理解度について。

 まぁ、この言葉はそのままモノゴトを理解する度合いのことを意味しているが、さて、深く分解すると意外と安易に日頃この言葉を使っていないだろうかと感じた。情報が飽和している時代に情報はリサーチすれば迅速に自分のパソコンに落ちてくる。それを見て理解することを目的にマッチさせることが一番肝心な部分ではあるが、本体の理解度がどこまで目的に対してマッチしているかについて推し量る術はないような。理解度を上げましょうと言うがそう簡単にこれは上がらないぞ。自分のルーティーンでやっていることが実は結構浅かったりしないのだろうか・・・。ちょっと、じっくりこのことは検証していきたいですね。

 例えば、「歴史」を理解するとはどういうディテールだろうか。史実をトレスして著者の意図をくみ取り文脈を読むことでそれが客観であれ著者の主観であれ、物事の全体像を知ることができる。そこからの語彙や文脈をどのように自分の中に組み込むかがまず導入だろう。しかし、同じ言葉を読んでもその人の予備知識やポテンシャルの度合いによって幅によってはどのようなフォルムでその内容が入ってくるかが異なるはずである。つまり「知る」ひとつとっても幅が想定される。長文や論文になればそれこそ読解力の部分と文脈からのイメージ力がその深度を左右するだろう。

 で、それを入れた段階から頭の中で反芻が始まるわけですが、これも相当その人のポテンシャルで入るディティールが異なる。どのようにそれらをまとめて資料化するか知識化するかアウトプットの準備をするかなどのノウハウ的なところが技術的にというか論理的に異なるはず。で、そのことで組織的にグループ的に新しいアクションのための方法論を練る場合、そのまとめ方の部分と出し方の部分の能力が理解度と呼べるような。同じことを同じ言葉でコミュニケートしていても出てくるモノが異なる不思議。

 が、逆に言わばデザインという仕事はこの連続である。新しいテーマを投げられ回収し集め反芻しプラン化・プロジェクト化してアウトプットする。この一連のルーティーンが仕事のフレーム。手元の資料が不足しているから表現が劣化するという若いクリエイターとも仕事をしたことがあるが、それは、資料不足ではなくあきらかにポテンシャル不足。そのことはどのような説明も不可のガチのリアル。それは説明や資料で得られるモノではないからである。こんなことを繰り返してきたから、「禅」の世界観に時に惹かれたりもするのかもしれない。だから、自己に対して常に啓発と警鐘と刺激を取り込む訓練をしていないと、つまり、「そういう人」になり、理解できないことを外因に委ねてしまうのである。ひとことに「理解度」、深い考察と分析が必要だと思った。