著作権を振りかざす人。

 著作権はのぼりではない。著作権は法典ではない。けっして無意味にに振りかざしたり奉るものではないように感じる。が、あらゆる意匠を著作物として規定する人達の真意はいかに?何のためにそれをそうするのかという根幹的な部分がどこをリサーチしても緩い。それを古今東西までエリアを広げてみると、どこかにそのルーツがあるのだろうかとも思い、リサーチするが、意外と緩い。まぁ、法律と同じレベルの組み上げ方であるから所詮何かの理由で利便性と便宜上の文章化に過ぎないのだろう。法の裁きが絶対だとする立場の人には得てして一定のパターンがある~と考察するある書籍を発見した。この場合もこの著者がリサーチした文脈であるからその著者のさじ加減ひとつではあるが、できるだけ中立に著作権について語ろうとする姿勢は素晴らしいと思えた。こうありたいと願うがやはり長いものには巻かれてしまう立ち位置は否めない。巻かれるぐらいない巻き返したいとも思うがそれはそれでこちらの生命線を断たれても無意味なのでそっとしておきたいとも考えている。

 さて、ミニマムな著作権のお話。デジタルコピー時代にそもそも正当な著作物の定義とはどうあるべきなのだろうか?開発者がこれはフリーですと言った場合それは共有され、これは著作物ですと言ってしまった場合それは保護されるというお話を、開発者や著作者意外の人はどう受けて止めているのか?がとても気になる。何も考えず、何も創らず、何も守るべきクリエティブに関わっていない人にかぎり、それを振りかざすのは何故だろう?何も上と下の優劣の関係のお話ではないが、結局、文章化された書面で著作権の寄贈をほのめかして、それを得て規定し乱用している諸機関の人の軸足はどこだ?もっと自分のくさりの長さを自覚して欲しい。そこから先の話は口を出さす鎖に繋がれているエリアで吠えていればいいじゃん!それが耐えられないからと言って鎖は外さないほうがいい。外の世界でかみ殺されない保証はないですよって感じ。だから野犬は自由に放浪し、カラスは好きな場所で好きなモノを食する特権を得て、外敵から危険を察知・回避するスキルを身に付けているのですから。あなた達など鎖をはずせば瞬殺ですよって感じ。能ある鷹はそれを隠しているものです。

 そう思うと国宝彦根城が小さく思える。城はそこに君臨する主君の象徴。どうやら、現在はそれが不在らしい。がめつい商人が牙城の未来を描けない時代にその要因を求めるのは容易いですが、その時代にそこに存在する責任もその立場の人は会得していないと。不徳な新聞の記事用の泥試合を誰が見たいだろう聞きたいだろう。本丸はそこではないはず。「もみ消す力」と「概念の力」が盾と矛にならなないように、生産的な和解から生まれる創造の芽をリスペクトしてほしい。