Let's play game.

 映画「saw」がファイナル。確かに猟奇殺人をテーマにしたソリッドシチュエイションという切り口はこれまでのただ幻想的な恐怖や摩訶不思議な力への恐怖とは異なる新しい思い切った切り口だった。それがこれほどニーズを獲得するとは制作に関わった人達も意外だったのではないだろうか。確かにこのジャンルはニーズがあったがここまでのシリーズ化を果たすとは、つまり、そういう時代でもあったという側面があったということ。必ずしもこれが人間像の全てではないがこの映画が描いた人間像は時代を完全に映していたと捉えて間違いないだろう。昨日、お茶を濁したような「死刑」に対する各界の著名!?な人達が小学生レベル(小学生にさえ失礼ではあるが)のみんなの会議論を展開していた。どの誰の論点を分解しても陳腐で安易で感情的すぎる。人間の「死」に対してよくもああまで無責任な言葉や文脈を並べられるものである。もうそれを近くに感じている人達だからこそ危機感があったのだろうし、切羽詰まった感じがどうも滑稽だったから、3分で見切ってしまった。「死刑」の是非についてあなた達には何も語る資格がないのだから、何を言っても言葉が軽い。まして、中国人との議論など茶番である。つまり、この番組の制作側の意図がもうテレビのステイタスを据え置き計算が計算でなくなりある証拠。そんなテレビプログラムになってしまう現代のメディアの最後の断末魔のような番組だった。登場人物たちがなにをどう論理的に語ろうが感情的に語ろうが、それはもう悲鳴にしか聞こえなかった。残念。

 で、映画「saw」のファイナルだけはまだ観ていないし、DVDのレンタルを楽しく待っている。たとえ期待した結末でなくともそれはそれでひとつのファイナルだから楽しみであるし、もし、これまでの結論が出ているのなら、それはそれで最高である。ある小説家が明確な結論を出すことは依存だと言っていた。つまり、「xxxx力」とか「人生のxxxx」とかという書籍のニーズは適度なストレスを枠を枷を自分に適用したい人が買う書籍だと言っていた。確かにである。だからそのテイが売れるという出版社と編集者と流通の現場の人達のトラップが巧みなのである。だから、小説が読まれなくなったというわけでもないらしく、小説は小説でヘビーユーザーが今も昔も一定数いるとの分析だった。売れる本の条件は「否定されにくい本」であり、それが小説になると誰が読んでも「同じ結論」になる文脈に対して人は反応して安心するから購買につながりベストセラーになるとのこと。確かに。それぞれの文脈にそれぞれの感想の幅がある場合、相対的にはレスポンスが少ない。あくまでも売るためには絶対的な感想の対象を用意しなければいけないとのこと。では、良書とは何か。つまり、「考えさせる本」であり、「考えさせる物語」なのであるそうです(それが少なくなったと嘆かれているがそうでもないらしい。)。しかし、現代は心のどこかで「繋がりたい気持ち」がふつふつと脈々と湧きあがっているから同じ価値観を共有させようとするトラップに購買が比例するらしい。な~るほど、そういう仕組か・・・みたいな。

 で、映画「saw」のキーワード的なフレーズ「Let's play game.」である。人生はゲームなのか?勝つか負けるかが人生なのか?勝つとは?負けるとは?これがトラップである。そしてそれがシリーズ化の成功要因である。それがなんでもゲームは楽しい。スポーツでも趣味でもビジネスでも人生でも。それを何かに置き換える知恵があったから人間は与えられた時間を有意義に過ごしてこれたと意識できるとこの作者は言いたいのか?死刑の議論についても同義である。だから、昨晩のテレビの中の彼らはとても生き生きしていたことは間違いない。

 そこで今回のブログの本丸について。「チェス」というゲームがある。これを知ったのは中学生の頃、ゲームが好きな友人達は将棋が主流だったのでそんな友達とは将棋をやるが、実はずっとチェスをやりたいと思っていた。シンプルでゲームとしての歴史があり、映画のシーンでよく登場するチェスというゲームにいったいどんな魅力を感じていたのかは忘れてしまったが、何か興味の対象として心に強く残った。時を経て回りにもそうチェスが好きだという人間もいない。私のレベルで競技会に出てもこてんぱんだろうしとずっとずっと気になっていたがチェスを楽しむことはできないでいた。そして、数年前に娘がDSを買った(というか買わされた)。全くこれらのソフトゲーム(マリオを始め~)に興味がない私は「あのソフトが面白い」「このゲームが楽しい」と言われても何ひとつ琴線には触れなかったが、唯一、軽いゲームソフト群の中に「チェス」があった。ここで娘のDSを取り上げて毎晩そのソフトとゲームをした。とにかく強い。100戦ほどやった段階でも1勝もできない。しかし、120戦目ぐらいに始めて勝てた。言わば始めての1勝である。たかがこの小さい端末にこれほどのめり込めたのは私の場合「チェス」がロードしていたから。たががプログラム相手にこれほど楽しかったのはあまり記憶にない。そこから、さらにチェスへのリサーチが始まり。書籍で過去の有名な対戦結果のログや世界チャンプのチェスに対するコメントを読んでさらにヒートアックした。私は全然強くないので、身近な人とボードで対戦しても結構負ける。でも、そのゲームの最中は頭の中で様々なベクトルの駆け引きが始まる。これはソフトゲームではない感覚。それが実は一番楽しい部分だと気がついた。だからゲームをするなら人間がいい。端末やデバイスの向こうにいる開発者も人間。ブラウザの向こうにいる情報の発信者も人間。フェイスtoフェイスでコミュニケーションするのも人間。つまり、脳(人間)は人間でスポイルされるということが全てに精通していることを絶対に忘れてはいけないということ。それを誤解しボタンをかけ間違えると絶対にどこまでもズレ続ける。それをゲームとして捉えるか別の次元で対峙するかは個人差があっていいと思うが、大きいゲーム、小さいゲーム、今年もいろいろな対戦をしたような気がしています。そして、勝ったか負けたかは白黒分からないし、保留の場合も、明確に結果を突き付けられた場合も、それなりに楽しかった。致命的な結果にならないテイで勝負を始めるからそこそこのゲームになり、それを楽しめるスキルや能力も結果、少しは身についているのだろう。しかし、楽しさは慣れる。ただ闇雲に大きな強い刺激だけを求めるジャンキーにならぬよう、いいゲームを2011年もやっていきたいと思います。ということで、ブログ記事2000本まであと1本。このブログもひとつのゲームかもしれないし。

comments

否定されにくい本と、同じ結論になる文章ですか。
歌の歌詞と、作曲のコード進行に似てますね。
あまり過激な歌詞は否定されますし、コード進行は
流れが決まっていて、多少は寄り道しても元の進行に戻らないと気持ちが悪いというが曲が完結しない仕組みになってますよね。
その点ブログはいい! 今の自分の環境が非常に良い。
僕にとって兄ちゃんのブログは「考えさせられるブログ」であり「考えさせられる文章」
ブログのスタイルと楽しみ方を考えながら、文章の表現力をも考えさせられる。
何人かのヘビーユーザーさんがおられるとは思いますがみんなかなり考えさせられていると思いますよ!
考えるのが面倒な人は、兄ちゃんのブログのヘビーユーザーにはならないはず。
そんなコメントたくさんきてませんか?
レッツ プレイ ゲームですか、なにをするにも楽しむ感じる感覚を持つのが必要なのかもしれませんね。
ゲーム感覚というと聞こえは悪いし、ゲームソフトの感覚の形容しているのだとは思いますが、これとは違った5感すべてを使ったゲームこれがおもしろい。
兄ちゃんの言うとうり、何をゲームと位置づけるかは人それぞれですが、スモールゲーム、ビッグゲーム色々ありますが、僕は簡単には勝てないゲームが好きですね。

  • kuni
  • 2010年12月31日 13:55

考えることが面倒な人って多いでしょうね。
これもIQの分布と同じ比率らしいですね。
ただ、その比率は時代時代で異なるみたいですが、
そう根本的に変動はないでしょうから、
この黄金比率のような法則が全ての
マーケティングや教育や政治の現場を
仕切っているはずです。
自分自信をマッピングする能力とでも言いますか、
それが「考える」ということと深く連動しています。
何も小難しいことを言うことばかりが「考える」でもないし、
感覚的な文脈にも実は深い背景があったり。
ここが一番オモロイですよね。

ゲーム好きは国民性があり慣習の部分も多い。
しかし、上記の分布しかり、自分をどこに
マッピングするかで振幅が決まるのでしょうね。
ポカァ~ンとした人は先天的にも後天的にも
ポカァ~ンとしていますし・・・。

私は一番になれないリズムを持っているようで、
諦めずこれからも一番を目指したい。
が、何を持って一番かが一番悩む部分です。

  • khuz
  • 2010年12月31日 17:04

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