天の邪鬼であるべき。

 元来、どうも、この気質が損をしているとは思っているが、実はこの部分こそが創作のキモだとも考えている。それをいろいろな書籍や書評で知るごとにそれを確認して肯定と否定のラインを引いている。その感覚がいつしかテッパンになりそうだと意識してしまうと、それをまた天の邪鬼が否定する。肯定と否定を繰り返して創作意欲のスパイラルが上を向く。これをどこかのクラスで手を打った人は創作の畑から必ず出ていかれる。あ~あ~でちゃったなぁ~と思ってもその人に対してそう言うことはない世界のお話。

 出ていく人は明らかに出ていく。そして、外からそれを眺めている。つまり、肯定も否定もせずにただそのままを見ている状態。手を出すことなく声も出さず傍観・黙殺している。そういう方とは明らかにシンクロできないし、コミュニケートの手だてが見つからない。歩み寄りたいが外にいてはどうしようもない。適当な話題でお茶を濁すことはできるが、外で手を叩きたい人は多いし、外で投げる野次に終始している人も多い。そういう人は観戦料を払って早く会場から出ていってほしい。フィールドに降りてこないと何も始まらない。意外と土の上は冷たいモノ、芝生の上は熱いモノである。このディテールはそこに立たなければ感じることができない。決して、モニターの中から湧き出て手の中に落ちてくることはない。

 天の邪鬼気質が確実に「創作」に相応しいとは断言できないが、肯定をなかなかしない人は楽しいし魅力がある。その瞬間は「なんやねん、こいつ!」と思うが、あとでその方の言葉を反芻すると原石がたくさんちりばめてくださったことに気がつく。そういう人こそがまさに「宝」なのである。だから、私も同じフィールドの人には常にではないが、天の邪鬼モードで対峙している。肯定はするが、鵜呑みはしない。それが長年のコミュニケーションの軸になってくると、どこかフィールドなのかをしっかりと意識できるようになる。しかし、同じフィールドは飽きる。だから、他流試合をするようにしている。道場を破るだけの実力があればいいのだが、猛者も多い。コテンパンになったり、入口のところで「失礼しました!」と一礼して引き下がる武士の魂も持ち合わせているつもりです。だから、いつでも刀は磨いておきたいと思っています。いい意味で他人も自分も裏切ることで一定のモチベーションがキープできるような気がしますね。