絵は嘘をつかない。

 今更ながら思うことは、絵を描くと自分の中身が出てしまうということ。言葉でどれだけいいこと言っても、絵にすると嘘偽りは露呈する。悲しいかな露呈する。口でどれだけ雄弁に語っても一枚の絵にはかなわない。たぶん、音楽もデザインも映像も同じだろう。最近そんなことがよく気になる。実は絵を描くということはとても凄いことなのかもしれないぞ・・・と。気持ちがのっていないとき、モチベーションが下がっていると、やはり、絵はそうなる。気持ちが高まってピュアになっているとやはり絵はそうなる。だまし絵とかというテイの絵でさえ、実は騙すということに純粋に対峙していないと、緩いことしか刻印できない。文字を記すとは、精一杯純粋に文脈を練ろうが、その側面は多面であることから、どう伝わるかが受け手サイドのポテンシャルにかなり影響を受け、時に、反意なニュアンスに転換されて伝わることもしばしば。しかし、絵は違う・・・というか、絵は正直でありガチでありピュアであるから、描き手と絵の関係はピュアであることを前提に、そこに自分自身の中にある嘘を挿入する余地がない。それが絵の最大の特長だと考えるように感じるようになった。表面的な技術や画材やテーマの重い軽いでは決して絵は判断できない。誰がどのような気持ちで描き出したかが間違いなくそこに刻印されているのだから。これが、ドローイング系のソフトウエアやベクトル系のデータとなると、また、純度が異なり、混ざり物が混入する。

 で、デザインも同じ。「デザイン」が見えている人のデザインはやはり、上手い!しかし、緩い経験値と幼いアプローチと洞察のコンビネーションではやはり成果物が緩くなる。とはいえ、自分自身常にテンションの高いデザインをできるということではない。やはり、気分や同調のレベルが多様であり、そこは人間のやっていることだから濁りや絞り込みがあまくなる場合もある。時間に追われると、コンセントレーションがマッチせず、流してしまうこともある。しかし、時間があるからテンションが充実しているとも限らないこの不思議な相関性をどこまでセルフコントロールできるか・・・もこの仕事の醍醐味。

 言わば、成果物でコミュニケーションできないスキルでは作用も反作用も緩いということ。絵を描くこと、デザインを創ること、人と人のコミュニケーションにIDを示すこと。なかなか、これだ!という正解がないだけに試行錯誤が続く。でも、それも楽しいから「もっともっと!次へ次へ!」と続けられてきたとも言えなくない。

 ジンセイでもっとも大切なことは、やはり、「継続」なのである(by スリムクラブ)。