電子という枕詞。

 「電子」というニュアンスが本体になるまで時間がかかる。これが一般の認識のようですが、「紙」というメディアが本体になるまでにかかった時間よりも比較にならないスピードでそれがスタンダードになりつつあるという警鐘はさてどこまで真実味があるのだろうか。何基準でそんな仮説が成立するのだろう?それは希望的観測なのか。ただ、常に希望的観測の振幅こそがスタンダードになるための伏線であったことは真実なので、これも言わば過渡期と捉えるのが現代的なのかもしれない。古典的モノサシを決して「電子」に適用できないことも真理。ニーズがあるから変化が伴うのである。それこそ電子のスピードでそれらは進化していると言えるのでしょうね。さて、「電子」についてあまり掘り下げている新聞の記事やニュースを見ないがそこはもしかしてブラックボックスなのだろうか。いわゆる「電子」ですよ。分子・原子の電子ならばそれ相当の背景をくみ取らねばとも思うのですが、そこはツールに展開された場合、意外とスルーされているような。

 逆に「電子」という最新の技術をして、何故?すでに存在する「書籍」や「新聞」や「雑誌」を模倣しなければいけないのかという視点はどうか?「電子」の技術なら、これらの形態や様式を模倣せずとも独自の進化系を歩めばいいのに、なぜ、あえてすでに存在する形態を手法を取り込まなければいけないかという問題点についても意外とスルーされているような。例えば「電子XXXX」という新しい価値観で情報をサーバから端末に落として相互に連携させるような仕組みならば、何も「書籍」のテイは必要ないはず。なのにあえて「書籍」「BOOK」とするのはそれ相当の理由があるからである。それは、「電子」をスルーして「書籍」をくみ取らなければならない何かとなる。そして、「電子書籍」という言葉が成立している。

 さて、端末の技術が今後どのような進化をたどるかは一般市民的には未定としても、技術ならどこかに物理的な限界点が存在するだろうし、人間が使うツールとしての進化ののびしろもそう極端な形態ではないはず。人間工学がどこまで進化しても、所詮1Gの世界で体重30~80kgの生物が2本の手と10本の指で使う道具にどこまで進化が歩み寄ってくれるのだろうか。今後、人間の視力や聴力や筋肉がどこまでどうなるかまでも予測しているのかという仮説も必ずツールの進化には影響を及ぼしているはず。では、人間の生物としての進化の予測と道具の進化は連動しなければいけないはずだから、そのあたりをあらゆる分野の最先端の人達の頭の中はどうなっているのやら・・・である。

 で、一句、「白うさぎ、電子の穴で、ウエルカム」。