小説という商品。

 衣食住、趣味趣向、様々な商品が市場に氾濫している。代価に見合う商品を日々のルーティーンでユーザーは購入し、デベロッパーは市場をリサーチし流通を動かしメディアを拡販し購買力をコントロールしている。それらをベースに経済や文化や歴史が流動的に時間の経過の中で進化と退化を繰り返す・・・と端的にフレームだけを文字にすれば今起こっていることはこれだけに納まらなくはない。しかし、そこに一喜一憂があり紆余曲折があり試行錯誤があり切磋琢磨があるからドラマチックになる。そんな飽和する商品の中で「一冊の小説という書籍」は非常に特別な商品のように思える。まぁ、単行本で¥3,000まで、文庫本で¥1,000までという単価がそれぞれの発行部数に見合う制作コストをかけて制作され、上記の流れの通り、メディアや流通や販売店の意向、ニーズの是非で、ユーザーの手に渡る。しかし、「いい小説」の条件にはどのような商品でも同じであるがそれを求める「いいユーザー」が必要である。この場合の「いい」は誰が作り何を指しているのだろうか?という部分で、さらにこの「いい」が分解でき分類できるような気がします。ただ、小説を書いている人目線で言えば、頭の中にあるイメージや構想やノウハウを文章化することで小説というカタチは完結し、その次の段階で印刷や製本や販売営業・販売戦略を経て書店に並ぶ。となると「いい小説」は著者が筆を置くまでに確定しているということになり、他の専門書や雑誌のように「多くの手」を「多くの知恵」を「多くの広告主」を結集させなくとも完成する、しているという仕組み。これは、言わば、ひとつの芸術なのである。陶芸家が土を練って作品を創る。それを、欲しい人が代価を支払い購入する。非常にシンプルな仕組みなのである。しかし、時代と共に仕組みもニーズも変化し、作家のスタイルも変化している。それが上記の通り「進化か退化か?」は・・・のみぞ知る的な暴論に任せ、やはり、変化していることは否めないし、「いい小説を作者が創り、いいユーザーが購入する。」という仕組みはいくらアマゾンが便利なろうが、いくら街の書店がクローズしようが同じなのである。まぁ、これらの進化と退化はあらゆるビジネスの現場で起こっていることではあるが、最終的に生産者とユーザーがいればこの仕組みは成立する。進化の過程でその中間で綱渡りをしている人は確実に退化・排除される。というか合理化される対象になるのでしょうね。いい生産者であるためにいいユーザーであるべきなのである。

 「それは、お前が好きな小説を買うためだけの無駄使いの言い訳にしか聞こえない。」と感じる方は、もしや、綱の上の人なのかな???