非言語の伝導率。

 デバイスが進化する以上、ニーズは拡散される。新しいニーズとはそもそも?と言い始めるとそのスパイラルが綻ぶようにも思える。もう、言語上の理性は表裏一体感を失い、それぞれの磁場に散り始めているように思える。その原因を歴史や言語の収束力に求めないようにしたいが、それがルーツでありそれがルールである以上根底は揺るがない。言及すれば「iPad」とは何か?となる。右のほおをぶたれれば左のほおを差し出す精神なのか、八百万の神が宿っていると認識するのか、色即是空な情報経路にアイデンティティを見つける努力をするのか?飽和している情報の駒を何かで繋げるために一躍を担うことができるのか?期待値は決して低くはないがラクダのこぶの頂きが相対である世界にその真価はどうリンクさせるのだろう?と、ちょっと大きめのふろしきを広げてしまったが、つまり、言語が担ってきた流通というか思考のアウトプット経路と非言語(音や絵や触感や味覚)との関係性をあの白髪のご老体はどうにかして丸く収めたいとでも考えているのだろうか。英語圏と日本語の伝導率、はたまた他の言語の伝導率をこのデバイスがどこまで集約するのだろう・・・がもっとものびしろのある論点だと思う。

 で、デザインやアートの担う部分。デジタルコンテンツをアナログなスキルで分解し再構築する作業の行程上、どの節をどの脈を紡げばそれは淀まないのか。というのもある企画申請書を今読解しているのですが、どうも、最近このテイの企画書の荒ばかりに気持ちが奪われ本丸の部分をコミュニケートできないジレンマがある。これが若干ストレスになり、その作用を反作用に変えるエネルギーがどうも非生産的に感じられる。創るとは繋ぐ能力であるから、ここに違和感を感じてしまうと悪腫瘍のようにそれがすさまじいスピードで転移する感じが心地悪い。腹を切り、摘出したらそれはダイヤの原石だったという化学反応があることもあるので開くまでそれを悪腫瘍だと決めないように努力はしているが、無影灯で影を作らずその部位を照らしているつもりでも、それが見えにくいことが辛い。つまり、これらは手の術なのだろう。メスと鉗子だけでは部位にたどり着けないもどかしさ。仮に発見できたとしてもすでに転移が認められやもなくそのまま縫合して死期を待つ~みたいな。悪い部位を摘出することで生命線を断つ結果にならぬようにスーパードクターの技と知識と判断力が非言語を扱うエキスパートにはより求められている時代だとも言えるように思います。末期の患者に死期を通達する時、医師は笑顔であるべきか、感情を押し隠し伝えるべきことのみを伝えるべきなのか。共に涙し人生の価値観をそれぞれの患者と共有する器が必要なのか。伝導率を考察することはオペとクランケの関係にも似ているよに思うのです。

 ただ、自分の身体の中にも悪腫瘍が存在しないという確証はないので、日々、手探りであることを忘れぬこと。