日本語の依存性。

 日本人は言い切ることを避ける。文頭にニュアンスを置き、説明を展開し、結論を他人に依存するニュアンスで意見を交換している。これがいいのか悪いのか。慣習だからとスルーすることも危険だし、そこを掘って何か出てくるのか・・・?となるとそれも掘り方を吟味しなければいけないこともリアル。ただ、非言語を使ってアートだのデザインの世界にいるとコピーライトの不連続性が体系なのか?システムシステムと言いながらシステムのフィッシュボーンに依存し過ぎて結論ありきになってはいないかと少しシニカルな気持ちになる。悲観しているのか楽観しているのかそれさえ「悲観」と「楽観」の語彙に依存しているような。思考の骨に血を通す段階で血と骨を入れ替えれば、甲殻類的思考とでも言うのか。体得していることが体得していないことに干渉されないように保護プロテクトとしての言語能力。切り込まれても切り込まれてもいなせるチカラが言語の本丸だとも考えている。さて、刀は何本持てばいい、傷はどこまでなら自己治癒の対象なのか・・・?である。