若狭の海。

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 娘が撮影してきた写真です。曇天の日本海とスポーツカーの構図です。写真というのは撮影する人の何かが画面に定着されるわけで、同じ風景を同じ時間に撮影してもどこか違う。勿論、カメラの精度やレンズの違いで画質は左右されるし、技術やセンスなども影響する。そして、同じ撮影している人でも多分気持ちや感覚の部分で写真はどうにでもなる。まして、映像ならそれがカメラの精度やレンズの種類の違い以上の映像の質が撮影する人のポテンシャルに依存する。

 アクション的に写真はシャッターを切るだけで撮影はできるだけにその一瞬の気持ちというか構図への感覚的なこだわりが写真のチカラを左右するのだろう。また、それは風景ひとつ、モチーフひとつにしても同じ。撮影者の心が動かない、このモチーフを撮影しようという気持ちがなければそのモチーフを選択・チョイスしないわけで、写真をいろいろな場面で見るがそれがそこまでひとつひとつの変数を捉えなくとも、人はそれらを漠然と感じ取り感動したり癒されたり刺激を受けたり無視したりしているということなのでしょう。だから、写真は誰が撮影したかで大きくそのニュアンスやフィーリングが異なって来る。

 まず、私は車があまり好きではないのでほとんど車の写真を撮影しない。つまり、どんなにスポーティーな車でもクラシックな車でも味のある車でも車は車なのである。よって、カメラを持っている条件で仮に素晴らしい車がそこにあっても写真を撮ることはない。仕事以外に。ので、この写真をそういう目で見た時、まず、「ああ、この写真はどこか気になるが、自分なら撮影しないなぁ~」という視点で気になった。赤い車に対して「赤い車」以外にのびしろを感じないし、ここから「自分が運転したら・・・」とか「この車で走ったら・・・」というイマジネーションは湧きあがらない。だから、逆に気になるのかもしれません。

 写真はテレビ・新聞・雑誌・ポスター・パンフレット・WEBサイト・映像コンテンツ・仕事場の写真フレームの中などなど、日常いろいろな場面で接点があり目に触れる機会に溢れているが、それが仕事なだけに、写真という表現手法に対して下手をするとその効果や印象度に対して麻痺している部分がある。仕事というメガネで写真を見過ぎて、純粋に写真に対する愛着が薄れている状態。だから、お客様にもよく注意・忠告されるのですが、「お前の撮影する写真はどうも愛がない・・・と。」これはズバリなのである。何に対しても表面的に流してはいけないいけないと頭で感じていて注意していても、心の指針が動かないモノに対してはどう自分に言い訳をしても心の指針が振れない。無理苦理奮い起しても、やはり、写真に対して愛を感じている人の写真には到底太刀打ちはできないというパワーバランスなのです。

 これが、逆に「絵画」や「イラストレーション」や「デザイン」や「WEBサイト」に置き換わった時、そこに、くだらないぐらいに無意味なぐらいに情動を逸するぐらいに愛を感じる。特に「絵画」については「もう、そこだけは、絶対に、ゴッホにもスーラにもロートレックにも負けたくない。」ってぐらいの愛があると感じて止まない。だから・・・つまり・・そういうことなのである。全てはそこの部分なのである。そこが「らしさ」の部分。

 たぶん、若狭の海の畔に赤いスポーツカーが駐車してあっても私はカメラを向けることがないだろうが、娘がアンドロイドで撮影してきたこの写真を見て、そんなことを感じてしまいました。なんだか不思議な魅力の部分に惹かれましたね。自分の中には存在しない感覚が娘の中にはあるのか・・・と。