錯覚の科学。

 「錯覚にはいろいろな種類がある。まずは、物理的錯覚(蜃気楼やドップラー効果)、知覚的錯覚(だまし絵や錯視)、認知的錯覚(不注意や感違い)に分けられる。本書で言う錯覚は認知的錯覚である。注意、記憶、推論、自己認識などの錯覚が具体例や文献とともにわかりやすく解説されている。認知的錯覚は、その誤った見方・捉え方を訂正して正しく認識し直すことが可能だる。ところが、人間にはその訂正能力を過大に見積もる「錯覚」もある。それにもっと気を配ろうと著者たちは言う。例えば、原題になっている「見えないゴリラ」は心理学や神経科学の研究者の間では有名な面白デモで、バスケットボールのパスをしている中をゴリラの着ぐるみが胸を叩いて目立つように横切るという動画があるが、パスを数えている観察者の約半数はゴリラに気がつかなかった。注意の資源は有限だということだ。しかし、「そんな目立つものは簡単に気づくはずだ」と多くの人は考える。これが「錯覚」だ。たとえば、クルマの運転中の携帯電話の使用はハンズフリーの機種でも注意が不足して危険なのだが、多く人はそうは思わない。著者たちは「モーツァルト効果」をやり玉に挙げる。「モーツァルトの音楽を聴くと頭がよくなる」という迷信のことだ。この迷信の発生源は科学誌「ネイチャー」に1993年に掲載された論文であるという。モーツァルトを聴く被験者群、リラグゼーションのテープを聴く群、同時間黙って座っている群に事後テストしたら、モーツァルトを聴いた群の「抽象的推理能力」得点が他よりも高かったというのだ。心理学としてはずいぶん甘い実験計画である。どうダメなのかは本書を読んで頂くとして、この迷信は科学的な批判を浴びても沈静化するばかりか、何のデータもないのに「モーツァルトをこどもに聴かせるとよい」という方向に化けていく。その他、能トレやサブリミナルに言われているような効果はないなど、エセ科学への批判は容赦ない。直観的な思考の危うさも指摘する。もっとも、本書は啓蒙書ではなく、大人向きの楽しい科学本である。翻訳も素晴らしい。」とある記事に記載されていた。全文抜粋しました。

 批判することは簡単であるが、批判するためには軸がいる。それは、歴史や文化や経済も含めた慣習というか生活レベルの臭いのようなもの。その中に存在する軸が多面的に意識されていないとこの洞察や分析は散漫になるだろう。もとより、現在の日本、景気が低迷していた上に、この度の東日本大震災の影響と福島原発の歴史的な大事故でこの臭いがそれこそ濁っている。まさに、錯覚が生まれる混沌とした状態の極みである。「祈り」をベースにこの混沌とした情勢の隙間にトラップが仕掛けられる可能性がある。投資家達の錯覚、国家間の錯覚、個体と個体間に生じる数多の錯覚をどう制御するのかこそが、今、世界規模で問われているような気がする。正解はない。信じるものが救われるという暴論にも共感はできない。科学という軸が全ての正解を導き出せるとも思わないが、ひとつの有効なアプローチであることはリアルである。多くの尊い命を代償にfakeよりに心が傾かぬよう軸足を鍛えたい。祈るとは失ったものへの尊厳を軸に今ある命をその先へ繋げること。例えそれが錯覚でもいいから、掴み抱き温かい大切なモノを守ること。