伊吹山のふもとへ行くとこんな感じでした。今年はやはり雪が多そうだ・・・。

ミナトとクシナ。

 いやいや、ここまで質量が厚いとは。いやいやここまで覚醒するとは。もう、何回読んでも、読めば読むほどの味わいが出てくる出てくる。ワンピースは別格として、ここまでいろいろな気持ちが込められているともうこれはマンガというジャンルを超えてひとつの法典のようです。これだけでこの内容が質量を帯びているわけではなにしても、ここまでの物語の展開力があるからこそと、ここでこの部分に触れるのかという部分。まさに圧巻です。

 確かにこれまで4代目はチラチラ出てきた、しかし、お母さんのことはノータッチだった。それはこの巻のための伏線!?そうとしか思えない。「弓と矢の法則」しかり、引けば引くほど矢は遠くに飛ぶのですね。しかし、ここまで引くか・・・、ここまでの初速とディスタンスか・・・と。もっともっと、岸本さんはクシナを描きたかったのかもしれないし、もしかすると、母と子という部分がこの物語の本丸なのかもしれない。それをここまで引っ張ってきて、一気に開放!その創作者としての計算というかプランというか耐久力や持久力が凄いのである。

 しかし、クシナママの力はたぶん計り知れないだろうに・・・。そして、ミナトのセンスや大きな心。いやいや、父と母はこうあれみたいな熱意がこの巻にはちりばめられてる。これはもう絶対にマンガではない。くだらないチープで安易でナンセンスな啓蒙書や監修・編集の緩いテキストやポテンシャルの低い方の工夫のない暇つぶしよりもこれはぜひ教育の場に応用・活用するべきである。別にマンガで日本の歴史のうんたらかんたらをひも解かなくてもいいじゃん。実際残っている史実や肖像画などを検証するだけで不明確なことまで捏造して盛り上がらずとも「今」と「これから」をどう生きるかとか、そのために誰の言葉を誰の声を聞けばいいかを考えるべき。もしかするとそれはアレックス(インコ)の声かもしれないし・・・、クジラの声かもしれない。

感動で涙が出るのか・・・。

 こんな世界があるんだ。映像を観て感動して目頭が熱くなるっていいですね。
 
 尾川智子さん、カッコ良すぎです。これは惚れますね。

鶏口牛後か・・・。

 尾川智子さんの好きな言葉である。「◎意味:大きな組織に付き従って軽んぜられるよりも、小さな組織の長となって重んぜられるほうがよいということ。◎解説:「むしろ鶏口と為るも牛後と為る勿れ」の略。「鶏口」は鶏のくちばしのことで、弱小なものの頭のたとえ。「牛後」は牛の尻で、強大なものの末端を指す。◎出典:『史記』◎用例:鶏口牛後の志を持って社会に巣立つ。」とネットには解説が載っていた。なるほどなるほど。素敵な言葉だ。自分自身で突き進む風は心地いいのだろう、切り開くという感覚は爽快なのだろう。リスクはある、そして、その場所ならでの強い向かい風も吹くだろう、しかし、自分自身の目的意識を明確にし、アイデンティティーは自分で完結させたければ、やはり、こうなるのですよね。さらにファンになってしまいます。

尾川智子さん!なんじゃそりゃ!!

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 中指だけで懸垂って!なんじゃそりゃ!!!

ニュー・ギアです。

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 最近入手したドライバー。28歳でゴルフを始めてもう何本ドライバーを買ったか覚えていない。只今46歳だから、間違いなく18本以上は買っているので、たぶん、おそらく、間違いなく、1年に1本以上買っていることになる。何故、そんなに買い換える必要があるのか・・・、買い換える必然性があるからである。実は犬が歩いてもなかなか棒には当たらないのである・・・。

財津さんカレンダー2011到着!

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 今年も財津さんありがとうございます!またまた、来年もそこへ行くのが楽しみって感じ。ありがとうございます。2010年の11月はとても気にってしまい仕事場に貼っていま~す!素敵なメッセージをありがとうございます。

クジラの島の少女。

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 ちょっと読み始めましたが、なかなか、ニュージーランドの人気作家の文章は面白い。このタイプはたぶん日本の書籍にはないだろう。翻訳でニュアンスが変わっているのを差し引いても面白い書籍である。やはり、海外の方のオススメ書籍はひと味もふた味もみ味も違う。何が違うか、文化や慣習が違うからではかたずけられない何かがあるんだなぁ~。

 戦国時代とか江戸時代とかもうお腹いっぱいです。でも、まだ掘り下げるのか・・・みたいな。ほんとに金脈・鉱脈を探すが好きな国民性である。そのテイのイマジネーションは豊富なのに海外の文化はサングラスを手放せないって感じ。そこを掘ってもたぶん何もないだろうに・・・ってことを言うとよくカミさんに怒られる。自分の国の歴史に興味を持って何が悪いの!と。いやいや、ほんとに歴史の芯を喰えるなら興味はありますが、戦国時代の数多の史実にどなんの確証があろうか。たぶん99%はフィクションですよ。平安・鎌倉なんてことになればもっと顕著でしょうし、一旦、全てをリセットした国なんだから、そのラインの向こうに興味があるのはこれまた日本人のさじ加減ひとつでしょう。だから、日本の歴史に興味がないのではなく、それらを一周トレスした上で海外の歴史や国民性や文化や芸術や人物に興味があると言っているのに、それでも、日本の歴史をリスペクトする日本人。

 で、空の意思はこう言っている「総和こそが本意である。」と。

逃げないように。

 ようやく、ほんとにようやくコンスタントに二桁をキープできている。これは体調がいいことも大きく影響しているし、体調を維持するために毎朝毎晩やることをやっているからに他ならないが、それでも心技体であることは間違いない。体調や技術の面もありそこに立った時に不安がある場合、その不安は必ず実現する。それはどうあがこうが無理。必ずその不安どおりになるから面白い。まだそれを面白いと楽しめているうちはいいが、何をどう考えて準備して戦略と知恵を総動員してそこに立ってももわもわと不安の灰色の雲に空が覆われる。その雲を吹き飛ばすためにいろいろな精神的な思考のドア穴のカギを用意したつもりがどれも開かなかった。つまり、今思うと全ては「逃げていた」のだと思う。

 数年前にある1本にたどり着いた。それは、中古ショップで発見したとてもハンサムな1本だった。それまでに自分の刀を探すために、いろいろな雑誌やサイトをチェックしてどういう1本だったら納得してそれを持ちそこに立てるのかをイメージしてリサーチを繰り返した。しかし、理論やふれこみで得る情報からの知識では頭とシンクロせずに、練習に行ってもしっくり手に馴染まないし切れ筋も悪い。必然的にそれを持ちその場所に行っても同じ。練習場で10~20本に一回出るか出ないかの切れ筋は絶対に本番では出ない。そして、負のイメージだけが心に身体に刻まれる。そんな十数年を繰り返してきた。これは辛いってものではない。そして、腰を痛めてからボトムだった。「お前は道具に頼るのか?」と自問自答したが、道具に頼るしか仕方ないやん!と自分に逆ギレするしか仕方ない期間が続いていた。

 いっしょにそれを始めたライバルがいっしょに回っていて90を出した。完全なる敗北宣言だった。辛いを通り越して後半は彼を心から応援していた。そのラウンドが終わって、例えようのない悔しさに苛まれた。それが言わばリセットだったように思う。ただ闇雲に走ったり打ち込んだりするのではなく、まず、体調を戻すこと。これが基本だと痛感した。決して派手なトレーニングではない。ゆったり動き、半身浴をして、地味なストレッチをして、背筋を伸ばすぶらさがり。早く寝て早く起きる。これを完全に毎日のルーティーンにした。そして、4年。ヘルニアの部分はなんか無理な姿勢をすると痛いが、この夏は富士山山頂にも立てたし二桁スコアも3回続いている。地味な努力の末、結果が出てくれている感覚である。

 さぁ、身体は大丈夫、刀もある、あとは、そこに立ち「逃げない心」で振り降ろすことだけである。

アイアンマン2

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 ベタだと言われようが、「アイアンマン2」は特筆する要素が満載だった。シリーズモノの2作目には落とし穴が多いが、その落とし穴を逆利用してさらに加速させて質量を盛り込んだらこうなりました的なクオリティー。良かった悪かったかでは良かったのですが、それでもベタな空気はぬぐえない。しかし、それでも一周回って楽しめる映画です。特にの部分では科学や工学についての表現がとても芯を食っている。勿論、画面のグラフィック処理たるや、逆立ちしても「宇宙戦艦ヤマト」のスタッフにはできないような気がします。それほどってことでそのディテールは何かとなると、やはり、最新テクを踏んでしっかりと設計のセンスが高いということ。デザイン設計が音につけ映像につけ画面構成につけ動画の表現につけ全てに最高の表現が画面に展開されているから。うん、1も良かったが2は確かに加速してる。

地球にやさしいとは?

 よく聞くフレーズだけれどその真意は意外に表面的なことが多いように感じる。実は深いのですが・・・ということが見えないだけかもしれないが、仮にそうだったとしてもそれを確かめる術はない。だからうわっつらの適当なその場しのぎのような印象を受けるのかもしれない。本当に地球に対する優しさを持っている人なら企業ならあえて「やさしい」さなど特筆しないような気もしなくない。語感の問題かもしれないし、いいきっちゃえ!みたいな思いっきり感は短いサイクルでは成立しているかもしれないがその振幅は意外と小さいような・・・。では、なんといえばいいのか!と逆ギレも大人気ないテイではあるが、地球に対する優しさがあるならもっと具体的に「やさしく」と言っている本人・本体のポテンシャルを見せてほしいしそこを掘り下げてほしい。そこが確立していれば、どんな言葉も信頼度の質量があがるっていうもの。それ抜きでどこのどなたか知れない企業が、例え大きな看板を背負っていようが、企業として「地球にやさしい」というなら、それを看板に任せないで人が出てこいって感じ。つまり、人が出てれない組織だからそれがブラインドの向こうにあるのかないのか?ってことになる。いつでも取調室のマジックミラーの向こう側にばかりいると本当の対話ができなくなり、マジックミラーが鉄格子になったとき焦りますよ・・・っていう政治家の類も多いのでは。派閥って語彙を新聞やテレビで観るにつけもううんざりです。本当のやさしさを語れる人はもっと大きいような気がします。そしてそのタイプの人は簡単に「地球にやさしい」などという言葉をチョイスしないような気がします。ここまでこの言葉に食いつくのもどうかと思いますが、そんな気がふとしました。

電子書籍の作り方。

 さてそろそろ「電子書籍元年」も終わる。そろそろ電子書籍を作ってみようと思っております。これができたらオンラインでどこかに公開することができる。が、流通の経路や出版業界の仕組みの中で公開するのか、他のルートを手繰るのか、まぁ、いろいろな方法がありそうですし、今後この世界は拡充していくだろうから、さてそろそろな感じですね。意外といろいろな表現ができるかもしれないし、flashなどと連動すればアプリっぽい表現も可能だろうし、動画・映像コンテンツもPCの上でのブラウジンがベースならやろうと思えばMAXの表現もできなくはない。ということでそろそろ・・・ですね。

ひとつの卵。

 人間は一回の食事に10万個の卵を食べることはできない。そういう習慣がないからであり、身体のサイズに10万個の卵は多すぎるからである。10万個の卵をどう料理すれば美味しく食べられるなどと人間の思考は答を用意していない。が、それを食べられるという世の中になったからといって、それを食べられるツールが開発されたからと言って「卵」を食べたいと思わない。この感覚がいわばインターネットの中にあるデジタルテキストだと言えなくもない。人間は一回の食事に一個の卵をどのように料理してどのような食材と合わせてどのように盛り付けるかを考える生物だからである。それが楽しいのである。つまり知識よりも認識ということ。

 もうあまり見かけないが「大盛り番組」や「食べつくし企画」あれは観ていて辛くなる。何に対して辛いかというとその番組を作っているプロダクションのデレクターに対して、それを発信しなければ死活問題になってしまうと判断しているテレビ会社、そして、何よりもカメラの前で出された食材を胃の中に押し込んでいるタレントさん。まるで、後ろにジョン・ドゥーがいるようである。「大食」は罪だと誰か言っていたはずなのに、それがテレビで流れると普通に鑑賞してしまう人間の業。多く食べられることを競うなどローマの時代で終わったはずなのに、まだまだ、そこかしこにコロシアムは存在するのだろうか。

 一つの卵を美味しく食べられたらそれでいいじゃん。酷暑の影響で卵が高騰しているらしい。にわとりも大変である。餌を食べ毎日卵を製造している。人間も消費するだけでなく、にわとりのように何かを作らなければ、数億年先に地層の中で原油になるぐらいしか使い道はないだろうに、それも、わざわざ焼却して炭素に返す始末。地球は卵、美味しい楽しい卵にしなければと何億人の人が認識しているのだろう?

リニューアル完了!

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 ハリコミ作業スタッフの皆様、日曜日の夜にも関わらず現場に入っていただきまして誠に感謝いたしております。本当にありがとうございました。雨の心配もなく無事、リニューアルデザインハリコミ作業完了しました。これで近江八幡でも「お江博覧会」が盛り上がれば・・・と願っております。ちょっとカワイイ感じのロープウェイになりましたが、それはそれでアリかなと思っております。監督はじめスタッフの皆様方、本当にありがとうございました。

「歌うクジラ」の中には何がある?

 さて、「歌うクジラ」の中には何がある?こちらの村上さんはほとんどの作品を読んでいる。なんで同じ村上なのにこれほど違う。まぁ、時代を引っ張る作家さんですから、テイストが違うのは当然。でも、もうひとりはなんであんなにメンドクサイ。

ウエイトトレーニング+α

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 これは仕事場のフロアマットがずれないように拾ってきた石。片手でやっとつかめる程度のサイズ。重量的には3kg程度。ボルダリングジムデビューを果たそうと今準備をしています。その先はロープクライミングからのロッククライミング。何故そう思ったかはもう分からないが、クライミング関連のギアや記事や書籍を読んでいるとその醍醐味について、「自然と一体になる。」「重力を感じる。」「本能をふるい起す。」などのキーワードがちりばめられてて、それに心のどこかが反応しているような感覚。

 ちょっと余談ですが、よく映画やテレビドラマで主人公が高層ビルや高い崖から落ちそうになり、両手でがけっぷちにつかまりぶら下がっているシーンを見かける。高層ビルの壁のへりでもそうですが、結構、コンクリートや自然石に指8本でぶら下がるって握力と腕力がいるものです。なのに、女性のヒロインなどが「お前が犯人だったのか・・・」みたいな余裕のセリフをはきながら、3分以上ぶら下がってジタバタしている。生死の瞬間だからそりゃ火事場の馬鹿力が出ているとしても、壁の壁面や崖のヘリに指8本だけでぶら下がるって相当の腕力なはず。たぶん、ロープで吊るされているか、実は足の下に補助台があって、あれは演技上の条件下なのでしょうね。で、さらに、日ごろ鍛錬をしていない人は握力や腕力もさることながら、指の腹がそれ用になっていない。つまり、自重を指8本の腹で支えた場合、岩やコンクリートの設定がかなり痛いはず。ある程度皮が厚くなり神経的にも鈍感にしておく必要があるように思うのです。女優さんのあのきれいな手で岩に3分ぶら下がり、さらに演技をするなどありえないありえない。

 で、この岩はそれ用の指にするために毎日仕事場で握ってウエイトトレーニングにも活用しています。これが最初はかなり痛かったのですが、最近はかなり力が入るようになりました。山や川に行っても、どこか街のお店の壁面に自然石などが建築デザインでコンクリートで埋め込んである壁などを発見すると、あたりに誰もいないことを確認してそっと片手でぶら下がってみる。誰かに見られたら完全に「頭のおかしい人」になるだろうが、最終的にはどんな岩でも片手で3分はぶら下がっていたい。で、できれば、90度ぐらいまで自重を引き上げて片方の手をその上の岩に伸ばしたい。勿論、両足は使わない状態で。これができるようになったら、ボルダリングジムを攻めたいと思っております。

 片手懸垂レベルはなんとかできそうですが、指4本の平でとなるとまだまだ厳しい。つまり、フック状態とグリップ状態では2倍近いパワーが必要なイメージですね。そのためにも握力や腕力だけではなく、指の腹も自然石にフィットできるように、力が100%かけられるようにこの岩でトレーニング。

お疲れ様でした。

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 昨晩はハリコミ工事ありがとうございました。あと、本日も日曜日にもかかわらず2日目の作業。本日完成することを目指しておりますので、よろしくお願いいたします。大きな仕事、条件の厳しい仕事、時間が限定された仕事、いろいろな仕事がありますが、やっぱりこの仕事の楽しいことは完成した時の達成感。受注からお客様とコミュニケーションをしてキャッチボールをして仕上げ段階。いろいろなトラブルが過去にありますが、今、思えばそれも全て充実したひとときだった。その最中はもう投げ出したくなるほど辛いことや、もうここが自分の限界点だと妥協しそうなこと、いろいろありましたが、でも、まだ、この仕事をやれているのは助けていただけた、たくさんの人のおかげ。これに尽きます。たくさんの人のたくさんの熱意や技術やセンスや経験に支えらて自分の「仕事観」になっています。それが次の仕事へのモチベーションになっているということは間違いない大きな真理ですね。本日も皆様よろしくお願いいたします。私は何もできませんが、最初から最後まで雑用役に徹したいと思っております。

 だから、この仕事は辞められないですね。しかし、チームワークで取り組む仕事っていいなぁ~と思います。アート・デレクションという仕事、かなり単独行動・単独思考が多い。しかし、ひとりでは何もできないこともよく知っている。成果は全体、責任は自分。成功したときはチーム、失敗したときは自分。これができない人はデレクションはできない。フラットな誰かと組んで何かを達成したいと強く感じた夜でしたね。

本棚はその持ち主を写す鏡か・・・。

 ある作家の方が人との出会いをこう表現している。まだ知り合って間もない時、その方の書斎や仕事場にお邪魔する機会があれば、チラリとその方の本棚を見るらしい。すると、そこに収められている書籍を一覧するとなんとなくその方のことが理解できるような気がすると。確かに、その方のパーソナルな情報を直接であり知人から聞くことで人間像が見えるということもあるが、その方のプライベイトな空間に大切に収められている書籍を一覧すると確かに多くを言葉で聞くことよりも、より、人間像に触れられるのでしょう。まぁ、本棚がない・・・という方ならばそれはそれでOK。しかし、「私はあまり書籍には親しんでいないのですが」という人にはあまり自分自身が反応しないので、お会いしてそんな空間にお邪魔する機会があれば、一回、その方の本棚をそんな視点で見てみたいと思います。

 で、私の本棚は?となると、これまた、摩訶不思議なタイトルが並んでいることに改めて気がつく。ジャンルは無作為で系統やパターンがない。¥10,000を超える書籍もあれば、古い図録もあり、古本屋の¥50の本もある。どれも宝物であるが、脈略が全くない。が、そこに不思議なパターンも発見できる。まず、「グルメ」関連の書籍はない。そう思うとさらにパターンが見えてくる。「旅」「車」「アクセサリー」「時計」「ファッション」「水泳」「日本の歴史」「ゲーム」「投資」は全くない。つまり、現代の情報の海の中、その人のIDを確認する場合、「何かをしている、してきた。」ではなく、「何をしていない、してこなかった。」というマイナスの視点で人間像をフォーカスする時代だと誰かが本の中で言っていた。確かにそうなのかもしれない。足し算の思考パターンでは見えないことが、引き算の思考では見えてくるみたいな。

「クジラの島の少女」か・・・。

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 ある方のレビューで知った作品。映画も2004年に発表されているらしい。その原作がこちら。う~ん、何もその詳細は知らないが、とてもとても気になる。これはまず原作を入手したい。タイトルと原作の表紙デザインと映画のDVDのパッケージしか情報がないが、どうも、これはよさげである。

 こんな作品と偶然に出会えるのも、インターネットの魅力かもしれない。ただただ、向こうから来る情報を精査することにはあまり興味がない。送り手のテンションが軽いから。そして、それを進めるリアリティーがない。「買ってほしいから勧めてるんでしょ?」が絶対に0にはならない。よりも、信頼できる人が一度拝見されて、「とてもよかったです。」というコメントが素敵。そこにはデジタルコミュニケーションの真髄があるように感じます。ただ、会ったことも話したこともない方の「とてもよかったです。」には決してシンクロできないが、何回か情報交換をしていろいろパーソナルな話題で盛り上がった方であればその信頼度は高い。例えそれが長浜市内であれ、関西圏であれ、関東圏であれ、他府県であれ、NYであれ、ロンドンでも。

 にしても、スパムメールのフレンドリーな文脈にはあきれるを通り越して至高である。「私のこと覚えてる?」って、知らんわ!誰か知らんが、クジラの島でサメに食われてください。

カエラママの新曲。

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 新曲「A winter fairy is melting a snowman」がリリース。「melting」がCMで流れて意味が分からず気になっていた。なんて言ってるのか?と。で、スペルが分かってリサーチしたら「溶解する。」だった。ということは、冬の妖精が雪だるまを溶かす!?となった。これはどういう意味?ずっとずっと、それが気になっていた。新譜をチェックすればいいのだが・・・。そしたら、昨晩の夢の中にカエラママが登場して(それこそ一児のお母さんなのに妖精のように・・・)こう言った。「違う違う、冬の妖精が冬の寒さで凍った雪だるまさんの心を温めて溶かしたってことなんだよ。」と。そう確かに言っていた。そうか、英語の解釈は難しい。直球ではダメ。というか、夢にカエラママが登場するって、師走、かなり神経が疲労しているのだろうか・・・。ファンという生き物の深層心理は深い。今朝はそういう目覚めでした。このシングル、さっそく買おう。

おりょうさん。

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 大河ドラマが終わった。来年は「お江さん」である。しかし、今年の龍馬伝、私てきには福山君よりも真木よう子さんの方が圧倒的に印象的だった。最後のセリフ「う・み」も良かった。

適正な規模になる・・・か。

 そりゃそうである。電子書籍でも紙の書籍でも売れるモノは売れる、売れないモノは売れない。つまり中身なのである。体裁がどうであれニーズがなければコンテンツにはなりえない。つまり、雑誌や書籍の質がそうなったから売れないという現象が起こっているだけ。これを端末に入れ替えたとしても同じ。反応しない人は反応しないだろうという見解に一票である。そして、書籍が売れない、雑誌がメディアとしての広告効果がないと判断され、新聞と同位になる。テレビも同じ。ラジオなど数年前に断末魔を聞いた。つまり、メディアの価値がなければ広告が集まらない。広告効果もないのに、広告の掲載を促されるパターンはもう遠い昔の石の下である。効果は数値で認証できなければ、そこに費用対効果も存在しない。目に見えない効果に人はもうコストはかけない。と同時に目に見えない大きな価値が存在することの現実。このバランスとして書籍の絶対数は適正な規模に落ち着くのだろう。適正値内にエントリーしたいものです。

「日本語 語感の辞典」到着!

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 ちょっとまえがきを読んだが、う~ん、この書籍(辞典)は正解。欲しい感じがどうやら120%詰まっていそうです。昔から辞書を読むことも好きだったので、ちらちらと読み進めてみたい。やはり、英語英語って言われてますが、英語の前にやはり日本人なんだから日本語でしょう・・・。そこから他の言語に翻訳すればいいだけですから。英語が話せても質量が無かったり基本的なコミュニケーションができなければ無意味ですし。と、まぁ、こんなことを考えている人間としてはいつも手元に置いておきたいホンマルの一冊ですね。

EAT,PRAY,LOVE.

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 映画で知った原作本「食べて、祈って、恋をして」。J.ロバーツが主演しているってことも魅力の一つとして、やはり、NY発で800万部突破の世界的なベストセラーとなるとチェックしたくなりますね。それに40以上の言語で翻訳されているらしい。さてさて、楽しみ楽しみ。小説は「告白」以来となります。

握力アップ!

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 いいものを発見!これはいい。こういうギアには「硬度」というレベルがあり、以前に買ったばね式のモノやゴルフボール大のシリコン系は高度が10以下。で、バネ式は握り切るとそこで負荷が上がらないので、握力アップにはならない。何事も作用と反作用なので、硬度が大きい方がいいが、このシリコン系は自分の握力をMAXにできる上、それぞれ5本の指に負荷がかかる。これがいい。さらに硬度でいうと数値が15なので硬さも上のランク。サイズも手にぴったりなので非常に優れモノだと思います。これをMAX握り緩めるを10回ほど繰り返して、握り込んだ状態で10秒を数セットするともう上腕の内側がピクピクし始める。外よりも内側がパンパンになる。これを毎日運転中などにやっていれば、延べにして1時間ぐらいはグニュグニュしていることになり、かなりというか、昔(高校生)の頃の握力を目指したい。あの頃の記憶では右が65、左が62ほどあったのでこれなら、たぶん、指のホールディングで自重を支えられるのではと考えています。しかし、握力は握り込むので指だけのホールディングでは100%力が入らないので左右均等に握力としては70近く必要なのでは・・・と感じています。まぁ、指は仕事道具なので間接などを傷めない程度にグニュグニュしようと思っております。

自信のない悩みはどうする?

 昨日テレビである女性が「私は音楽の世界で食べていきたくて音楽の世界で頑張っているのだけれど、生活のことや先々のことを考えてもう自信がありません。このまま私は音楽を続けていけるのでしょうか?」という悩みを打ち明けていた。解はすでに出ていることに気がついてかつかないのか、「悩み」の状態である。しかし、「悩んでいる」段階でそれがすでに答であることにこのご本人も気がついているのだろう、その表情はそれほど絶望的ではない。つまり、「自信がない。」のなら音楽は諦めるべきである。それが正しい信号でありサインである。自分のやりたいことをやり続けるにはいろいろな条件がある。それは才能とか家庭環境とか様々な人との出会いなどのタイミングが影響しているとなる。が、これらはすべて「自分次第」。原因がなければ結果に繋がらないはず。音楽で食えていないのは、音楽の才能がないからである。たぶん、このことを理由に努力もそれほどしていないはずである。実際、自分の好きな世界で食べていきたいと考えている人の努力の質量は濃い。そして、この世界で食べていくと決意したならいつ何時諦めることになるやもしれないという危機感と緊張感で日々臆病になる。しかし、実際、自分の好きなことを仕事にして生活している人、そして、その世界で頂点を極めている人に共通していえることはたぶん「自信」があるのである。

 しからば、この「自信」とはどこからくるのでしょうか?これはさすがに恩師から譲る受けるものでもなく、親しい友が差しだしてくれることもない。まして、運で得るものでも、財で得るものでもない。これが、どうしようもないガチの「自信」の構造であり成分だろう。適当な文脈で「自信」を考察することはできなくもないが、正確にはすでにいつからか自分の中にある不思議な力が「自信」なのである。何か優秀な成績を残せたから「自信になる。」とか、地位・名声のある方からお墨付きを頂いたから「それが自信になった。」などと優等生は口にするがそれはうそ。そもそも、確固たる「自信」とはその人間の個体の中に自然発生した感覚なのである。だから、努力し鍛練を怠らない目的意識が生まれる。そして、それを持たない人とは各段の目標設定をかなり幼い頃からその人達は自然と行っているから、目標が至高となる。これがたぶん「自信」の本質だろう。

 で、「自信がないという悩みはどうする?」の解とは、「諦める」となる。そもそも、悩みだと思った瞬間にその方の腹は括られているはずだろうし・・・。数多の人生を再構築するノウハウ本やゴール設定を促すがんばろうブックが氾濫しているが、これらの中に恐らく「答」はない。

 99%の努力は絶対的に必要不可欠であるが、必ずそこには1%のヒラメキが必要なのである。

日本語 語感の辞典。

 日本語 語感の辞典という書籍を買った。もうすぐ到着する。これは楽しみ。WEBサイトや電子メールでのコミュニケーションにおいてどうも「語感」がになる。最近のいろいろな情報交換時に起こるいいこと悪いことはすべて3つのゴカンに包括されるような気がする。ひとつがこの「語感」そして二つ目が「五感」であり、三つ目が「互換」。この3つのゴカンが情報交換の際に注意しなければいけないポイントのように思います。印刷物ならあまり気にすることのなかった、広告やメディアの場合は相手がマスだっただけにそういうテイでという先入観や固定観念に助けられていた部分がダイレクトの情報交換においては相手のパーソナリティーを判断する必要があると言われている。つまり、印刷物に施術するコピーライトやメデァイに発信する場合のライティングとは違ったディテールをテクストに適用しなければいけないと思います。これが難しい。ひとつの語彙にさえ多様な受け取り方が発生する。これをしっかりと踏んでおくためにもこういう書籍「辞典」が開発されたのだと思います。辞典は昔から読み物だと思っているので、ぼぉ~と書籍のように読むのも楽しい。ちょっとテイストの違う書籍です。楽しみ楽しみ。

二つの価値。

 こんな考察がある。書籍と電子書籍の根本的なリアリティーの差について二つの考察である。まず、電子書籍は「どこを読んでいるか分からない。」という理由だそうである。これにはなんかドキリとしてしまった。全く逆の発想である。仕事で紙媒体とWEBコンテンツを比較してお話を進める際に、紙面だと盛り込める情報に限度があるが、WEBサイトは画面をスクロールしたり切り替えればサーバの許す限り情報量が盛り込めますと言ってきた。それは間違いない事実でありある意味メリットなのだけれど、リアル書籍と比較した場合、論説であり小説であり今どの段階を読んでいるのか、つまり、全体に対して今どの部分に意識を集中すればいいのかが分らなくなるということ。これは一見どうでもいいことのように思えるが実は感覚を麻痺させられていることになるという側面が確かにある。書籍なら表紙があり目次があり前書きがあり本体がありあとがきがある。本体についてもそれぞれのチャプター毎に編集者や著者の意図が反映されていることも含めて実は書籍は完結している。が、どこからでも読めるテイの電子コンテンツはただ情報を得るという行為だけに捉われ発信者の意図や想いや狙いを無視してただ情報である、テキストや画像や映像が並んでいるだけ・・・と捉える側面があるということ。これは、クリエイターとして冷や汗ものである。情報を得ればそれでいいのなら、誰が作っても同じことになり、フラット化どころか均一化された情報の本質だけ、しかも、無駄が一切介在できない作りになっている傾向にあるということになる。これは、確かにそうかもしれない。ブラウザで切り替わるWEBサイトの区切りはどこでつければいいのやら。つまり、このことは人間の思考の中でマッピング能力と言われる部分らしい。全体の中におけるその位置を認識することで情報のディテールの優劣を判断している。また、情報と情報の相関性をこのマッピング能力で感じることでより情報のディテールののびしろを感じ分けているということになる。音楽で言えば、もう聞こえない音とまだ聞こえない音の間を感覚と記憶でつなぐことで全体の情緒やクオリティーを感じてそこに主観としての反応が「楽しい」「悲しい」「激しい」などと連動しているのであるから。それが、確かに電子書籍関連のコンテンツには全く欠けている。

 二つ目は目的ありきで情報にアプローチしている以上、「偶然の出会い」がないという事実。これにもドキリとしてしまった。つまり、検索機能で情報を絞り込んで得られた場合、ただ、「欲しいモノ」がそこにあるのなないのかが電子のパルス。いくら一生かかっても使いきれない読み切れない書籍がそこに存在するとしても、それは何の意味もないに等しい。一生にどれだけの書籍が読めると言うのだろうか。それよりも自分が出会うひとつひとつの情報としての書籍とは、間違いなく、何かの意図や感覚がチョイスしてその質量が手の中にあると感じることで、その書籍の中の文字や写真が意味を持ち彩色を喚起させるのである。書店に行きぶらりぶらりとアンテナを立て、出会うべき人に出会うように書籍に出会うことがWEBの世界や電子書籍にはまず存在しない。確かに・・・である。

 で、この価値をどう捉えるのかさえもしかしたら、今の時代に試されているとしたら、ここは大きな大きな分岐点のように感じられた。誰でもどこでも入手できる情報がクラウドの中に存在している。しかし、物理的にそれをどうチョイスするかは人間の能力としての機微の部分に委ねられているということになる。さぁ、どうする?一旦誰かに何かを預けるのか?このまま自分の感じるまま指針とするのか?う~ん、摩訶不思議な時代である。電子書籍の未来も書籍の未来も実はここが分岐点なのかもしれないし、または、大きく進化するためのここがボトルネックかもしれない。

ジンベイザメ・・・。

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 最近、娘達がいろいろ可愛いぬいぐるみを自作しているに刺激を受けたお父さんの作品。私のイメージでは「ジンベイザメ」なのですが、娘達の酷評は「気持ち悪い未知の深海魚」。このギャップは何だぁ~!力作のつもりなのですが、たぶん、子どもの心が足りないのだろう・・・。いやいや、あるいは、もしくは、人形を創るとその創った人の魂が人形に宿るとか宿らないとかというテイのお話がある。その感じでいうなら言わば、このキャラは自分の中の何か摩訶不思議な部分がこのカタチでアウトプットされてここに存在している~みたいなことだったとしたら、このルックスはちょっと問題がある。

ボウリング大会!

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 今日は十里町自治会でのボウリング大会。文化体育部部長の私は裏方なのでボウリングはできませんでしが、皆さんの楽しい感じがとても感無量でした。これで、今年度の事業が全て終了。春のグランドゴルフから5つの事業に携わらせていただき、参加するのに渋っていた自分の小さい感じがなんともなさけない。運営させていただきはじめて知るこの大変さと充実さはこの責任を1年間受けた人としか共感はできないんだろうなぁ~といろいろ一年間を振り返ってしました。参加頂いた皆様、本当にありがとうございました!終わったぁ~~~~!!!

魅力発信発見プロジェクト。

 さて改めて「魅力」とは何かを考えることは意外と難しい。そもそも「魅力」とはどう定義できるのだろう?その定義の普遍性は?それは何を持って魅力とさせるのか?数値的なことなのかイメージ的なことなのか?一般的に何かの魅力を分析・考察しようとするとメリットや効果や何かの規範に対してプラスに作用することをチョイスしがちではあるが、魅力を伝えるとなるとその規範の軸足がぶれる。つまり、誰が感じている魅力なのか?が明確にアウトプットできなければ、訴求にはつながらない。自分が魅力だと感じていることやモノでも賛同を得られなければ「へぇ~」で終わり。しかし、共鳴できる視点があり「そうそうそれそれ!」という視点があれば、「魅力」としてそれは成立する。人はその判断を一瞬で判断していると言われている。感覚であり論理ではない部分が実は本丸なのである。いくら何百枚の論文を読破しても多くの時間でそれを訴求しても共鳴を得られなければ実際問題、発信にも発見にも値しない。これが「伝える」という作業の一番難しいピーク点である。では、人知を尽くせばそれは成立するのか、莫大なコストをかければそれは反響するのかとなるが、そうでもない部分が結局印象度を上げ好感度に繋がり信頼を獲得している場合が圧倒的に多い。人間は「慣れる」生物だから、何回も同じ表現を見続ければそのイメージが脳裡に焼き付き固定するが、それは良きにつけ悪しきにつけ「慣れる生物」なのである。

 で、「魅力」とは、主観であり客観である。伝える視点が軸足となり、どこまで、その熱量を何かの手法で伝えるかがキモ。つまり、普遍的な「魅力」と言われているものを具現化してもディーテルは薄く、リアリティーは低い。つまり、存在感のない質量感のないモノをいかなる手法や手段でアウトプットしても伝わる伝わらないで言えば伝わらないということになる。意味的に。良いことと悪いことで言えばどちからというと悪いことの方が伝導率が高い。これを逆に利用すると「良いこと」をクローズアップしてフォーカスさせることができるという手法もあるが、さて、ここまで登っていただく意義があるのかないのかという判断をいずれしなければならないだろう。まさに、日々、これの繰り返しなのではあるが。

本とは?

 本をめぐる環境が激変している。実際にベストセラーと言われている書籍についてあまり興味がなく、特にベストセラーを読みたいと書籍をリサーチしないので、一体今どのようなカテゴリーがベストセラーなのかまったく分らない。単純に安易なビジネス書やダイエットやグルメ関係なのか?タレント本なのか?軽めのサスペンスモノなのか?では具体的に著者は誰?など全然リサーチできていないので、何が売れる書籍で何が売れない書籍なのかは分からない。ただ、傾向として特定のWEBサイトや新聞の広告による書籍の情報をリサーチする機会が多いので、もしかすると、その傾向が強くなっているかもしれない。が、ジャンルで言うと必ずしも日経新聞の編集意図や特定のWEBサイトだけが興味の対象ではないので、それこそ、ぶらりと最寄の書店でフラットな気持ちでどこのコーナーというわけもなくふらふら歩いて気になる書籍をリサーチしながら入手するというパターンが多いので、傾向的にもまったくランダムだと思っている。しかし、書棚にある書籍はカミさんに言わせると確実に「偏っている。」らしい。でも、結局興味がそこしかないので、書籍のパターン化は崩しているようで崩せていない。

 つまり、「売れた書籍が良書」なのか?、「良書だから売れる。」のか?は分からない。しかし、本が売れる売れないということはあまり実は気にしていなかった。売れることが出版社のキモであることは当然でありビジネスとして成立不成立がこの売れるに深く関係するから、たぶん、恐らく出版社は「売れる書籍」しか発行していないだろう。しかし、中には出版社として編集者としてこのような書籍を市場に送り出したいと考えて監修・編集・企画する場合もあるだろう。では、この比率とはどのようなバランスで時代の推移を形成しているのだろう?まぁ、そのタイプの日常業務ではないからと言って、書籍を売ることに興味がないわけでもないので、「どうしたら売れる書籍が作れるのか?」とデザインという仕事のシンクロしそうな部分には興味がある。ヒット商品が良品とは限らないなどと単純にこの構図を捉えることもしたくはない。

 で、売れる書籍は電子書籍とどんな相関関係にあるのか?という洞察についてですが、たぶん、この両者は共鳴しているはずである。確かな物理定数は知らないが、形態やデバイスが変わっても本体の質量は同じだろう。この場合の質量がホンマルではあるが、結局「ええ感じのモノは強い」ということで間違いないように思います。本という存在が問われているが別に紙であれパルスであれ、「ええ感じ」であればいい。つまり、ええ感じの人はええ感じの何かを創造しそれをやはりええ感じの人が受け入れているから文化や慣習が形成されるということもひとつ軸としてアリなのではないだろうか。

 ええ感じの人でありたいものです。

「ソルト」DVD到着!

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 アマゾンはほんとにいい。このスピード感とお値打ち感は圧巻ですね。コンビニ決済すれば手数料がない。これが一番何かを入手する一番いいカタチなのかもしれないですね。インターネットの活用術のキモはここにあるような気がします。

 で、「ソルト」これは映画として勿論珠玉ですが、それプラスがあるから購入して手元に置いておきたいわけで、なぜ、必要かがその作品の中にあるなしが何かを創造しようとするときのキーワードだと思います。そのためにはまず「見えている。」必要があり、この「見えている。」は決して情報化できなモノ。インターネットが地の果てまで浸透しても結局ここがホンマル。「炭素に人は反応している。」というフレーズを最近読んだある書籍で発見した。これが現代の真実のように思います。じっくり、このフレーズを分解して再構築できれば、それは優良なコンテンツとしてのクリエイトなはず。壊して創るから人間なんだと思いますね。逆に再構築さえできれば立派なクリエイターってことになる。

GOLDENBAT¥200!

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 コンビニで発見した「ゴールデンバット」。ほとんどのたばこが値上げして¥410になったのに、このたばこは¥200をキープしている。美味しいたばこであり好きなたばこなのですが、さすがに1.1mgはキツイ。キツイのになんで買うのか?毎日はキツイのでたまにこの香りを楽しみたいかな・・・と購入しました。

 世の中、喫煙者に対して真っ向からアゲンストが吹いている。高い球を打ち出せばティーグラウンドより後ろにボールが戻ってきそうなアゲンスト。低い弾道で距離を諦め方向性を重視してカップを目指そう。なんのこっちゃ。この風が止むことはないだろうし、フォローの風が吹くこともないだろう。しかし、何事もルールを守って楽しむならそう避難されることでもないだろうに。

師匠のひとこと。

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 これは東京の師匠から毎年いただいているカレンダーの11月分。このひとことは心に突き刺さった。何か物欲が頭を擡げる時、必ず、師匠の声が頭の中でする。「それは本当に必要なものなのか?」と。確かに、それでスルーした買い物は数知れない。で、結局、買わないと決めたらそれは必要のないものだと知る。そして、何故欲しかったのかさえも忘れてしまう。言葉のチカラである。こんな心の師匠というかガチの師が私には7名いる。その方の言葉は何か迷った時、失敗した時、落ち込んでDEEPな時、必ずどこかから声がする7名の師匠。つまり、人間は絶対に一人で生きているわけではないということ。だから人間だとも言えるわけです。自分の自我をエゴ化させる仕組みがデジタルの仕組みの中には非常に多い。限定できないほど多い。が、それを進化だとか進歩で片付けて没頭する。その結果、心や頭が遍在する慣習や文化や価値感から切り離される。それが電子書籍だとは言えない部分もあるが、アナログの良さなど別に特筆する必要はない。デジタルコンテンツの質量のなさにいかにディテールや質量を施す設計ができるかが「デザイン」という仕事に含まれてる。そもそもそれが軸だったことが差別化のアイテムになりつつあることも摩訶不思議。いやいや、それを意識化するために、逆にデジタルデバイスがあると捉えるとこれが納得いく。本末転倒が一周まわってリアルなガチなホンマルに辿り着く。まさに「死亡遊戯」である。

女神か・・・。

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 ちょっと仕事で使うかもしれない写真。この眼で一度だけしか見ていなけど忘れられない自由の女神。写真や映画や雑誌やテレビで何百回も見ているのに、たった一度のあの記憶に勝てないのは何故?そこにインターネットやデジタルコンテンツの薄さの秘密があるのかもしれない。五感の大切さをいずれ人はデジタルデバイスの中に見つけられず、疑似であることのストレスが極端な結論へ人を導くかもしれない。その場所のことをもしかするとガラパゴスと呼ぶのかもしれない。

映画「ソルト」DVD発注!

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 結果、映画「ソルト」のデレクターズカットをアマゾンで注文しました。楽しみです。まぁ、コレクションとして手元に置いておきたいという気持ちもさることながら、非常に綿密に練れたストーリーだったので、ガッチリ物語をディテールとして頭に入れておきたいというところ。たぶん、あと2~3回観ることで、アンジーの微妙な演技の機微がさらに深く楽しめるような気がします。それに内容が完全に頭に入った段階で字幕を消して英語で観ると、これがまた、映画の本丸に触れられる。「あれ?あの翻訳はおかしいなぁ~」とか、「やっぱこの場面ならこう言うだろうなぁ~」が結構見つかるのです。別にこの物語でこの設定なら、他にもスタイルや存在感やテイスト的には女優はいるだろうが、やはり、A.ジョリーは超えられないだろう。どうも、自分でスタントをやってしまうとか、アクションの鍛練を怠らないとか、そっち系の批評がとても多いのですが、絶対にそうではない。アンジーの映画はたぶん、サイボーグ以外は全部観ている(DVDもほとんどある。)が、彼女を始めて「ボーンコレクター」で観てからそのルックスとかプロポーションとかではなく、演技の秀逸さが追随を許していないことになぜ映画の評論家は触れないのかと思っています。ボイド氏の娘だとかプラピの奥様だとかはどうでもいいこと。彼女のいいところは、あたりまえのことですが、その秀逸な演技力だと思います。この魅力の上にルックスやプロポーションやアクションや存在感が乗っかっているからアンジェリーナ・ジョリーなのである。

立体視映像作成機能か・・・。

 そうかそうか、ついにそれがこのソフトでできてしまうのか・・・。まぁ、機能的には3Dですから、立体視映像作成も同じ軸の上、立体視させる画像処理さえ演算すれば疑似で立体化はできるだろうとは思っていたが、もうすでにそれが出来てしまう。しかもいつも使っているソフトで比較的簡単に。これはチェックですね。バージョンもひとつ上げるだけのようですし、どこかの段階で近いうちにこの取り組みはしておきたいですね。3Dだからどうやねん!という気持ちも心のどこかにあるものの、お仕事として3D的な立体表現をWEBや映像コンテンツで・・・というニーズが発生した時におろおろするよりも、試験的に何かを立体視的に作ればどんなテイかが実感できるし、これは意外にイケるかもしれないし。オモロイコンテンツが作れるかもしれない。自分自身が3Dだからどうだと考える感覚と、世の中の3Dへの効果に対する期待値にギャップがあるとしたらそれをどこかで確認したい気持ちもある。

 なんでもそうですが、知識として知っている範疇から実際自分が活用したり作ってみて感覚が違うことが多いので、これもその類かもしれないし、意外と摩訶不思議な立体映像ができるかもしれないし、大好きな恐竜やくじらが立体的に3D映像で動かせたら単純にオモロイ。これも何かのサインかもしれませんし、気持ちが向いているうちにソフトを揃えて何かやってみようかなと思っております。

詳しくはこちらのWEBサイトをご覧ください

あと1ヶ月です。

 いわゆる師走です。あと2010年も1ヶ月。なんとかオリジナルカレンダーは完成したので、ぼちぼちとお世話になった皆様に配ったり発送したりしております。あと、いろいろ販売促進的なことや新しい企画など年頭にやりたいと構想していたことは、まぁ、いつものことながら30%もできませんでした。なかかな時間を作り新しいことや仕事以外の営業促進や新企画への取り組みって難しい。世の中が厳しい厳しいという空気なものだから、何かそれだけで追われているような危機感を煽られて、「こんなことしてる場合じゃない!」って考えてしまう。でも、現状維持は100%維持にならないし、継続力には繋がらないことは周知の事実。動き続けることが何よりも大切だと頭で理解していても、だんだん、展開力というか行動力が萎えてきているのか・・・?ダメダメ、これじゃダメと、自分自身にムチを入れるもアメは意外と美味しい。ムチも放置されて~みたいなことになってしまっています。やはり、モチベーションを上げることや維持することが大切ですから、そんな時こそ自家発電できな場合はパートナーを持つことだろうと思います。会社のスタッフやましてやカミさんはそのタイプではないので、ガチでモチベーションやビジネスモデルのお話の深い部分を意識共有できる「相方」がそろそろ欲しいと思っていた。

 しかし、それは意外と近くにいた。それが「キノギノプロジェクト」になる。ほんとにキノさんとの情報交換はモチベーションが青天井。いろいろな好条件がここまで重なると心地いいを飛び越えて昇天の連続である。が、情報の交換だけでは熱は発生しない。知識をネットで交換できたなら、次のプロセスとは質量のあるモノの交換であり、個体が動くことである。つまり、このプロジェクトをきっかけに来年2011年はまさしく「KINOGINO元年」にしなければならない。数多の構想プロジェクトを多くのクリエイター・アーティスト仲間達と質量のあるクリエティブ・アートワーク・プロダクツに変えていこうと思っております。そのアンカーとして「KINOGINO CALENDAR 2011」を作りましたので、まだまだ、ふわふわした遍在価値の芽生えですが、必ず、質量のある価値に変えていきたいと思います。その考え方の指針としてのコードネームが「GALAPAGOS(ガラパゴス)」となりました。また、この詳細はオフィシャルのサイトも作成するので、そちらでじっくりと、そして、このブログで部分的に記述・案内していこうと思っております。

 そんな、あと1ヶ月を迎えての独り言でした。